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13/30

虚飾の涙

午後の光が、白を基調としたインテリアを淡く照らしている。


高層マンションの一室で、桐谷美羽は化粧台の前に座り、スマートフォンを構えていた。シャッター音が静かな部屋に響く。完璧な角度、完璧な光。何度も撮り直した末の一枚を確認し、美羽は慣れた手つきでハッシュタグを打ち込んだ。


「#afternoon #myroom #luxurylife……っと」


投稿ボタンを押し、いいねの数字が増えていくのを確認してから、美羽はスマホを伏せた。画面の向こうでは、一万人を超えるフォロワーたちが「素敵」「憧れる」とコメントを寄せている。けれど今の美羽には、その言葉が虚しく響くだけだった。


鏡に映る自分の顔を見つめる。完璧にメイクされた肌の下に、隠しきれない疲労の色が滲んでいる。


「……はぁ」


溜息が漏れた。視線を落とせば、化粧台に並ぶデパートコスメ。先月までは彼氏の颯太郎が「好きなの買っていいよ」と言ってくれていたのに。


見栄っ張りの借金持ち——その言葉が頭をよぎる。


颯太郎の会社が火の車だと知ったのは、つい二週間前のことだった。高級レストランでの食事も、このマンションの家賃も、全部借金で賄われていた。今月から美容代は自腹。貯金なんてほとんどない。


スマホに通知が届く。「懐かしい人と再会」の投稿についたコメントだった。


『え、誰と会ったの?』『気になる〜!』


デートなんてしていない。数日前、蒼太の会社の近くをわざと通りかかって、偶然を装って言葉を交わしただけ。美羽は自嘲気味に笑った。


「なんでこうなったんだろう」


呟きが、静かな部屋に溶けていく。


美羽はクローゼットを開けた。ブランドのバッグ、ハイヒール、ワンピース——その一つ一つに、蒼太との記憶が染み付いている。三年間、毎月のように買ってもらっていた。


バッグの一つを手に取る。去年の誕生日にもらった十五万円の限定品。「欲しい」と言ったら、蒼太は何も言わずに買ってくれた。


あの頃は、当たり前だと思っていた。当たり前すぎて、感謝することも忘れていた。


「ソウちゃんは何も言わずに払ってくれたのに」


今の彼氏は違う。金がないと知った途端、態度が変わった。「お前も少しは稼いでこいよ」——あんな言い方をされたのは初めてだった。


蒼太は、一度もそんなことを言わなかった。


刺激がないって……本当にそうだったのかな。


美羽はバッグを元の場所に戻し、クローゼットを閉めた。胸の奥がざわつく。数日前に送ったLINE——「今度ご飯でも行かない?」。既読はついているのに、返信がない。


蒼太は、いつも律儀に返信してくれる人だった。それなのに。



水曜日の夕方、美羽は渋谷のスクランブル交差点を歩いていた。仕事帰り、特に行く当てもなく街を彷徨う。家に帰っても颯太郎との険悪な空気が待っているだけだ。


人混みの中、ふと視線が止まった。


見覚えのある背中。黒髪を無造作に整え、量販店のスーツを着こなす、目立たない後ろ姿。


蒼太だ。


美羽の足が自然と止まる。蒼太は信号待ちをしている。一人で——いや、違う。隣に、女がいる。


派手なハイトーンカラーの髪、華やかなメイク、露出度高めのファッション。美羽とは真逆のタイプ。ギャル系の、派手な女だった。


「あれ……ソウちゃん?」


美羽は人混みに紛れながら、二人の方へ近づいた。信号が変わる。蒼太と隣の女が、並んで歩き出す。その距離感に、美羽は目を細めた。


近い。友人同士にしては、近すぎる。


少し離れた位置から、二人を観察する。雑貨店の前で立ち止まった二人。ギャルが何かを取り出した。小さな包みだ。


「は、はい、これ……!」


聞き取れないはずなのに、唇の動きでわかる。真っ赤な顔で何かを渡している。


蒼太がそれを受け取る。そして——


蒼太が、笑った。


美羽は息を呑んだ。小さく、本当に小さく。口角が上がっただけ。でも確かに、蒼太は笑っていた。


三年間、一緒にいた。誕生日も、クリスマスも、記念日も、何度も過ごした。高いレストランに連れて行ってもらった。ブランド品をたくさんもらった。


でも——あんな表情を、見たことがあっただろうか。


蒼太はいつも無表情だった。嬉しい時も、怒っている時も、感情を表に出さない男だと思っていた。それが「つまらない」理由の一つだった。


なのに、今、目の前で——見知らぬギャルの前で、蒼太は笑っている。


「私といた時は、あんな顔……しなかった」


二人が歩き出す。美羽はその場に立ち尽くしていた。人混みが彼女を押し流そうとするが、足が動かない。


三年間。毎週のように会って、一緒にご飯を食べて、旅行にも行って、体も重ねて——それでも、美羽はあの表情を引き出せなかった。


「私が育てたのに……」


三年間、蒼太を「彼氏」として形作ってきたのは自分だ。デートコースを決めたのも、服を選んだのも、美味しい店を教えたのも——全部、美羽がやった。


なのに。


「なんで、あんな女に……」


唇を噛む。涙が滲みそうになるのを、必死で堪えた。ここで泣いたら負けだ。何に負けるのかは分からない。でも、泣いたら終わりだという確信だけがあった。


美羽は踵を返し、人混みの中へ消えていった。



夜。美羽の部屋。窓の外には都会の夜景が広がっているが、美羽の目には入っていなかった。


化粧台の前に座り、スマートフォンを握りしめている。画面には、蒼太とのトーク履歴。数日前に送った「今度ご飯でも行かない?」というメッセージ。既読がついたまま、返信はない。


新しいメッセージを打ち込む。指が震えている。


「……前のLINE見てくれた?」


続けて打つ。


「ちゃんと話したいことがあるの」


少し考えて、付け加える。


「お願い」


送信ボタンを押した。既読がつくのを待つ。一分、二分——つかない。


鏡を見た。完璧にメイクされた顔。一万人以上のフォロワーを持つ「キラキラ女子」の顔。でも今、その顔の下に隠された本音が、鏡に映っている気がした。


「負けない……負けてたまるか」


美羽は立ち上がり、クローゼットに向かった。次に蒼太に会う時のための服を、今から選んでおこう。あのギャルには負けない。三年間の実績がある。蒼太のことは、誰よりも分かっている——そう自分に言い聞かせながら。



翌日、昼休み。蒼太の会社の休憩室。


自販機のコーヒーを手に、蒼太と翔真が向かい合っていた。


「で、なんだって?」


翔真がスマホの画面を覗き込む。美羽からの追加LINE——「前のLINE見てくれた?ちゃんと話したいことがあるの。お願い」。


翔真は顔をしかめた。


「だから言っただろ? 無視しろ。ろくなことにならん」


断言する翔真に、蒼太は視線を落とす。


「でも、このまま放置してたら——」


「放置でいいんだよ。お前が返信したら、向こうの思う壺だ」


翔真はコーヒーを一口飲み、続けた。


「あの女、お前が幸せそうにしてるの見て焦ってんだよ。新しい男がハズレだったって気づいて、お前のとこに戻ろうとしてる。そんなの分かりきってるだろ」


蒼太は黙っている。翔真の言うことは正しい。頭では分かっている。でも——


「ちゃんと終わらせたい」


蒼太は静かに言った。


「あのまま放置してたら、いつまでも引きずる。俺が、じゃなくて……向こうが」


翔真は呆れたように溜息をついた。


「お前は優しすぎるんだよ」


「優しさじゃない。区切りをつけたいだけだ」


蒼太の声は、いつになく低かった。


翔真は蒼太の肩を掴む。


「いいか、よく聞け。お前には今、お前のことを本気で想ってくれてる女がいる。三年片想いしてて、毎日弁当作ってくれて、あの派手な見た目で中身は超一途な——」


「……凛音のことは、関係ない」


「関係あるだろ。元カノに情けかけて、今の彼女不安にさせてどうすんだよ」


蒼太は黙り込む。


「……で、どうすんの。結局」


「一度だけ、会う」


「はぁ⁉」


「一度だけだ。それできっぱり終わらせる」


翔真は深い溜息をついた。


「……お前が決めたなら、俺は止めない。けど、絶対あの女のペースに飲まれるなよ。泣き落としとか、同情引こうとしてきても、乗るな」


「わかってる」


「……ホントにわかってんのかよ」


午後、経理部のデスクで、蒼太は伝票の山を片付けながら考えていた。翔真の言葉が頭の中で反芻される。


凛音のことを考える。最近、毎日のように弁当を届けてくれる。一緒に買い物に行って、一緒に料理を作って、一緒にテレビを見る。それが当たり前になりつつある。


あの時間を守るためには、過去をきちんと清算しなければならない。


蒼太はスマホを取り出し、美羽とのトーク画面を開いた。


「一度だけ」


短いメッセージを打ち、送信する。すぐに既読がついた。三点リーダーが表示される——美羽が返信を打っている証拠。


『ありがとう。来週の土曜日、空いてる?』


予想通りの反応だった。蒼太は「いい」とだけ返し、スマホをポケットにしまった。


これで終わりにする。三年間の関係に、ちゃんとした終止符を打つ。凛音のためにも、自分のためにも。



その夜、凛音は自室のベッドに寝転がりながら、スマホを見つめていた。


蒼太に送ったLINE——「今日、お疲れさま。明日の弁当、何がいい?」。既読はついている。でも、返信がない。


いつもなら、十分もしないうちに返ってくるのに。もう一時間以上経っている。


「……遅いな」


凛音は寝返りを打ち、天井を見上げた。昨日、蒼太が言っていたこと。「元カノと偶然会った」——その言葉が、胸の奥でチクチクと痛む。


偶然、本当に偶然だったのだろうか。蒼太は「もう関係ない」と言っていた。信じたい。信じている。でも——


スマホが震えた。蒼太からの返信。


『悪い、遅くなった。明日は肉系で頼む』


凛音は安堵のため息をつく。でも、いつもの蒼太らしくない。いつもなら「ハンバーグ」とか「唐揚げ」とか、具体的に答えてくれるのに。


「なんか……また嫌な予感がする」


凛音は起き上がり、窓の外を見た。冬の夜空に、星がいくつか瞬いている。今度の週末、どこかへ誘ってみようかな。そう思いながらも、なぜか言い出せなかった。


「蒼太くん……大丈夫かな」


『蒼太くん攻略計画』と書かれたノートを取り出し、ペンを握る。今日の出来事を書き留めながら、どうしようもない不安が胸の中で渦を巻いていた。


三年間、ずっと見てきた。だから分かる。蒼太の様子が、おかしい。


でも、聞けない。聞いたら、何かが壊れてしまいそうで。


凛音はノートを閉じ、スマホを胸に抱きしめた。


「信じてる……信じてるから」


自分に言い聞かせるように、何度も繰り返した。


窓の外では、冬の夜空に星が瞬いていた。蒼太の部屋との間の壁が、いつもより厚く感じられる夜だった。

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