1万円の約束
冬の夕暮れ。凛音は自室のデスクに向かい、引き出しをそっと開けた。
化粧品やアクセサリーの奥、小さな透明ケースの中に、色褪せた一枚の紙が眠っている。
「……あった」
震える指でそれを取り出し、胸の前で両手に包んだ。タクシーの領収書。日付は3年前の12月。金額は8,700円。紙の端は少しだけ黄ばんで、折り目がついている。何度も何度も、取り出しては眺めてきた証拠だった。
「3年か……」
窓の外では、夕焼けがビルの隙間を橙色に染めている。凛音は椅子の背もたれに体を預け、目を閉じた。瞼の裏に浮かぶのは、あの夜の光景。人生で最も惨めで、そして最も大切な夜の記憶——。
3年前、12月の夜。都内の繁華街は、イルミネーションと酔客の喧騒に溢れていた。
居酒屋の裏口から吐き出されるように店を出た凛音は、路地裏の壁に背中を預けて泣いていた。
「……っ、ひっ……」
アパレルブランドに入社して半年。初めて任された取引先との会食は、惨敗だった。緊張のあまり、取引先の部長にワインをこぼした。慌ててフォローしようとして、さらに失言を重ねた。帰り際に先輩から言われた言葉が、胸に刺さったまま抜けない。
「『見た目だけ派手でも意味ない』……か」
派手な髪、派手なメイク、派手な服。それが自分のアイデンティティだと思っていた。でも今夜、それが全て裏目に出た。
「こんなミスして……もう終わりだ……」
涙でマスカラが溶け、頬に黒い筋を作る。スマホを見ると、終電まであと15分。急いで駅に向かわないと——そう思って、ハンドバッグを探る手が止まった。
「……嘘」
財布がない。会社のロッカーに入れたまま、会食用の小さなバッグだけを持ってきてしまったことを思い出す。交通系ICカードも、現金も、何もない。凛音は崩れ落ちるように、その場にしゃがみ込んだ。
終電に間に合わないことを悟った凛音は、駅前のコンビニの前で立ち尽くしていた。
深夜0時を過ぎた駅前は、酔った人々がちらほらと通り過ぎるだけ。誰も、壁際でうずくまる派手な髪の女に目を向けない。
「どうしよう……帰れない……」
スマホのバッテリーは残り12%。実家は地方で頼れない。友人に連絡しようにも、入社したばかりで深夜に呼び出せるような関係の人はいない。冷たいアスファルトが、薄いタイツ越しに体温を奪っていく。12月の夜風は容赦なく、凛音の頬を撫でた。
「……誰か……」
通り過ぎる人々の足音。誰も助けてくれない。当然だ。こんな深夜に、派手な格好で泣いている女なんて、関わりたくないに決まっている。凛音は膝を抱え、顔を埋めた。
その時だった。
「——終電、なくなった?」
不意に、声が降ってきた。
凛音は顔を上げた。涙でぼやけた視界に、一人の男性が映る。黒髪を無造作に整え、量販店のスーツを着た、どこにでもいそうな青年。仕事帰りらしく、肩からはビジネスバッグを提げている。
「あ、あの……」
声が震える。見知らぬ人に話しかけられた驚きと、惨めな姿を見られた恥ずかしさが入り混じる。
男性は凛音の様子を一瞬だけ見て、それ以上は何も聞かなかった。崩れたメイクにも、涙にも、触れない。ただ淡々と財布を取り出し、一枚の紙幣を差し出した。
「タクシー代、貸そうか」
1万円札だった。
凛音は目を見開いた。意味が分からなかった。見知らぬ、しかも深夜に泣いている怪しい女に、なぜこの人は——。
「え……でも、私、知らない人から……」
「困ってるんだろ」
男性の声は平坦だった。感情がこもっているようには聞こえない。でも、その無表情の奥に、確かな温かさがあった。
「深夜に駅前で座り込んでたら危ないから。タクシーで帰った方がいい」
凛音は、震える手で1万円を受け取った。
「返す……」
立ち上がり、男性の服の袖を掴んだ。
「必ず返すから、連絡先教えて」
自分でも驚くほど必死な声だった。このお金を返さないわけにはいかない。見知らぬ人の好意を踏みにじるようなことは、絶対にしたくない。
しかし、男性は首を横に振った。
「いいよ、困ったときはお互い様だから」
「でも——」
「いいから」
男性は凛音の手をそっと外し、タクシー乗り場の方を顎で示した。
「気をつけて帰って」
それだけ言うと、男性は踵を返した。
凛音は呆然と立ち尽くす。名前も知らない。連絡先も知らない。1万円だけを残して、男性の背中は夜の街に溶けていく。黒いスーツの背中。少し猫背気味で、特別に目立つところはない。でも、その背中は——凛音の目に、誰よりも眩しく映っていた。
「待って……!」
叫んだ時には、男性の姿は人混みに紛れて見えなくなっていた。
タクシーの後部座席で、凛音は窓に額をつけていた。
車窓を流れていく夜景。ネオンの光が、涙で濡れた頬を照らす。手には、まだ1万円札を握りしめている。
「なんで……なんでこんな優しい人がいるの……」
嗚咽が漏れた。止められなかった。
今日一日、散々だった。仕事で失敗して、先輩に怒られて、終電を逃して、財布を忘れて。人生で最悪の夜だと思った。でも、最後の最後に——あの人が現れた。何も聞かず、何も求めず、ただ助けてくれた人。
凛音は1万円札を胸に抱きしめた。
「絶対に……この人を見つける」
窓の外で、一人の男性の背中が遠ざかっていく錯覚を見た。凛音は、その時すでに——恋に落ちていた。
翌週から、凛音の「捜索」が始まった。
手がかりは少なかった。あの夜、男性が向かった方向。駅から北西。時間帯は深夜0時過ぎ。仕事帰りのスーツ姿。毎日、仕事が終わると駅周辺を歩き回った。同じコンビニに通い詰め、同じ時間帯に張り込んだ。
「いない……今日もいない……」
周囲から見れば、完全に不審者だった。でも、凛音は諦められなかった。あの1万円が、財布の奥で凛音を急かしている気がした。
——そして1週間後。
必死で彼を探し続けていたある日、自分の住むマンションのエレベーターに乗り込んだ時——
「——っ!」
凛音の心臓は止まりそうになった。
エレベーターの中に、あの人がいた。黒髪を無造作に整え、量販店のスーツを着た、どこにでもいそうな青年。あの夜、1万円をくれた人。
男性は凛音を一瞬見て、軽く会釈をした。それだけ。凛音のことを覚えている様子はない。当然だ。あの夜、凛音はメイクが崩れて別人のような顔をしていた。
エレベーターが5階に着き、男性が降りる。凛音の部屋は、その隣だった。
「あの人……同じマンションに住んでる……!」
部屋に入り、凛音は崩れ落ちた。
「運命だ……絶対、運命だ……!」
奇跡としか思えなかった。探しても探しても見つからなかった人が、隣の部屋にいる。これは神様がくれたチャンスだ。
——でも、そこからが長かった。
現在。凛音は目を開けた。
夕焼けはいつの間にか夜に変わり、部屋は薄暗くなっている。回想に浸りすぎた。手の中のタクシーの領収書を見つめる。3年間、ずっと持っていた。返そうと思いながら、返せなかった。
「……違う」
返す口実で話しかける勇気がなかったのだ。
『藤崎蒼太』——隣人として知った彼の名前。表札にはそう書いてあった。経理部勤務で、毎朝7時にマンションを出て、夜8時頃に帰ってくる。几帳面にゴミを分別し、エレベーターで会った住人には必ず会釈をする。3年間、ずっと見てきた。
「ずっと見てた……ずっと好きだった」
領収書を胸に抱きしめる。1万円。いつか返さなければいけないお金。でも今は、それ以上に——
「いつか、ちゃんと返さなきゃ……お金じゃなくて、この気持ちも」
凛音は深呼吸をした。最近、ようやく距離が縮まった。弁当を渡すようになった。一緒にご飯を食べるようになった。一緒に映画も見た。『私のこと、なんだと思ってる?』という問いには『わからない』と言われてしまったけれど。今なら、もしかしたら——。
翌日の夕方。
凛音は意を決して、マンションの廊下で蒼太を待ち伏せしていた。仕事から帰ってくる時間を見計らって、自分も「たまたま帰ってきた」体を装う。いつもの作戦だ。
エレベーターが5階で止まり、扉が開く。
「あ」
蒼太が降りてきた。いつもの量販店のスーツ、いつもの無表情。でも、凛音を見ると、ほんの少しだけ目元が緩んだ気がした。
「おかえり」
凛音は精一杯の笑顔を作る。心臓がうるさい。
「ただいま……って、俺が言うのも変か」
「変じゃない!」
食い気味に否定してしまい、凛音は慌てて視線を逸らす。落ち着け。今日は聞きたいことがあるんだ。
「ねえ」
「なんだ」
凛音は深呼吸をした。さりげなく、さりげなく。
「昔のこと……覚えてる?」
蒼太の表情が、一瞬だけ変わった。驚いたような、それでいてどこか穏やかな——。
「昔か」
蒼太は凛音の顔をじっと見つめた。その視線に、凛音の心臓が跳ねる。
「……どうだろうな」
曖昧な答え。でも、その声はどこか優しかった。まるで、何かを待っているような——。
凛音は息を呑んだ。この人は、もしかして——。
「あのね、実は——」
凛音は言いかけて、止まった。
蒼太が静かな目で待っている。急かすでもなく、ただ穏やかに。
言ってしまえばいい。3年前の冬、駅前で泣いていた女は私だと。タクシー代の1万円、ずっと持っていると。あの夜から、ずっと好きだったと。
でも、口が動かない。怖い。言ってしまったら、何かが変わってしまう気がする。今のこの関係が、壊れてしまうかもしれない。
「……なんでもない」
凛音は笑顔を作った。作り笑いだと自分でも分かる。
「また今度ね。今度、ちゃんと話す」
蒼太は少し間を置いてから、小さく頷いた。
「そうか。じゃあ、待ってる」
——待ってる。
その言葉に、凛音は目を見開いた。待ってる、と蒼太は言った。まるで、凛音が何かを話すことを知っているかのように。
「あ、今度ご飯食べよ。一緒に」
「ああ、いいぞ」
蒼太が自分の部屋に入っていく。凛音はその背中を見送りながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。
言えなかった。また、言えなかった。3年間、ずっとそうだった。チャンスは何度もあったのに、いつも最後の一歩が踏み出せない。
でも——「待ってる」と、蒼太は言った。
自室に戻った凛音は、そのままベッドに倒れ込んだ。
「あーもう!なんで言えないの、私!」
枕に顔を埋めて、足をバタバタさせる。情けない。あれだけ覚悟を決めたのに。
でも、蒼太が「待ってる」と言っていた。それは、希望だった。
凛音は起き上がり、デスクの引き出しを開けた。タクシーの領収書を取り出し、もう一度見つめる。
「いつか、全部話す」
凛音は領収書を胸に抱きしめた。
「お金も返す。気持ちも伝える。全部、全部」
今はまだ、勇気がない。でも、いつか必ず。蒼太が全てを知っているのか、それともまだ気づいていないのか——分からない。でも、このまま曖昧にしておくつもりはない。
凛音は領収書を丁寧にケースに戻し、引き出しの奥にしまった。
「待っててね、蒼太くん」
窓の外で、隣の部屋の明かりが灯る。壁一枚隔てた向こうに、3年間想い続けた人がいる。凛音は小さく笑った。
まだ言えない。でも、いつか絶対に——。
その夜、凛音は『蒼太くん攻略計画』ノートを開いた。新しいページに、今日の出来事を書き込む。
『蒼太くん、私が「昔のこと」って聞いたら、「待ってる」って言ってくれた。もしかして、全部知ってる……? 分からない。でも、私は自分から話す。その時、全部伝える。絶対に』
ペンを置き、凛音は深呼吸をした。
3年間の片思い。もうすぐ、次のステージへ——。
凛音は真実を自分から告げるのか、それとも蒼太が先に全てを明かすのか。二人の間に横たわる3年間の秘密が、ゆっくりと形を変えようとしていた。




