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名前のない距離

月曜日の朝、蒼太はいつもより十五分早く経理部のデスクに着いた。


窓から差し込む朝日がオフィスを淡く染める中、誰もいないフロアでパソコンを立ち上げる。週末の凛音との時間が、まだ頭の片隅に残っていた。一緒にスーパーで買い物をして、生姜焼きを作って、すっぴんの彼女を見て——。


あの童顔の輪郭。三年前、コンビニの前で泣いていた女性と同じ顔。もう確信している。凛音は、あの時の女性だ。


なのに、彼女は何も言わない。自分も、聞けないでいる。


「おはよう、蒼太」


聞き慣れた声に顔を上げると、翔真が営業カバンを肩にかけたまま経理部のエリアに入ってきた。わざわざ寄り道してきたらしい。金髪にピアス、相変わらず営業部のエースとは思えない風貌だが、その目は妙に鋭い。


「……おはよう」


蒼太が短く返すと、翔真はデスクの端に腰を下ろし、じっと蒼太の顔を覗き込んだ。


「なあ、最近お前、幸せそうだな」


「は?」


思わず眉をひそめる。翔真はニヤニヤと笑いながら続けた。


「いや、前よりなんか……柔らかいっつーか。顔の筋肉が三本くらい緩んでる感じ」


「意味わからん」


蒼太は視線をパソコンに戻し、メールチェックを始めた。しかし翔真は引き下がらない。


「おい、それ」


翔真の指が、デスクの端に置かれた布製の弁当袋を指した。シンプルな紺色の袋だが、よく見ると小さな刺繍が施されている。凛音が「味気ないから」と言って、わざわざ買い直してくれたものだった。


「……何が」


「その弁当袋。小さい刺繍入ってんじゃん。その弁当、自分で作ったのか?」


蒼太の手が一瞬止まる。


「……もらった」


沈黙が落ちる。一秒、二秒——そして翔真の顔に、勝ち誇ったような笑みが広がった。


「だから言っただろ?」


「何がだよ」


「隣のギャルの子。絶対お前のこと好きだって言っただろ。毎日弁当作ってくれてんじゃねえか」


蒼太は眉間を揉んだ。否定しようとして、でも否定できる材料がない。実際、凛音は毎朝——それこそ土日以外は——手作りの弁当を届けてくれている。最初は「作りすぎた」と言っていたが、今ではそんな言い訳すらしなくなった。


「……別に」


「別にじゃねえよ。彼女が作る弁当、美味いだろ?」


「彼女じゃない」


「じゃあなんだよ」


翔真の問いに、蒼太は答えられなかった。隣人? 友人? それとも——。


言葉が見つからないまま、蒼太は黙り込む。翔真は大きく息を吐いた。


「お前さ、その『別に』とか『普通』とか言うの、そろそろやめたら?」


「……うるさいな」


「感情出さないのがカッコいいと思ってんなら、大間違いだぞ。あの子、お前の反応見て一喜一憂してんだから」


言いたいことだけ言って、翔真は立ち上がり、肩を叩いた。そのまま営業部へと去っていく背中を見送りながら、蒼太は弁当袋を見つめた。


しばらく、動けなかった。



昼休みになり、蒼太は自席で弁当を広げた。


今日の中身は、鮭の塩焼きに卵焼き、ほうれん草のおひたし、そして白米の上に小さな梅干し。凛音の弁当は、いつも彩りがよくて、でも派手すぎない。蒼太の好みを完璧に把握しているかのようだった。


「藤崎さん」


声をかけられて顔を上げると、経理部の女性社員——入社二年目の山本が、興味深そうな目でこちらを見ていた。


「ん?」


「そのお弁当、いつも美味しそうですよね。藤崎さん、彼女できたんですか?」


周囲の視線がこちらに集まるのを感じる。蒼太は箸を止め、どう答えるべきか考えた。


「いや、隣の——」


言いかけて、止まる。


隣の、何だ?


「隣の……?」


山本が首を傾げる。蒼太は観念したように小さく息を吐いた。


「……隣人です」


「隣人……? ええと、仲のいい隣人、ということですか……?」


山本の目が丸くなる。それはそうだろう。毎日弁当を作ってくれる隣人など、普通はいない。


「まあ、そんな感じです」


曖昧に答えて、蒼太は弁当に視線を戻した。山本は「そうですか……」と納得していない様子で自席に戻っていく。


蒼太は卵焼きを口に運びながら考えた。


——隣人。


その言葉が、どこか嘘のように感じられた。


午後の仕事に戻っても、昼の会話が頭から離れなかった。


伝票を処理しながら、蒼太は凛音のことを考える。毎朝の弁当、週末の一緒の食事、廊下での「おはよう」と「おかえり」。気づけば、凛音のいない日常が想像できなくなっている。


美羽と付き合っていた三年間とは、何もかもが違う。


美羽との関係は、「彼氏」「彼女」という明確なラベルがあった。でも実態は、蒼太が一方的に尽くし、美羽がそれを受け取るだけの関係だった。


凛音との関係には、ラベルがない。でも——毎日が、確かに満たされている。


小さく呟く。


「隣人……か」


首を振った。そんな言葉で片づけていいのか。凛音は毎日、時間をかけて弁当を作ってくれている。足を痛めた時も、すっぴんを見られて恥ずかしがっていた時も、いつも蒼太のことを気にかけてくれていた。それは「隣人」がする行動じゃない。


じゃあ、何なんだ。


——三年前、あいつにタクシー代を渡した。それだけのことで、三年間も想い続けてくれているのか。


凛音があの時の女性だと気づいてから、蒼太の中で何かが変わり始めていた。彼女の行動の一つ一つが、違う意味を帯びて見える。でも——。


——俺はあいつのことを、どう思っているんだ。


三年前に助けた女の子だから、放っておけないのか。それとも、それ以上の何かがあるのか。自分の感情が、恩返しへの応答なのか、本当の恋愛感情なのか、整理がつかなかった。


答えが出ないまま、定時を迎えた。蒼太はパソコンを閉じながら、今夜凛音に会うことを考えていた。映画を見る約束をしている。


その約束が、なぜか胸の奥を温かくさせていた。



午後七時、蒼太は凛音の部屋のインターホンを押した。


「はーい!」


弾んだ声とともに扉が開く。凛音はいつものギャルメイクだが、服装はラフなスウェットだった。部屋着なのに、どこかオシャレに見えるのは職業柄だろうか。


「入って入って! 準備万端だから!」


「……おじゃまします」


凛音の部屋に入るのは、これが初めてだった。甘い香りのするリビングには、ソファの前にスナック菓子とジュースが用意されていた。テレビには動画配信サービスの画面が映っている。


「ねえ、恋愛映画見ない?」


凛音がリモコンを操作しながら聞いてくる。蒼太はソファに腰を下ろしながら答えた。


「いいけど」


「じゃあこれ! 今ランキング一位のやつ!」


凛音が選んだのは、若い男女の純愛を描いた映画だった。蒼太は特に興味はなかったが、凛音が楽しそうなので異論は唱えなかった。


「隣、座っていい……?」


凛音が妙に緊張した声で聞いてくる。蒼太が「ああ」と答えると、凛音はそろそろとソファに腰を下ろした。


二人の間には、拳一つ分ほどの隙間がある。


凛音が再生ボタンを押し、映画が始まった。


映画が始まって十五分。


蒼太は画面を見ているふりをしながら、全く内容が頭に入っていなかった。


隣に凛音がいる。その事実だけで、妙に意識が散漫になる。凛音の髪から漂うシャンプーの香り、時折こちらをチラチラと見る視線、ポップコーンを取ろうとして手が触れそうになるたびに慌てて引っ込める仕草。


全部が、気になって仕方がない。


凛音も同様だった。画面では主人公の男女が出会うシーンが流れているが、凛音の意識は完全に隣の蒼太に向いている。


心臓が煩い。映画を見ようと提案したのは自分なのに、全然集中できない。蒼太の横顔を盗み見て、視線が合いそうになって慌てて画面に戻す。その繰り返し。


「……面白いか?」


蒼太が唐突に聞いた。


「え!? う、うん! 面白い!」


凛音は慌てて頷いたが、実際には主人公の名前すら覚えていない。


二人は互いを意識しながら、映画を見ているふりを続けた。


映画の中盤に差し掛かった頃。


主人公の男女が、夕暮れの公園で向かい合っていた。甘いBGMが流れ、二人の顔が近づいていく。そして——唇が重なった。


その瞬間、蒼太と凛音の空気が凍りついた。


画面では情熱的なキスシーンが続いている。カメラがゆっくりと二人を捉え、ロマンチックな音楽が盛り上がりを見せる。


蒼太も凛音も、微動だにできなかった。


沈黙が重い。


画面のキスはまだ続いている。なぜこんなに長いのか。蒼太は目のやり場に困り、凛音は顔から火が出そうになっていた。


「こ、これ!」


凛音が突然叫んだ。蒼太が「……ん?」と振り向く。


「別に私が選んだわけじゃないし! ランキング上位だっただけで! キスシーンあるとか知らなかったし!」


必死の弁明。しかし声は裏返り、顔は真っ赤だ。明らかに動揺している。


「わかってる」


蒼太は努めて平静を装って答えた。でも実際、心臓は普段より速く打っていた。


キスシーンが終わり、画面は次の場面へと移った。


蒼太はちらりと隣を見た。凛音は髪で顔を隠すようにしながら、じっと画面を見つめている。その耳が——真っ赤に染まっているのが見えた。


髪色が明るい分、余計に目立つ。


蒼太は視線を画面に戻しながら、なぜか胸の奥がざわついた。


凛音は照れている。それがわかる。自分も、少し照れている。こんな気持ちになるのは、いつ以来だろう。美羽といた時には、感じたことがない感覚だ。


映画は後半に差し掛かっていた。主人公たちの恋は山場を迎えているらしいが、蒼太にはもう内容が頭に入らなかった。


隣にいる凛音のことだけが、やけにリアルに感じられる。


ふと、凛音がこちらを見た気がした。視線が合いそうになり、二人同時に画面に目を戻す。


何も言わない。何も言えない。


でも、その沈黙が——不思議と心地よかった。



エンドロールが流れ始めた頃、蒼太は腰を上げた。


「そろそろ帰るわ」


「あ、うん……」


凛音も立ち上がり、玄関まで見送りについてきた。蒼太が靴を履き、ドアノブに手をかけた時——。


「ねえ」


凛音の声が、小さく響いた。


「ん?」


「また、来て……いい?」


蒼太は振り返った。凛音は両手を胸の前で組み、上目遣いでこちらを見ている。いつもの強気な態度はどこにもない。ただ純粋に、答えを待っている目だった。


「いつでも」


蒼太の口から、自然とその言葉が出た。


凛音の目が輝いた。


「約束だから」


念押しするように言う凛音に、蒼太は「ああ」と頷いた。


約束。その言葉が、やけに重く感じられた。でも、嫌じゃない。むしろ——。


「じゃあな」


蒼太はドアを開けた。廊下の蛍光灯が眩しい。


一歩踏み出そうとした時、凛音の声が背中を捉えた。


「ねえ」


「……なんだ」


「私のこと……なんだと思ってる?」


蒼太の足が止まった。


振り返ると、凛音は玄関の扉枠に寄りかかり、こちらを見ていた。その表情は、笑っているようにも、泣きそうにも見えた。


沈黙が流れる。


蒼太は考えた。凛音のことを、なんだと思っているのか。隣人? 友人? それとも——。


三年前の女性。あの時、泣いていた女の子。それが凛音だと、もう知っている。彼女が三年間、自分を想い続けてくれていたことも、たぶんわかっている。


でも——自分の感情が、わからない。


あの時助けた女の子だから、大切に思うのか。それとも、凛音という人間そのものに惹かれているのか。その境界が、自分の中でまだ曖昧だった。


言葉が、出てこなかった。


わからないのに、嘘はつきたくない。


「……わからない」


正直に、そう答えるしかなかった。


凛音は一瞬、目を伏せた。それから、小さく笑った。


「…………そっか」


その声は、どこか震えているようだった。


「おやすみ、蒼太くん」


「……おやすみ」


扉が閉まる。蒼太は廊下に一人取り残され、しばらくその扉を見つめていた。


何か、言うべきだったのかもしれない。でも、何を言えばよかったのか、わからなかった。


重い足取りで、隣の自分の部屋へと戻った。



扉を閉めた瞬間、凛音は背中をドアに預けて、ずるずるとその場に座り込んだ。


「わからない……か」


呟いた声が、静かな部屋に溶けていく。


期待していた。もしかしたら、何か——好きとか、大切とか、そういう言葉が返ってくるんじゃないかって。


でも、返ってきたのは「わからない」だった。


涙が、一筋頬を伝った。


「……泣かない」


凛音は目元を拭い、ゆっくりと立ち上がった。リビングに戻り、テーブルの上のノートを手に取る。


『蒼太くん攻略計画』


三年間、想いを綴ってきたノート。最初のページには、三年前の日付と、震える字で書かれた文章がある。


『今日、タクシー代を貸してくれた人がいた。顔はよく見えなかったけど、声が優しかった。名前も、連絡先もわからない』


凛音はノートを胸に抱きしめた。


「待つしかないよね……三年も待ったんだし」


窓の外では、月が静かに輝いていた。


「でも、いつか——絶対、振り向かせるから」


その決意を胸に、長い夜が更けていった。


——壁一枚隔てた向こう側で、蒼太もまた、眠れぬ夜を過ごしていることを、凛音は知らない。

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