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11/30

すれ違う影

十二月に入ったばかりのオフィス街は、冷たい風が吹き抜けていた。


藤崎蒼太は会社を出て、いつもの定食屋へと足を向けた。昼休みの喧騒が街を包み、師走特有の慌ただしさが空気に満ちている。


ポケットの中でスマホが振動する。画面を確認すると、凛音からのメッセージだった。


『今日のお弁当、卵焼き甘すぎなかった?ちょっと砂糖入れすぎたかも……』


蒼太は歩きながら、無意識に口元が緩むのを感じた。


今日の弁当も美味かった。卵焼き、甘すぎるなんてことなかった。あいつ、いつもああやって心配してくるけど——。


三ヶ月前までは、昼休みに誰かとメッセージを交わすことなど考えられなかった。美羽と付き合っていた頃でさえ、昼食の報告など求められたことはない。


凛音との日常は、静かに、しかし確実に蒼太の生活を塗り替えていた。毎朝の弁当、帰り際の「おかえり」、週末の一緒の食事。それが当たり前になりつつある。


『ちょうどよかった』


短い返信を打ちながら、蒼太は自分の変化に気づいていた。


交差点で信号を待ちながら、ふと前方に目をやった。見覚えのある後ろ姿が、雑踏の中に溶け込んでいる。


ハイトーンの髪、ブランドのコート、高いヒール——。


一瞬、時間が止まったような錯覚を覚えた。


あの後ろ姿を、蒼太は三年間見続けてきた。忘れるはずがなかった。


いや、まさかな。こんなところに——。


そう思った瞬間、女性が振り返った。


「あ、ソウちゃん!」


予感は確信に変わった。桐谷美羽。三年間付き合い、二ヶ月前に別れた元恋人が、目の前で驚いたように目を見開いていた。


「……桐谷」


蒼太は意識的に苗字で呼んだ。かつては「美羽」と呼んでいた。彼女がそう呼ばせたのだ。でも今は、その名前を口にする理由がない。


美羽の表情が一瞬曇った。


「えっ……桐谷、って」


傷ついたような、困惑したような色が瞳に浮かぶ。しかしそれも束の間、すぐにいつもの営業スマイルを貼り付けた。


「あはは、なんか久しぶりすぎて変な感じ。元気?私、近くで仕事の打ち合わせだったの」


嘘だ、と蒼太は思った。美羽の職場はここから電車で三十分はかかる場所にある。仕事の打ち合わせでこのエリアに来る理由がない。


しかし、それを指摘する必要も感じなかった。


「そうか」


素っ気ない返事に、美羽は少し困ったような笑みを浮かべた。以前の蒼太なら、こんな時は何か話題を探して場を繋いでいただろう。美羽を困らせないように、沈黙を埋めるために。


今は、その気力が湧かなかった。


「最近どう?」


美羽が一歩近づいてきた。香水の匂いが鼻をつく。高級なブランドのはずだが、今の蒼太にはただ重苦しく感じられた。


「別に。普通だよ」


「そっか」美羽は少し間を置いて、核心に触れてきた。「彼女とかできた?」


蒼太の脳裏に、凛音の顔が浮かんだ。今朝、弁当を渡してくれた時の照れた表情。「別に、あんたのためじゃないし」と言いながら差し出された二段重ねの弁当箱。


しかし、蒼太は首を横に振った。


「いや、特には」


なぜ嘘をついたのか、自分でもわからなかった。凛音を守りたいという本能が働いたのかもしれない。あるいは、美羽にこの幸せを知られたくないという防衛反応か。


美羽の表情が、ほんの一瞬、安堵に緩んだのを蒼太は見逃さなかった。


「そっか、ソウちゃんらしいね」


その言葉に、蒼太は眉をひそめた。らしい、とはどういう意味か。三年間付き合っていて、美羽は自分の何を見ていたのだろう。


「俺らしいって、どういう——」


言いかけた時、背後から聞き慣れた声が響いた。


「お、元カノじゃん」


日向翔真が、いつもの軽い調子で割り込んできた。金髪にピアス、営業部のエースらしい人懐っこい笑顔。しかしその目は、美羽を値踏みするように冷たく光っていた。


美羽の表情が強張った。翔真のことは覚えているはずだ。蒼太と付き合っていた頃、翔真は何度も「あの女やめとけ」と忠告してきた。美羽の前でそれを口にしたこともある。


「……久しぶり、日向くん」


作り笑いを浮かべながらも、美羽の声には棘があった。


「おう」


翔真は軽く手を上げただけで、すぐに蒼太の腕を掴んだ。


「蒼太、戻るぞ。午後の会議、資料の最終確認がまだだろ」


嘘だった。午後の会議など存在しない。しかし蒼太は、翔真の意図を理解して頷いた。


「ああ、そうだな」


「ちょっと待って」美羽が一歩踏み出した。「ソウちゃん、連絡——」


「じゃあな、桐谷さん」


翔真が遮るように言い放ち、蒼太を引っ張って歩き始めた。背後で美羽が何か言おうとしている気配がしたが、蒼太は振り返らなかった。


オフィスビルの角を曲がり、美羽の視線が届かなくなったところで、翔真は足を止めた。


「あいつ、なんか企んでるぞ。気をつけろ」


真剣な表情だった。いつもの軽い調子は消え、翔真は親友として本気で心配している顔をしていた。


「もう終わったことだから」


蒼太は肩をすくめた。事実、もう終わったのだ。美羽との三年間は、確かに存在した。しかし今の蒼太には、凛音がいる。過去に執着する理由がない。


「終わってないのはあっち側だろ」


翔真は腕を組んで、蒼太を見据えた。


「さっきの会話、全部聞こえてたぞ。『彼女できた?』とか探り入れてきてたじゃん。しかもお前、なんで嘘ついたんだ?凛音ちゃんのこと、言わなかっただろ」


痛いところを突かれた。蒼太は言葉に詰まった。


「……面倒だったから」


「嘘つけ」


翔真は溜息をついた。


「お前は凛音ちゃんを巻き込みたくなかったんだろ。わかるよ、その気持ちは。でもな、美羽は絶対また連絡してくる。あの顔は諦めてない顔だ」


蒼太は黙り込んだ。


「……わかってる」


「わかってるなら、ちゃんと対処しろよ。お前の優しさは、あの女には通じない」


翔真の予言は、数時間後に的中することになる。



午後六時。経理部のデスクで、蒼太は最後の書類を片付けていた。周囲のデスクはすでに空席が目立ち、静かなオフィスにキーボードを叩く音だけが響いている。


スマホが震えた。


画面に表示された名前を見て、蒼太の手が止まった。


『桐谷美羽』


ブロックはしていなかった。する理由がないと思っていた。もう終わった関係だから、連絡が来ることもないだろうと。


メッセージを開く。


『今日は久しぶりに会えて嬉しかった。元気そうで安心したよ。今度ご飯でも行かない?』


翔真の言った通りだ。


蒼太は画面を見つめたまま、返信のカーソルを点滅させ続けた。無視すればいい。それだけのことだ。しかし指は動かなかった。


既読マークがついた。美羽はそれを見ているだろう。返信を待っているだろう。


蒼太は、スマホをポケットにしまった。


返信しない、という選択。それが今の蒼太にできる精一杯の答えだった。



同時刻、凛音は自室のソファに座り、スマホを握りしめていた。


画面には、蒼太とのトーク画面が開かれている。最後のメッセージは昼の『ちょうどよかった』。それ以降、蒼太からの連絡は途絶えていた。


今日、蒼太くんから退勤のLINE来ないな……。


いつもなら、仕事が終わる頃に「今から帰る」と連絡がある。それが、今日は何もない。


昼の返信も、なんかいつもより素っ気なかった気がする……。


凛音は首を横に振った。考えすぎかもしれない。でも、何かが引っかかる。


キッチンでは、夕食の準備が進んでいた。蒼太の好きな肉じゃが。今日は一緒に食べようと思っていた。


スマホをテーブルに置き、凛音は窓の外を見た。冬の空はすでに暗く、街灯がオレンジ色に輝いている。


「なんか……嫌な予感がする」


根拠のない直感だった。しかし凛音は、三年間蒼太を見続けてきた。その視線は、彼の些細な変化も見逃さない。


今日、何かあったんだ。絶対。


その時、玄関の外で足音が聞こえた。


ゴミ袋を手に、凛音は廊下に出た。夕食の準備で出た野菜くずを捨てに行こうとしていたところだった。


視線の先に、蒼太がいた。


「あ……」


蒼太の足が止まる。


「蒼太くん。おかえり」


いつもの笑顔で声をかける。しかし凛音の目は、蒼太の表情を注意深く観察していた。


「……ただいま」


返事は、いつもより一拍遅かった。蒼太の目は凛音を見ているようで、どこか遠くを見ている。


遅い。いつもより、返事が遅い。


「なんかあった?」


凛音は思い切って聞いた。直接聞くのが怖かった。でも、知らないままでいることの方がもっと怖かった。


蒼太は一瞬、言葉を探すように視線を泳がせた。


「……ちょっと疲れただけ」


嘘だ——と凛音の直感が告げた。蒼太は嘘をつくのが下手だ。目を逸らす癖がある。今も、凛音の目を見ていない。


しかし凛音は、追及しなかった。


「そっか。ゆっくり休んでね」


そう言って笑顔を作った。本当は聞きたいことがたくさんあった。今日何があったのか、誰と会ったのか、なぜ連絡をくれなかったのか。


でも、信じることを選んだ。


「ああ」蒼太は頷いて、自室のドアに向かった。「おやすみ」


「おやすみ」


ドアが閉まる音を聞きながら、凛音はゴミ捨て場へと歩き出した。冬の夜風が頬を撫でる。


指先が震えていた。寒いからじゃない、ってわかってるけど。


聞きたいこと、いっぱいあるのに。今日何があったの、誰と会ったの、なんで連絡くれなかったの。でも、信じるって決めたから。


三年間、ずっと見てきたんだもん。蒼太くんは、そういう人じゃない。


「信じてる。私は蒼太くんを信じてる」


自分に言い聞かせるように呟きながら、凛音はゴミ袋を捨てた。


だから、大丈夫。大丈夫だから——。



壁一枚隔てた向こうで、蒼太もまた、美羽からのLINEの画面を見つめていた。


返さなくていい。返す必要ない。


でも、凛音に嘘をついた。


「ちょっと疲れただけ」——そんなわけない。あいつ、きっと気づいてた。俺が何か隠してること。


蒼太はスマホを握りしめたまま、天井を見上げた。


……ごめん。お前を、巻き込みたくないんだ。


美羽からのLINEには、まだ返信していない。カーソルは、点滅し続けている。


二人の間に、小さな溝が生まれようとしていた。

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