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普通という名の答え

土曜日の朝、蒼太は普段より早く目を覚ました。


カーテンの隙間から差し込む冬の陽光が、部屋を淡く照らしている。十二月も半ばを過ぎ、窓ガラスには薄っすらと結露が浮かんでいた。


ベッドの上で天井を見つめながら、今日のことを考える。美羽と会う。三年間付き合い、一方的に振られた元カノ。「ちゃんと話したい」というメッセージを受け取ってから一週間、翔真の「絶対関わるな」という忠告を振り切って、一度だけ会うことを決めた。


起き上がり、洗面所で顔を洗う。鏡に映る自分の顔は、緊張しているようには見えない。むしろ、どこか穏やかだった。


「これで、終わりにする」


声に出してみると、思った以上にすっきりした響きだった。美羽への未練があるわけではない。ただ、区切りをつけたかった。あの三年間が何だったのか、自分の中で整理をつけたかった。


クローゼットを開け、いつもの量販店のシャツに袖を通す。特別な格好をする必要はない。これは復縁の場ではなく、終わりを告げる場だから。


スマートフォンを手に取り、LINEを開く。凛音との最後のやり取りは昨夜の「明日は肉系で頼む」だった。指が画面の上で止まる。美羽のことは話していない。でも、嘘はつきたくなかった。


少し考えてから、短いメッセージを打つ。


『ちょっと出かける。弁当は帰ってから食べる』


送信ボタンを押してから、スマートフォンをポケットにしまった。全部話すのは、帰ってきてからでいい。凛音なら、待っていてくれる。そう思えることが、今の蒼太には心強かった。


玄関で靴を履きながら、ふと壁の向こうを意識する。隣の部屋。凛音の部屋。あいつは今頃、弁当を作ってくれているのだろうか。


小さく息を吐いて、ドアを開けた。冬の冷たい空気が頬を刺す。


行ってくる——とは、言わなかった。その言葉は、帰ってきた時のために取っておく。



都心のカフェは、土曜の午後とあって程よく賑わっていた。ガラス張りの窓から差し込む光が、木目調のテーブルを温かく照らしている。


蒼太が店内に入ると、すぐに美羽を見つけた。窓際の二人掛けの席。髪は綺麗にセットされ、以前のような派手さは控えめ。大人しめのニットに、落ち着いた色のスカート。まるで「反省してます」とアピールするような装いだった。


視線が合うと、美羽は立ち上がりかけて、すぐに座り直した。その仕草に、計算めいたものを感じる。


「来てくれてありがとう。連絡しても返事なかったから、会ってくれないかと思った」


「話って何」


蒼太は端的に聞いた。世間話をするつもりはない。美羽は一瞬、顔をこわばらせたが、すぐに表情を取り繕った。


「相変わらずだね、ソウちゃんは。もう少し、なんていうか……」


「用件があるから来た。それだけだ」


店員がコーヒーを運んできて、二人の間に沈黙が落ちる。美羽は両手でカップを包み、視線を落とした。その仕草が、かつてはかわいく見えたのかもしれない。今は何も感じない。


蒼太は自分の中の変化に気づいていた。目の前にいるのは、三年間付き合った女性。でも、心のどこにも波が立たない。むしろ、早くこの時間を終わらせて帰りたいとすら思っていた。


帰る場所がある。待っている人がいる。それだけで、こんなにも違うものなのか。


美羽は顔を上げ、潤んだ瞳で蒼太を見つめた。


「あの時の別れ方、ひどかったよね」


声が少し震えている。演技なのか本心なのか、もはやどちらでもよかった。


「いきなり『つまらない』なんて言って、新しい人ができたって……。ソウちゃんのこと、傷つけたって分かってる」


美羽は目元を指で押さえた。涙が溢れそうになるのを堪えているような仕草。


「ごめんね」


蒼太は黙ってコーヒーを一口飲んだ。


謝っている。確かに謝っている。でも——何かがおかしい。


美羽の言葉を頭の中で反芻する。「別れ方がひどかった」「傷つけた」。それは認めている。では、三年間はどうなのか。


蒼太の貯金を当然のように使い、ブランド品をねだり、「もっと私を楽しませて」と要求し続けた三年間。デートの約束をドタキャンしても謝らず、記念日を忘れても悪びれず、蒼太の仕事の愚痴には興味を示さなかった日々。


それについては、一言も触れていない。


「別れ方」だけを謝って、「付き合い方」は謝らない。つまり美羽は、自分が三年間してきたことを、悪いとは思っていないのだ。


——ああ、そういうことか。


蒼太の中で、何かが静かに腑に落ちた。


「それだけ?」


蒼太の声は平坦だった。美羽の表情が一瞬、固まる。


「え……?」


「謝りたかった。それだけのために呼び出したのか」


沈黙が流れる。店内のBGMと、周囲の客の話し声が妙に大きく聞こえる。


美羽は視線を泳がせた。計算が狂ったような、焦りの色が見える。


「それと……」


言葉を選ぶように、美羽は一度唇を舐めた。


「私たち、やり直せないかなって」


予想通りの言葉だった。翔真の言う通りだ。「必ず復縁を迫ってくる」——その通りになった。


「無理だと思う」


蒼太は即答した。表情を変えることなく、感情を込めることもなく。ただ事実を述べるように。


美羽の目が見開かれる。


「待って、ちょっと——早すぎない? もう少し考えて——」


「考える必要がない」


蒼太はコーヒーカップをテーブルに置いた。小さな音が、二人の間に響く。


「なんで? 私、反省してるのに」


美羽の顔が赤くなった。怒りなのか、恥ずかしさなのか。


「何を反省してる?」


「だから、別れ方が——」


「それだけか」


蒼太の声は静かだったが、美羽の言葉を遮る力があった。


「三年間、俺はお前のために色々したけど」


記憶が蘇る。誕生日のサプライズ。欲しがったバッグ。行きたいと言ったレストラン。疲れていても付き合った夜更かし。全部、美羽のためだった。


「お前は俺に何かしてくれたことあった?」


美羽の口が開いて、閉じた。


「それは……私だって、色々……」


「何を?」


「一緒にいたじゃん。デートしたし、旅行も——」


「金は誰が出した?」


美羽が黙る。


「俺が疲れてる時、お前は何してた?」


答えない。


「俺の話、ちゃんと聞いたことあったか?」


沈黙。


蒼太は美羽を責めたいわけではなかった。ただ、自分の中でずっと曖昧だったものに、ようやく形を与えられた気がした。


蒼太は静かに立ち上がった。


「待って、ソウちゃん——」


美羽が手を伸ばすが、蒼太はその手を避けるように一歩下がった。


「今更わかった」


振り返らず、言葉を紡ぐ。


「俺が欲しかったのは、刺激とか派手さじゃなくて、もっと普通のことだったんだ」


毎日の「おはよう」。一緒に食べるご飯。何気ない会話。「おかえり」と言ってくれる声。


美羽との三年間には、そのどれもなかった。あったのは、「もっと」を求める声と、満たされない空虚さだけ。


「普通って……何、それ」


美羽の声が震えている。理解できない、という響き。


「お前には分からないだろうな」


蒼太はテーブルに千円札を置いた。コーヒー代。それ以上でも以下でもない。


「じゃあな」


背後で美羽が何か言った。でも、振り返らなかった。カフェのドアを押し開けると、冬の冷たい空気が頬を撫でる。


不思議と、清々しかった。三年間引きずっていた何かが、ようやく地面に落ちた気がした。


駅に向かう道を歩きながら、蒼太は息を深く吸い込んだ。


冬の空気は冷たいけれど、どこか心地いい。街路樹の葉はすっかり落ちて、枝が青空に向かって伸びている。いつもと同じ景色のはずなのに、今日は少し違って見えた。


「普通のこと……か」


自分で言った言葉を、反芻する。


毎朝、扉を開けると待っている弁当。「作りすぎただけだし」と顔を赤くしながら押し付けてくる姿。一緒にスーパーで食材を選ぶ時間。二人で作る夕食。食べながら交わす何気ない会話。


凛音の顔が浮かぶ。


派手な髪、華やかなメイク。でも蒼太の前でだけ、やたらと挙動不審になる。LINEの返信が異様に丁寧だったり、逆に変なタイミングで短かったり。


あいつ、今頃どうしてるだろう。


『ちょっと出かける。弁当は帰ってから食べる』——あのメッセージを見て、何を思っただろうか。不安になってないだろうか。


足が自然と速くなる。


美羽との三年間、こんな風に帰りたいと思ったことがあっただろうか。早く顔が見たいと思ったことが。


なかった。一度も。


でも今は、凛音に会いたい。


あいつといると、俺の「普通」が、なぜか特別に感じる。それが答えなのかもしれない。



マンションが見えてきた時、蒼太は足を止めた。


入り口の前に、見覚えのある姿があった。ハイトーンの髪。でも今日は珍しく、ダウンジャケットにジーンズというラフな格好。凛音だった。


蒼太に気づいた凛音は、一瞬目を見開いて、すぐに視線を逸らした。


「な、なんでこんなとこにいるかって顔してる」


聞いてもいないのに、早口で言う。


「遅いから……心配しただけだし! 別にあんたのこと待ってたわけじゃないから!」


耳が赤い。冬の寒さのせいだけではないだろう。


「どれくらいここにいた?」


「……一時間くらい」


「寒かっただろ」


「寒くない! 全然!」


明らかに震えている。蒼太は小さく笑った。自分でも驚くほど、自然に笑えた。


「ただいま」


凛音の動きが止まった。目が大きく見開かれる。


「……え」


「ただいま」


もう一度言うと、凛音の頬がみるみる赤くなった。


「……おかえり」


小さな声だった。でも蒼太の耳にははっきり届いた。


これだ、と思った。この言葉が欲しかった。この声で言ってほしかった。三年間、ずっと。



二人でマンションのエントランスに入る。暖房の効いた空間が、冷えた体を包む。


凛音は何か言いたそうにしながらも、口を開いては閉じてを繰り返していた。蒼太の顔色を窺っているのが分かる。


エレベーターのボタンを押しながら、蒼太は言った。


「今日のこと……後で話す」


凛音の肩がびくっと跳ねた。


「……うん」


聞きたいことはたくさんあるはずだ。どこに行っていたのか。誰と会っていたのか。でも凛音は、それ以上は聞かなかった。


エレベーターが到着し、二人で乗り込む。狭い空間に、凛音のシャンプーの香りがほのかに漂う。


「あの、さ」


凛音が恐る恐る口を開いた。


「今日のこと……聞いてもいい?」


「ああ。全部話す」


蒼太は迷わず答えた。隠すことは何もない。凛音には、全部知っていてほしかった。


凛音は驚いたように蒼太を見上げ、それから、ふっと表情を緩めた。


「……ありがとう」


何に対しての「ありがとう」なのか。話してくれることへの感謝か、帰ってきてくれたことへの安堵か。どちらでもいい。その言葉が、今の蒼太には嬉しかった。



蒼太の部屋。二人はソファに並んで座っていた。


凛音は膝の上で手を握りしめ、じっと蒼太の言葉を待っている。緊張しているのが伝わってくる。でも、逃げ出す気配はない。


テーブルの上には、凛音が持ってきた弁当箱が置かれている。肉系で、と頼んだ通り、生姜焼きがメインの弁当だった。


蒼太は静かに話し始めた。


「美羽から連絡があったこと、話してなかった。復縁を迫られてた」


凛音は黙って聞いている。


「今日、会って話をしてきた。向こうは謝ってきた。別れ方がひどかったって」


「……」


「でも、三年間のことは謝らなかった。俺が何をしても当然だと思ってた。それに、ようやく気づいた」


言葉を選びながら、でも嘘はつかずに。


「やり直したいって言われた。断った。もう、あいつとは無理だと思った」


凛音の肩が小さく震えた。


「俺が欲しかったのは、刺激じゃなかった。もっと普通のことだった。毎日の挨拶とか、一緒に食べるご飯とか、何気ない会話とか」


蒼太は凛音を見た。凛音の目に、涙が滲んでいる。


「……ありがとう、話してくれて」


声が震えている。でも、笑おうとしている。


「お前に隠すことはない」


蒼太の言葉に、凛音の涙がぽろりと零れた。


凛音は涙を拭おうとして、うまくいかなくて、結局諦めたようにそのまま蒼太に抱きついた。


「わ——」


蒼太の体が強張る。凛音の体温が、胸元に伝わってくる。


「ごめ、ちょっと待っ——泣いてるとかじゃないから——」


明らかに泣いている声で言う凛音に、蒼太は小さく息を吐いた。そっと、凛音の背中に手を回す。


「……悪い。心配かけた」


「心配なんかしてない……」


嘘だ。一時間も外で待っていたくせに。


「蒼太くんの『普通』が」


凛音が、蒼太の胸に顔を埋めたまま、くぐもった声で言った。


「私には特別だから」


蒼太の手が、無意識に凛音の髪を撫でていた。


「……俺も」


言葉が、するりと出た。


「お前といると、普通のことが全部、特別に感じる」


凛音の体が震えた。声にならない嗚咽が、蒼太の胸元を湿らせる。


窓の外では、冬の夕陽が街を橙色に染めていた。隣り合った二つの部屋。壁一枚隔てて、三年間すれ違っていた二人。


その距離が、ようやくゼロになった気がした。


「……泣きすぎ」


「うるさい……嬉しいんだから、しょうがないでしょ……」


凛音が顔を上げる。涙で濡れた目が、蒼太を見つめていた。


「ねえ」


「なに」


「……また明日も、『おはよう』って言ってくれる?」


蒼太は凛音の頭を軽く撫でた。


「当たり前だろ」


凛音はまた涙が溢れそうになりながら、蒼太の胸に顔を埋める。


「……ばか」


——美羽との過去は終わった。これからは、この温もりと一緒に歩いていく。


蒼太は凛音を抱きしめる腕に、少しだけ力を込めた。


まだ「好き」という言葉は言えていない。でも今は、このぬくもりだけで十分だった。


言葉にするのは——もう少し先でいい。

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