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箱入り令嬢のフルスイング、庶民の俺がすべて受け止めます  作者: 有世剣斗


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第十話



SNSでの騒動は、天宮家の広報対策課の手によって、まるで最初からなかったことのように沈静化した。


動画は削除され、アカウントは凍結され、インターネットの海に流れた一瞬の泡沫は、法務チームの強力な「掃除」によって跡形もなく消え去った。

ただ、その余波で学園内の奏多に対する視線は、以前とは少し変わってしまった。


「実は奏多って、とんでもない名家の隠し子なんじゃないか?」

「いや、天宮の跡取りと婚約しているらしい」

そんな噂がまことしやかに囁かれ、奏多は「身に覚えがない」と首を振る毎日を過ごしていた。


騒ぎが完全に沈火したある金曜の夜。

ようやく元の平穏な生活に戻れたことに安堵しながら、奏多は自室のソファに身を沈めた。

そこでふと、週末に瑠璃と約束していたことを思い出す。


(そういえば、行き先すら何も決めてなかったな)


慌ててスマートフォンを取り出し、瑠璃の連絡先を開く。

時刻は夜の十時を過ぎているが、彼女のことだ。きっとまだ起きているだろうと推測して通話ボタンを押す。


コール音は一回も鳴り切らなかった。

「はいっ! 奏多様!?」

まるで受話器を握りしめて待っていたかのような、即答だった。

電話越しだというのに、彼女の弾むような声が耳元をくすぐる。


「……瑠璃。夜遅くに悪い」

「とんでもないですわ! ずっとお待ちしておりましたの!」

「ああ……週末の約束の件だけど」

「はい! もちろん空けておりますわ。何処へ連れて行ってくださるのですか? お城? それとも無人島? 貸切クルーズも手配できますわよ!」


奏多は思わず苦笑し、先日の夕食会で綾部から聞いた話を思い出した。

——ハスキーを三十頭飼いたいと駄々をこねた話。

どれだけ荒唐無稽でも、根底にあるのは動物への純粋な愛情だったはずだ。


「……いや、今回はもっと気楽な場所だ」

奏多は少しだけ声を落とし、優しく言葉を続けた。

「犬カフェに行かないか? 瑠璃、犬が好きだろう」

「……っ」

電話の向こうで、瑠璃が息を呑む音が聞こえた。

数秒の沈黙の後、彼女の声が信じられないものを見るかのように震え出す。


「……奏多様。わたくし、夢を見ておりますの?」


「いや、現実だ。……行かないか?」


「行きますわ!! むしろ今から向かいますわ!!」


「いや、明日の話だからな。……落ち着け」

呆れつつも、奏多は思わず口元を緩めていた。



そして翌日。


土曜日の昼下がり。渋谷の雑踏から少し外れた路地裏に、その犬カフェはあった。「もふもふパラダイス」という、いささか直球すぎる店名の看板が風に揺れている。


待ち合わせは午後一時。現在、十二時三十分。

「犬好きなら喜ぶだろう」と気を利かせたはずだが、三十分も早い到着は少々空回りだったかもしれない。奏多は店の前で、苦笑しながら己のスマホを眺めた。



店の奥からは、きゃんきゃんという子犬の愛らしい鳴き声が漏れ聞こえてくる。ガラス越しに店内を覗くと、数人の客が小型犬に囲まれて和んでいた。


その時だった。路地の空気が、ピリリと張り詰める。

黒塗りの車が音もなく店の前に停まった。見覚えのある車種。先週、さんざん乗り回されたリムジンそのものだ。



「……また、とんでもないものが来たな」



ドアが開く。降りてきたのは金髪の令嬢……ではなく、サングラスをかけた屈強なSP二人。続いて、執事服に身を包んだ綾部が気だるげに車から降りてきた。


彼女は髪をかき上げながら、呆れたように店を見上げた。

「……ここですか。セキュリティ的に最悪ですね。路地裏で死角だらけ。狙撃ポイントが三箇所もあります」



「戦場視察じゃないんだぞ……」

奏多のツッコミも虚しく、綾部とSPたちはまるで煙のようにその場から消えた。SPは向かいのカフェへ、綾部本人はどこへ潜んだのか、気配すら感じさせない。恐ろしいプロの仕事だった。


そして午後一時ちょうど。通りの角から、ぱたぱたと小走りで駆け寄ってくる金色の影が見えた。


今日の瑠璃は私服だった。白いワンピースに大きなリボン、足元はストラップ付きのサンダル。

制服姿とはまた違う、年相応の愛らしさに奏多は一瞬目を奪われる。


――ただし、胸元のブランドタグがすべてを台無しにしていた。一点六桁はくだらないだろう代物が、堂々と自己主張している。


「奏多さまぁーー!!」


瑠璃は叫びながら全力疾走してくる。道行く人が一斉に振り返った。

「おい、走るな! ……危ない!」


勢いそのままに突進してきた瑠璃は、ブレーキに失敗し、ぽすんと奏多の胸に顔を埋めた。

「はぁ……はぁ……間に合いましたわ……!」


たった二百メートルほどの距離だが、瑠璃は肩を激しく上下させている。顔を上げると、彼女は太陽のような満面の笑みを浮かべた。


「今日はわたくしもデートプランを考えましたの! 犬カフェのあとは、屋上にヘリを呼んで、スカイダイビング体験を……」


「……瑠璃、一言いいか」

奏多は深い溜め息を吐き、彼女の額を指先で軽く小突いた。


「ここは渋谷だ。屋上にヘリを呼ぶのも、スカイダイビングを強行するのも、全部禁止だ。……今日は、ただ犬と遊ぶ。それだけにする」


「ええっ、そんな……」

不服そうな瑠璃を見下ろしながら、奏多は小さく笑った。


「その代わり、帰りには一番旨いクレープを奢る。これで手を打たないか?」


「……く、クレープ?」


サファイアブルーの瞳がまんまるに見開かれた。ヘリの話はどこへ行ったのか、瑠璃は呆然と奏多を見つめている。


「奏多様が……わたくしに……奢ってくださる……?」

そこか。そこだけが彼女の耳に届いたらしい。瑠璃は両手を頬に当て、くねくねと身悶えし始めた。


「それってつまり、あーんってしてくださるということですわよね!? 一口ちょうだい的な!? 間接キス的な!?」


「誰もそんなこと言ってない。ただの帰り道の寄り道だ」

奏多の冷静なツッコミも、今の瑠璃には届かない。しかし、彼女の中で何かが決まったらしい。ぱんっと両手を合わせると、先ほどまでの熱が嘘のように落ち着いた。


「わかりましたわ! ヘリもスカイダイビングも我慢します! 今日は犬さんと遊ぶだけ! 約束ですわ!」

莫大な予算の企画が、クレープ一個で呆気なく撤回された。


奏多は小さく肩をすくめ、店のドアを開ける。

「……じゃあ、行こうか」

「はいっ!」

二人が足を踏み入れると、「いらっしゃいませー!」と明るい声が迎えてくれた。店内はパステルカラーで統一され、あちこちにケージやクッションが置かれている。十数匹の小型犬が自由に走り回る、まさに犬の楽園だった。


「わあ……! 夢のようですわ……!」

瑠璃が目を輝かせた瞬間、足元にちょこちょことトイプードルが一匹寄ってきた。くるんとした毛玉のような、まん丸の瞳。

「か……っ!」

瑠璃が声にならない悲鳴を上げる。


「この子、瑠璃のこと気に入ったみたいだな」

奏多が笑いながら見守る中、クリーム色のトイプードルは短い足を動かしながら瑠璃の足元をぐるぐると回り始めた。尻尾がちぎれんばかりに振れている。そして、ついに瑠璃の靴紐をはむはむと甘噛みしだした。


「ひゃあぁぁぁ!! か、噛まれてますわ! でも可愛い! 可愛すぎますわ!」


しゃがみ込んだ瑠璃に、さらに別の影が忍び寄る。茶色いミニチュアダックスフントが、躊躇なく瑠璃の膝にのそのそと乗っかった。

「に、二匹目……!? わたくし、モテ期ですわ……!」


令嬢のフェロモンでも出ているのか、気づけば瑠璃の周りにはチワワ、ポメラニアン、パピヨンといった小さな毛玉たちが大集結していた。


「奏多様ぁ……助けてくださいまし……幸せすぎて溶けちゃいますわ……」


犬の山に埋もれ、瑠璃が救いを求めるような視線を送ってきたその時だった。

店の奥、ケージの向こうから、のそりと大きな影が現れた。

ゴールデンレトリバーだ。体重は優に二十キロを超える堂々たる体躯が、のっしのっしと瑠璃の方へ歩いてくる。周囲の小型犬たちが、まるでモーゼの十戒のようにさっと道を開けた。まさにボスの風格である。


ゴールデンは瑠璃を見下ろし、ふんふんと鼻を鳴らした。

次の瞬間――べろん。

巨大な舌が、瑠璃の顔を豪快に一舐めした


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