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12/30

嫉妬のかたち

十二月の朝。吐く息が白く染まる季節になっていた。


凛音は廊下に出ると、隣室の扉の前で深呼吸をする。両手には、昨夜から仕込んだ弁当箱。今日は鶏の照り焼きを中心に、だし巻き卵、ほうれん草の胡麻和え、そして彩りに赤いプチトマトを添えた自信作だ。


インターホンを押す指が、冷たい空気で少しかじかんでいる。


数秒後、ドアが開いた。


「おはよう、蒼太くん」


凛音は努めて明るく声をかける。しかし、現れた蒼太の表情を見て、言葉が喉に詰まった。


いつもの無表情ではない。どこか焦点が合っていないような、ぼんやりとした顔。


「はい、今日のお弁当。おいしく作ったから」


凛音は弁当箱を差し出す。蒼太はそれを受け取り、「ああ、ありがとう」と答えた。


その声には、温度がなかった。機械が発した言葉のように、抑揚も感情もない。凛音の胸に小さな棘が刺さる。


「……なんかあった?」


思い切って聞いてみる。蒼太は一瞬だけ目を逸らし、「いや、別に」と首を振った。


「ちょっと寝不足なだけ」


「そう……ならいいけど」


凛音はそれ以上踏み込めなかった。いつもなら「何かあったら言ってね」と言えるのに、今日は喉が締め付けられるように苦しい。


「じゃあ、行ってくる」


蒼太はそう言い、エレベーターへ向かう。その背中を見送りながら、凛音は胸の奥に広がる違和感を持て余していた。


昨日の夜、連絡がなかったこと。今朝の上の空な態度。


何かが、おかしい。


午前十時。蒼太は経理部のデスクで、パソコンの画面を眺めていた。正確には、眺めているふりをしていた。視線はExcelのセルに向いているが、頭の中は全く別のことでいっぱいだった。


美羽からのLINE。昨夜のメッセージを既読スルーした後に送られてきた『今度ご飯でも行かない?』という追撃のLINEが、脳裏にこびりついて離れない。


これ以上無視し続けるのも角が立つ。かといって、会う約束をするのも違う気がする。何より、凛音のことが引っかかっている。


昨日、元カノと会ったことを言わなかった。いや、言えなかった。言う必要があるのかどうかすら、わからなかった。


俺と凛音は、付き合ってるわけじゃない。


そう自分に言い聞かせる。でも、弁当を毎日もらって、一緒にご飯を食べて、休日は一緒に買い物に行く。それは——何なのだろう。


「おい、蒼太」


背後から声がかかり、蒼太は我に返る。振り向くと、翔真が書類を片手にニヤニヤしていた。


「またぼーっとしてんな。彼女のこと考えてた?」


「彼女じゃない」


「はいはい、隣人ね。で、その隣人様のお弁当、今日も食べるんだろ?」


翔真はデスクに腰掛け、蒼太の弁当箱をチラリと見る。蒼太は何も答えず、弁当箱の蓋を開けた。


鶏の照り焼きが綺麗に並び、だし巻き卵は黄金色に輝いている。翔真は口笛を吹いた。


「相変わらず本気の弁当だな。これで『作りすぎただけ』は無理あるだろ」


蒼太は黙って箸を取る。口に運ぶたびに、凛音の顔が浮かぶ。今朝の、不安そうな瞳。


言うべきだったのか。凛音には、美羽のことを。


同じ頃、凛音は職場のデスクでスマートフォンを眺めていた。昼休みに入ったばかり。同僚たちはランチに出かけたが、凛音は一人残っていた。


食欲がない。今朝の蒼太の態度が、どうしても頭から離れない。


「何かあったのかな……」


呟きながら、気晴らしにInstagramを開く。フォローしているインフルエンサーの投稿、友人の近況報告、ブランドの新作情報。何気なくスクロールしていると、ふと目に留まった投稿があった。


『懐かしい人と再会』


ハイトーンカラーの髪、完璧なメイク、高そうなコートを羽織った女性。写真は街角で撮られたもので、背景にはどこかで見たことのあるビル群が写っている。


凛音の指が止まる。


この場所、蒼太くんの会社の近くじゃない?


心臓がドクン、と鳴った。


アカウント名は『Miyu_kirari』。プロフィールを開くと、フォロワー一万人超え。美容やファッションの投稿が並び、ブランド品や高級レストランの写真で埋め尽くされている。華やかで、キラキラしていて、凛音とは真逆の世界。


「懐かしい人……」


凛音は無意識にアカウントを遡り始める。過去の投稿を一つ一つ確認していく。そして、数ヶ月前の投稿で手が止まった。


『3年付き合った彼氏と別れました。もっと刺激のある人生を選びます✨』


日付は——凛音が蒼太と話すようになったのと、同じ頃。


「この人が……蒼太くんの、元カノ……」


スマホを持つ手が、小さく震えた。


凛音は昼休みの残り時間を全て使って、美羽のアカウントを隅々まで見た。高級レストランでのディナー、ブランドバッグの開封動画、海外旅行の写真。どの投稿も華やかで、フォロワーからの「羨ましい」「素敵」というコメントで溢れている。


蒼太との写真は見当たらない。彼の性格からして、SNSに載せることを嫌がったのだろう。でも、そこかしこに『彼氏』という言葉が散りばめられていた。


『彼氏がプレゼントしてくれた』


『彼氏とお揃いで買っちゃった』


『記念日ディナー、彼氏のおごり』


凛音の胸が、ぎゅっと締め付けられる。


この人と、三年も一緒にいたんだ。


三年。それは凛音が蒼太に片思いしていた時間と同じ長さ。凛音が遠くから蒼太を見つめ、話しかける勇気もなく、弁当を渡すことすらできなかった——その間ずっと、この女性は蒼太の隣にいた。


「凛音ちゃん、顔色悪くない?大丈夫?」


同僚が戻ってきて、凛音は慌ててスマホを閉じた。


「え? あ、うん、大丈夫。ちょっと考え事してただけ」


午後の仕事中も、頭の中は美羽のことでいっぱいだった。あの投稿——『懐かしい人と再会』。もしかして、昨日蒼太と会ったのだろうか。だから今朝、あんなに上の空だったのだろうか。


聞きたい。でも、聞くのが怖い。


凛音は、答えの出ない問いを抱えたまま、午後の時間を過ごした。


夜。凛音は自室のベッドに座り、スマホを握りしめていた。画面にはLINEのトーク画面。蒼太とのやり取りが表示されている。


最後のメッセージは昼の『ちょうどよかった』。それ以降、LINEの連絡はない。昨夜、廊下で会った時の『ちょっと疲れただけ』という言葉が、ずっと胸に引っかかっていた。


「聞かなきゃ……でも……」


凛音は何度もメッセージを打っては消し、打っては消しを繰り返す。


『昨日、なんか元気なかったけど大丈夫?』——重い。消す。


『仕事忙しかった?』——違う、そうじゃない。消す。


『やっぱり昨日、何かあった?』——直球すぎる。でも、昨日からおかしいんだから……これしかない。


凛音は十分近く悩んだ末、意を決して文字を打った。


『昨日からなんか元気ないけど、何かあったなら言って』


送信ボタンを押す指が震える。押した瞬間、心臓が跳ね上がった。


「……送っちゃった」


既読はすぐにつかない。凛音はスマホを握りしめたまま、布団に倒れ込む。天井を見つめながら、美羽の写真を思い出す。あの完璧なメイク、あの自信に満ちた笑顔。自分とは正反対の、キラキラした女性。


「三年も一緒にいたんだ……」


呟く声が、部屋の静寂に吸い込まれる。


スマホが震えた。心臓が止まりそうになりながら、画面を確認する。


蒼太からの返信。


『昨日、元カノと偶然会った』


たった一行。でも、その一行が凛音の世界を揺らした。


蒼太は自室のソファに座り、凛音からのメッセージを見つめていた。


『昨日からなんか元気ないけど、何かあったなら言って』


短い文章なのに、その奥にある凛音の気持ちが伝わってくる。彼女は気づいている。何かがおかしいと。


返信を打つ手が、一瞬止まった。隠すことはできる。「仕事が忙しかっただけ」と言えば、凛音はそれ以上追及しないだろう。


でも——。


嘘はつきたくない。


蒼太は自分でも意外なほど強く、そう思った。凛音は毎日、朝早く起きて弁当を作ってくれる。一緒にご飯を食べてくれる。足を痛めていたのに、俺のために大量の弁当を作ってくれた。そんな彼女に、嘘をつくのは違う。


『昨日、元カノと偶然会った』


送信ボタンを押す。短いけれど、これが真実だ。


凛音の反応が怖くないわけではない。でも、ここで嘘をついたら、何か大切なものが壊れる気がした。


既読がついた。返信を待つ間、蒼太は美羽のことを考える。三年間の付き合い。楽しかった時期もあった——はずだ。でも今、思い出そうとしても、浮かんでくるのは彼女の要求に応えるために働いた日々ばかり。


凛音といる時間の方が、よほど温かい。


スマホが震える。凛音からの返信。


『そう……会ったんだ』


その一言に、五分もかかったのだと、蒼太は後で知ることになる。


凛音の指は、スマホの上で凍りついていた。


『昨日、元カノと偶然会った』


その文字を、何度も何度も読み返す。会った。会ったんだ。偶然とはいえ、会ったんだ。


頭の中で、様々な想像が駆け巡る。どんな顔で会ったのか。何を話したのか。美羽は何を言ったのか。そして蒼太は——何を思ったのか。


「どうだった?」と聞きたい。「何話したの?」と問い詰めたい。「あの女、何しに来たの?」と叫びたい。


でも、そんなことを言う資格が自分にあるのか。凛音と蒼太は、付き合っているわけではない。ただの隣人。弁当を渡すだけの関係。


違う、そんなの嫌……。


涙が滲む。必死に瞬きをして、涙を引っ込める。聞きたい言葉を全部飲み込んで、凛音は返信を打った。


『そう……会ったんだ』


『大変だったね』


五分かかった。たったこれだけの文章に、五分。


送信ボタンを押して、凛音はスマホを布団に投げた。


蒼太は凛音からの返信を見て、眉をひそめた。


『そう……会ったんだ』


『大変だったね』


短い。いつもの凛音なら、もっと色々聞いてくるはずだ。弁当のおかずのことでさえ、嬉しそうに何度も聞き返してくるのに。


気を遣ってるのか、それとも——。


凛音が傷ついているかもしれない。その可能性に気づいた瞬間、蒼太の胸がざわついた。すぐに返信を打つ。


『別に大変じゃない。もう関係ないから』


送信して、画面を見つめる。「もう関係ない」——その言葉に嘘はなかった。美羽と再会しても、懐かしさはなかった。戻りたいとも思わなかった。むしろ、早くこの場を離れたいと思った。


今の蒼太にとって、美羽は過去の人でしかなかった。


『別に大変じゃない。もう関係ないから』


その返信を見た瞬間、凛音の肩から力が抜けた。


「もう関係ない……」


声に出して、その言葉を噛み締める。関係ない。もう、関係ないんだ。


でも——モヤモヤは消えない。胸の奥に、重たい何かが居座ったままだ。


凛音は布団に潜り込み、枕を抱きしめた。


「嫉妬なんかじゃない……」


呟く。


「嫉妬なんかじゃ……」


もう一度呟く。


「……嫉妬だわこれ」


認めざるを得なかった。完全に、嫉妬している。蒼太が元カノに会った。たったそれだけのことで、こんなにも胸が苦しい。三年間一緒にいた女性。自分が片思いしている間、蒼太の隣にいた女性。その人と、また会った。


「ずるい……」


枕に顔を埋めて、くぐもった声を出す。


「三年間も一緒にいて、振ったくせに……今更何なの……」


会ったことを正直に伝えてくれた蒼太の誠実さは、わかっている。「もう関係ない」という言葉も、嘘ではないのだろう。でも、それでも——。


「私の方が、ずっと好きなのに」


その言葉は、誰にも聞こえない布団の中で、静かに消えていった。


翌朝、凛音は午前四時に目覚ましをセットしていた。いつもより二時間早い。眠い目をこすりながらキッチンに立ち、冷蔵庫を開ける。


「今日は……負けないんだから」


誰に負けないのか、自分でもよくわからない。でも、とにかく気合いを入れなければいけない気がした。


メニューは昨夜から決めていた。メインは牛肉のしぐれ煮。サブには出汁巻き卵を少し甘めに、ほうれん草のおひたし、かぼちゃの煮物、そしてタコさんウインナー。彩りも完璧にするため、赤・黄・緑をバランスよく配置する。


盛り付けを終えて、最後に人参の飾り切りを添える。型抜きを探して、桜型、星型と迷った末に——ハート型を手に取った。


無意識だった。考える前に、手が動いていた。


「あ」


人参を型抜きして、弁当に乗せてから気づく。


「……いつの間に」


ハート型の人参が、ご飯の上でオレンジ色に輝いている。取り除こうかと思ったが、なぜかできなかった。


「まあ……気づかないでしょ」


自分に言い訳しながら、弁当箱の蓋を閉める。


午前七時半。蒼太がドアを開けると、凛音が立っていた。


「おはよう」


凛音の声は、昨日より明るい。でも、どこか気合いが入りすぎている気もする。


「今日のお弁当」


差し出された弁当箱は、いつもより重い気がした。


「サンキュ」


受け取って、蓋を開ける。


「——今日のすごいな」


思わず声が出た。普段でも十分手が込んでいるのに、今日は品数が明らかに多い。彩りも完璧で、まるでお弁当コンテストに出すような仕上がりだ。


「別に! たまたま時間あっただけだし!」


凛音は顔を背ける。耳が赤い。


蒼太は弁当の中身をもう一度見る。牛肉のしぐれ煮、出汁巻き卵、ほうれん草、かぼちゃ、タコさんウインナー。そして——ご飯の上に、ハート型の人参。


蒼太は一瞬、目を細めた。凛音はそれに気づかない。


「じゃ、じゃあ私、仕事あるから!」


「ああ」


「ちゃんと全部食べてよね!」


「食べる」


凛音は逃げるように自室へ戻っていった。蒼太は弁当箱を見つめながら、小さく笑う。


ハート型の人参。きっと彼女は、無意識に入れたのだろう。昨日、元カノの話を聞いて——それでも、こうして弁当を作ってくれる。嫉妬したのだろうか。不安だったのだろうか。それでも、自分の気持ちを弁当に込めてくれる。


「——ったく」


呟いて、蓋を閉じる。今日の昼飯が、少しだけ楽しみになった。


壁の向こうでは、凛音がベッドに突っ伏して悶えていた。


「ハートの人参、入れちゃった……絶対バレてる……死にたい……」


でも、明日もまた、弁当を作るのだろう。三年越しの恋は、一日では終わらないのだから。

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