第十一話
「ひゃあぁぁぁ……っ!」
巨大な舌による一舐めは、もはや洗礼だった。
瑠璃は仰け反り、顔を真っ赤にして固まる。見れば、ゴールデンレトリバーのヨダレで彼女の顔はツヤツヤと濡れ、夕日を浴びてテカテカに輝いている。
「……瑠璃、顔がひどいぞ」
奏多は苦笑しながら、ポケットから清潔なハンカチを取り出した。
「お、お恥ずかしい……! でも、わたくし、この子に愛されたのですね……!」
テカテカの顔で満面の笑みを浮かべる瑠璃は、もはや令嬢の雰囲気などどこへやら。
奏多は「じっとしてろ」と告げ、彼女の頬を優しく拭ってやった。
「えへへ……この子達、みんなわたくしのことが好きみたいですわ……」
顔中よだれまみれで嬉しそうに呟く瑠璃。
両腕にチワワとポメラニアンを抱え、膝の上にパピヨンが丸くなって完全に犬の玉座と化していた。
気づけば午後四時。滞在時間、約三時間。
二人のスマホには犬まみれの写真が大量に保存されている。瑠璃とゴールデンが並んで寝そべる一枚、ダックスを頭に乗せた瑠璃、奏多がチワワを抱っこしている横顔。どれもこれも、瑠璃のはしゃぎっぷりが凄まじい。
名残惜しそうに、最後のミニチュアシュナウザーを撫でながら瑠璃が呟く。
「うぅ……お別れが辛いですわ……この子たち全員お持ち帰りしたい……」
店員が「あはは……」と苦笑している。
以前にも、規格外の提案をする客に遭遇した経験があるのかもしれない。
店を出ると、夕方の渋谷は人混みでごった返していた。土曜の夕暮れ時、買い物客やカップルが行き交う喧騒が戻ってくる。
瑠璃はきょろきょろと周りを見回し、奏多の袖をくいと引いた。
「それで、クレープ屋さんはどちらですの?」
目がきらきらと輝いている。「ただ犬と遊ぶだけ」という条件を完璧にこなした瑠璃への報酬。約束のクレープが待っているのだ。
二人はクレープ屋へと向かって歩き出す2人。
「それにしても、あの子たち可愛すぎましたわね! 奏多様、見ましたか? あのトイプードルのつぶらな瞳!」
瑠璃はまだ興奮が冷めやらない様子で、先ほどまで抱きしめていた犬たちの感触を確かめるように指を動かしている。
「ああ、見てたぞ。瑠璃が犬に埋もれてたところはな」
「もう、奏多様ったら! でも、あのゴールデンレトリバーの愛の重さ、忘れられませんわ……!」
「顔、テカテカだったぞ」
「あはは……もう、言わないでくださいまし!」
二人はそんな他愛のない会話で笑い合いながら、渋谷の雑踏を歩いていく。
……しかし、その視界の端では、人知れず「掃除」が行われていた。
「おい、あいつじゃね? 先週SNSでバズってた……スマホ回せ、今のうちに撮っとけ!」
スマホのカメラを向け、執拗に二人の距離を記録しようとする一団がいた。しかし、彼らがシャッターを切るより速く、群衆の中に紛れていたはずの、見覚えのある黒い影が滑り込む。
「――おや。まだ懲りない方々がいらっしゃるようです」
洗練された所作で男たちのスマホを奪い取り、手首を極める。迷いのないその動きは、紛れもなく綾部のものだった。
「プライバシーの侵害ですよ。……お嬢様の平穏を乱すような真似は、二度と許可いたしません」
綾部が氷点下の声で言い捨てると、待ち構えていたSPたちが影のように現れ、男たちを路地の奥へと連れ去る。所要時間三秒。人混みの中、誰一人としてその異変に気づく者はいなかった。
そんな騒動があったことなど露知らず、奏多は瑠璃の様子を伺う。人混みがさらに激しくなってきた。
(はぐれたら面倒だしな……)
奏多は意を決して、瑠璃の手をそっと取った。
「……! 奏多様?」
「人混みが凄いからな。逸れると厄介だろ」
平然を装って告げたが、奏多の心臓は早鐘を打っていた。瑠璃の手は驚くほど細く、熱を帯びている。触れている場所から意識が離れず、内心では冷や汗が出るほど動揺していた。
瑠璃は一瞬ぽかんとした後、顔を真っ赤にして、しかし嬉しそうに奏多の指を握り返した。
「……はいっ! しっかり、繋いでおりますわ!」
そんなやり取りを経て、二人はクレープ屋の前に到着した。小さなキッチンカーで、手書きのメニューボードが可愛らしく立てかけてある。
メニューボードを覗き込み、瑠璃が感嘆の声を上げる。
「まぁ! 種類がこんなに……! ストロベリーチーズ、マンゴーカスタード、抹茶ティラミス、プレミアムショコラ……迷いますわ!」
瑠璃の目が、メニューと同じくらいキラキラと輝いている。
「奏多様はどれにしますの? おすすめがあれば、瑠璃、それに合わせますわ!」
列が進み、ついに二人の番がやってきた。
列の先頭までやってくると、奏多は懐かしいキッチンカーの調理場を見つめた。看板の横には、昔お世話になった気さくな店長——菅元店長の顔がある。
「瑠璃、実はここ、俺が昔バイトしてた店なんだ。俺のオススメ、食べてみないか? 俺が焼いてあげるよ」
ぱちくり。
「え……バイト!? 奏多様がここでクレープを!?」
瑠璃の声が周囲に響き、何人もの客が振り返ったが、彼女は全く気にしていない。
「つまり奏多様の手作りクレープ……それってもう、プロポーズでは!?」
「……違う」
奏多の冷静な否定をよそに、調理場の向こうで手際よく生地を焼いていた菅元店長が、奏多の顔を見た瞬間に目を見開いた。
「おっ、おい! お前、奏多か!? 奏多じゃねえか!」
鉄板の前から身を乗り出して叫ぶ。生地が焦げかけたが気にもしていない。隣のスタッフが慌ててヘラで救出した。
「お前いつ辞めたっけ? 半年? いやぁ、久しぶりだなぁおい! なんだなんだ、デートか? このべっぴんさん誰だよ!」
奏多は笑って追及を誤魔化した。
奏多の袖をくいくいと引っ張りながら小声で瑠璃は尋ねる。
「あの方がお師匠様ですの……? 奏多様、わたくしのために焼いてくださいますの?」
「あぁ、少し待ってて」
奏多は店長に向き直り、あらためて頭を下げた。
「ご無沙汰してます、菅元店長。一枚だけ、この子にクレープ焼かせてくれませんか?」
菅元の視線が瑠璃と奏多の間を忙しなく往復する。職人気質だが人懐っこい笑顔は昔のままだ。
「がはは! 当たり前だろ! お前が焼くってんなら任せるよ! おい、場所代われ!」
スタッフを押しのけて、菅元は奏多を調理台の前に立たせた。使い込まれた鉄板、生クリームのボトル、各種フルーツが並ぶトレイ。半年ぶりだが、体が覚えている匂いと音。
「ほれ、好きに使え。材料は全部あるからよ!」
奏多は慣れた手つきでエプロンを締める。瑠璃はキッチンカーの外側から身を乗り出すようにして、食い入るように奏多を見つめていた。
「奏多様のクレープ……奏多様のクレープ……!」
小声のつもりが、全く小さくない。
列に並んでいた他の客たちも「あの子の彼氏が焼くの?」「なんか面白そう」と、ひそひそ声でこちらを窺っている。
そして案の定、少し離れた電柱の影から、鋭い視線が向けられていた。綾部が腕を組んで立っている。SP二名はさらに少し離れた位置で待機中。
護衛対象がクレープを焼き始めるという想定外の事態に、綾部の紫の瞳だけが、じっとその手元を見据えていた。




