想いが言葉になった夜
月曜日の朝。蒼太は目覚まし時計が鳴る前に目を覚ました。天井の染みを数えるように見つめながら、土曜日のことを何度も反芻している。凛音の腕の温かさ。震える肩。甘い香り。抱きしめ返した瞬間、胸の奥が締め付けられるような感覚があった。
何も、言えなかった。
「好き」とも「付き合ってくれ」とも。ただ黙って、彼女を抱きしめ返しただけ。布団の中で蒼太は小さくため息をつく。壁一枚隔てた隣の部屋。凛音も起きているだろうか。同じように眠れない夜を過ごしただろうか。
スマホを手に取る。LINEを開くが、何を送ればいいのかわからない。「おはよう」だけでは軽すぎる気がする。かといって「土曜日のこと」に触れる勇気もない。
「……駄目だ」
結局、スマホを枕元に置いて、蒼太はベッドから這い出した。
身支度を整えていると、玄関からカチャリと音がした。合鍵の音。
リビングに向かうと、凛音がキッチンに立っていた。エプロン姿で、フライパンを振っている。
「おはよう、蒼太くん」
「おはよう……今日も早いな」
「だって、蒼太くんのためだし」
凛音は照れたように視線を逸らす。いつものギャルメイクだが、どこか目の下にくまがあるように見える。眠れなかったのは、お互い様らしい。
「あの……今日の朝ごはん。いつもより気合い入れたから」
皿に盛り付けながら、凛音の手がわずかに震えている。
蒼太はテーブルに座りながら、凛音の姿を見つめた。土曜日の夜、泣きながら抱きついてきた彼女。今は平静を装っているが、どこかぎこちない。
「……ありがとう」
「う、うん……いっぱい食べてね」
凛音の声が、少しだけ寂しそうに聞こえた。
昼休み。蒼太が社食でカレーを食べていると、向かいの席に翔真がどかっと座った。
「で、元カノとはきっちり終わらせたんだろうな?」
開口一番、核心を突いてくる。
「……ああ、終わった」
「そうか。で、そのあと隣のギャルとはどうなった?」
蒼太はスプーンを止める。
「……わからない」
翔真は頭を抱えた。
「付き合ってるのか付き合ってないのかもわからないのか!」
「だって、言葉が出なくて……」
「馬鹿かお前は!あの子どれだけ不安か考えろ!毎日弁当作って、一緒にご飯食べて、お前は何も言わない。今頃あの子、『私たちって何なんだろう』って悶々としてるぞ」
蒼太は言葉を失う。確かに、朝の凛音の様子はどこかぎこちなかった。
「お前、感情表に出ないから、あの子不安だろうな」
「……わかってる」
「わかってねぇよ。いいか、好きなら好きって言わないと、伝わらないぞ」
翔真の目は真剣だった。
「お前の『好き』は、お前にしか言えないんだ」
午後の経理部。蒼太はパソコンの画面を見つめながら、まったく仕事が手についていなかった。翔真の言葉が頭の中で繰り返される。
言葉にしないと伝わらない——か。
わかっている。でも、「好き」という言葉を口にするのが怖い。凛音は俺の「普通」を「特別」だと言ってくれた。俺も、凛音といると普通のことが全部特別に感じると伝えた。あの夜、確かに何かが変わった。
でも——本当にこのままでいいのか。
凛音は俺の「普通」を受け入れてくれている。でも、これからもずっと、彼女を幸せにできるのか。告白して、付き合って、その先も——俺みたいな男で、彼女の期待に応え続けられるのか。
(あいつがいない毎日……想像できない)
(これって……そういうことか)
蒼太は深く息を吐いた。答えは、もう出ているのかもしれない。
週末。蒼太と凛音は近所のスーパーに買い物に来ていた。
「今日は何作る?」
凛音がカートを押しながら聞く。
「肉じゃがとか?」
「いいね、じゃあじゃがいも多めに」
二人で食材を選び、カゴに入れていく。すれ違う人から見れば完全に「カップル」。蒼太はそんなことを考えながら、野菜売り場を歩いていた。
「ねえ、人参どれがいい?」
「どれでも同じだろ」
「違うよ! 色が濃いほうが甘いんだから」
凛音は真剣な顔で人参を吟味している。その横顔を見ながら、蒼太は小さく笑った。
レジに並ぶ。前の客が終わり、二人の番になった。
「お会計一緒でよろしいですか?」
店員の言葉に、凛音が真っ赤になって固まる。
「一緒で」
蒼太は特に考えず、自然に答えた。凛音はさらに赤くなり、俯いてしまう。
会計を済ませ、店を出る。買い物袋を持ちながら歩く帰り道、凛音がぽつりと言った。
「さっきの……なんで一緒に払ったの」
「別に、そのほうが楽だから」
「そういうとこ……」
凛音は何か言いかけて、口を閉じた。
「何?」
「なんでもない」
凛音は首を振り、話題を変えた。「今日の肉じゃが、絶対美味しく作るから」と。
蒼太は凛音の横顔を見ながら、翔真の言葉を思い出していた。
(好きなら好きって言わないと、伝わらないぞ)
二人の関係は、名前のないまま深まっていく。
一緒に作った夕食を食べながら、テレビを見る。いつの間にか、それが当たり前になっていた。
「今日も美味しいね」
凛音が笑う。
「お前が野菜切ったからな」
「私の手柄じゃん!」
凛音は嬉しそうに胸を張る。自然と肩が触れ合う距離。蒼太はその温もりを心地よく感じていた。
テレビの音声が流れる中、凛音は時折蒼太の横顔を見つめている。言いたいことがある。でも、言えない。その表情を、蒼太は気づかないふりをしていた。
夜。凛音は自室に戻り、『蒼太くん攻略計画』と書かれたノートを開いた。
ペンを握り、今日のことを書き留める。
『好きって言いたい。でも、言ったらこの関係が壊れそうで怖い』
三年間片思いしてきた。やっとここまで来れた。毎朝一緒に朝ごはんを食べて、週末は一緒に買い物をして、夜は一緒にテレビを見る。夢みたいな日々。これ以上を望むのが怖い。
『でも……このままじゃ、私……』
ペンが止まる。涙が滲む。
凛音はノートを閉じ、枕に顔を埋めた。
同時刻、蒼太も考え込んでいた。
(あいつのこと、好きなんだと思う)
認めてしまえば、単純な話だった。凛音といると心地いい。凛音がいないと寂しい。凛音の笑顔を見ると、なぜか胸が温かくなる。
(凛音は俺の「普通」を特別だと言ってくれた)
あの夜の凛音の言葉を思い出す。「蒼太くんの『普通』が、私には特別だから」——その言葉が、今も胸の中で温かく響いている。
(でも、これからもずっと……あいつを幸せにできるのか)
告白して、付き合って、その先も。俺の「普通」を特別だと言ってくれた彼女に、ずっと応え続けられるのか。その責任が、重く感じる。
(でも、手放したくない)
蒼太は目を閉じた。凛音の笑顔が浮かぶ。朝の「おはよう」、夜の「おやすみ」、一緒に食べる食事。その全てが、蒼太にとっては特別だった。
翔真の言葉が蘇る。
(好きなら好きって言わないと、伝わらないぞ)
「……そうだな」
呟いて、蒼太は寝返りを打った。言葉にしなければ、伝わらない。でも、まだ怖い。もう少しだけ、時間が欲しい。
壁の向こうでは、凛音が同じように悩んでいるのだろう。お互いに想いを抱えながら、決定的な言葉を出せないまま、夜は更けていく。
スマホが震えた。凛音からのLINE。
『今日も楽しかった。おやすみ』
短いメッセージ。でも、そこに込められた想いが伝わってくる気がした。
蒼太は返信を打つ。
『おやすみ。また明日』
また明日——その言葉が、今の二人にとっては一番大切な約束だった。




