熱と涙と、聞こえない言葉
冬の朝は、いつもより重かった。
藤崎蒼太は目を開けた瞬間、自分の体がおかしいことに気づいた。喉の奥がひりつき、頭の芯で鈍い痛みが脈打っている。枕元に手を伸ばすと、指先が妙に熱い。
「やばい……熱ある」
かすれた声が部屋に響く。体温計を探し出し、脇に挟む。電子音が鳴るまでの時間が永遠に感じられた。表示された数字は三十八度四分。
「……っ」
起き上がることすら億劫だ。それでも、会社には連絡しなければならない。震える指でスマートフォンを操作し、上司の番号を呼び出す。
「すみません、今日は休ませてください。熱が……はい、申し訳ありません」
電話を切り、枕に顔を埋める。凛音には心配をかけたくなかった。
「……凛音には、連絡……しないと」
いつもなら七時半には『おはよう』のLINEを送る。しかし画面を開いても、文字を打つ気力がない。指が重い。視界がぼやける。
「……だめだ、指が動かない」
結局、既読をつけることもできないまま、蒼太は再び意識を手放した。カーテンの隙間から差し込む冬の陽光が、やけに眩しかった。
同じ頃、隣の部屋で白河凛音は朝からそわそわしていた。
「おはよ、蒼太くん……って、あれ?既読つかない」
スマートフォンの画面を何度も確認する。いつもなら七時半には届く蒼太からの『おはよう』が、今日は来ない。
「……寝坊かな」
自分に言い聞かせながら、昨夜から仕込んでおいた弁当を詰め終える。
「今日の弁当、鮭焼いたんだけどな……蒼太くんが好きって言ってたやつ」
玉子焼きには少しだけ砂糖を多めに入れた。完璧な出来栄えに満足しながらも、胸のざわつきは消えない。
八時を過ぎても連絡はない。
「LINE既読つかない……おかしい」
凛音は意を決して蒼太の部屋に向かった。インターホンを押す。応答なし。もう一度。沈黙。
「蒼太くん?いないの?」
ドアをノックしても反応がない。スマートフォンを取り出し、LINEを送る。『起きてる?』。送信済みのマークはついたが、既読にはならない。
「蒼太くん!返事して!」
声が廊下に響く。凛音の胸に嫌な予感が広がった。蒼太は几帳面な人だ。連絡なしに音信不通になるなんてありえない。
凛音はポケットから合鍵を取り出した。震える手で鍵穴に差し込む。
「……ごめん、入るよ」
ドアを開けた瞬間、凛音の心臓が跳ねた。
カーテンが閉め切られた薄暗い室内。リビングには人影がない。迷わず寝室に向かうと、布団にくるまって眠る蒼太の姿があった。
「蒼太くん!大丈夫⁉」
駆け寄り、肩を揺する。蒼太はうっすらと目を開けた。焦点の合わない瞳、乾いた唇、額にはうっすらと汗が滲んでいる。
「……りおん……?」
かすれた声に、凛音の中で何かが弾けた。
「バカ!なんで言わないの!連絡の一つもくれないし!」
怒鳴りながらも、手は蒼太の額に伸びていた。触れた瞬間、息を呑む。
「……すまん、起きたら……連絡しようと」
「すごい熱……ちょっと待って、何度あるの?」
「さっき測ったら……三十八度くらい」
「くらいじゃないでしょ!もう……ホント心配したんだから!」
「なんで……なんで言ってくれないの。一番近くにいるのに」
涙声になっていることに、凛音は気づかなかった。
「……心配、かけたくなくて」
「バカ。そういうの、一番心配するやつじゃん」
凛音は袖で涙を拭い、立ち上がった。
凛音は蒼太のキッチンに立った。
「おかゆ……作れるかな。うん、作る」
冷蔵庫を開ける。卵、ネギ、生姜、米。最低限の材料は揃っている。袖をまくり、鍋に水を張る。
「蒼太くんのために、ちゃんと作らなきゃ」
米を洗い、弱火でコトコトと炊く。その間に冷凍庫から保冷剤を取り出し、タオルに包む。
棚の奥を探ると、梅干しの瓶が見つかった。
「梅干し……あった。蒼太くん、酸っぱいの好きって言ってたもんね」
知っている。こういうことを、私は知っている。三年間、ずっと見てきたから。
おかゆが炊けると、凛音はトレイに盛り付けた。湯気の立つおかゆと、梅干し、スポーツドリンク。
「蒼太くん、起きられる?おかゆ、作ったよ」
蒼太はゆっくりと瞼を持ち上げた。
「……ん」
起き上がろうとして、力なく枕に沈む。
「無理しないで。私が食べさせるから」
凛音はベッドの端に腰を下ろし、スプーンでおかゆをすくった。息を吹きかけて冷まし、蒼太の口元に運ぶ。
「すまん……」
「謝んなくていいから寝てて。ほら、ゆっくり食べて」
蒼太が口を開ける。一口、また一口。凛音は辛抱強くスプーンを運び続けた。
「……うまい」
かすれた声で蒼太が言う。凛音の目尻が緩んだ。
「当然でしょ、私が作ったんだから」
強がりを言いながらも、声は震えている。半分ほど食べたところで、蒼太はスプーンを受け付けなくなった。
「……もういい」
「うん、よく食べた。偉い」
凛音は残りを片付け、スポーツドリンクを蒼太に飲ませた。氷枕を当て、布団を直す。
「寝てて。私、ここにいるから」
蒼太の目がまた閉じていく。穏やかな寝息が聞こえ始めた頃、凛音はそっと息を吐いた。
午後になっても、凛音は蒼太の部屋を離れなかった。
額の熱を何度も確認し、汗を拭き、水分を摂らせる。蒼太が薄目を開けるたび、凛音は笑顔を作った。
「……お前、なんでそこまで」
蒼太のかすれた声に、凛音は言葉に詰まった。
「だって……隣人として、当然のことだし」
そう言おうとした。でも、その言葉は嘘だ。
「……違う。大切な人だから、当然のことだし」
小さな声だった。顔が熱くなる。蒼太の視線から逃げるように、凛音は氷枕の位置を直すふりをした。
「そうか……」
蒼太の返事は短かった。でもその声には、どこか温かみがあった。
「ありがとう」
「……お礼なんていらないし」
凛音は俯いたまま答えた。蒼太の目が再び閉じていく。その穏やかな寝顔を見つめながら、凛音は思った。
三年間、ずっとこうしたかった。この人の傍で、この人を支えたかった。やっと、やっとそれができる。
夕方の光が、カーテンの隙間から細く差し込んでいた。
蒼太は眠り続けている。呼吸は穏やかで、熱も少し下がったようだった。凛音はベッドの傍らに座り、その寝顔を見つめていた。
静かな部屋に、時計の秒針の音だけが響く。
凛音はそっと手を伸ばした。蒼太の額にかかった前髪を、指先で払う。汗で少し湿った黒髪。触れた瞬間、胸の奥が疼いた。
「やっと、こうして傍にいられるんだ」
声が漏れた。三年前のあの夜から、ずっと見ていた。同じマンションに住んでいると知ってから、毎日のように廊下で彼を探した。話しかける勇気がなくて、遠くから見つめるだけの日々。
「ばか……好きなのに、気づいてよ……」
言葉が零れ落ちた。寝ている蒼太には聞こえていないと思った。だから言えた。三年間、ずっと胸に秘めていた想い。
涙が頬を伝う。凛音はそれを拭おうともせず、蒼太の寝顔を見つめ続けた。
「三年も……三年も好きだったんだよ……」
嗚咽が漏れそうになるのを、必死で堪えた。
キッチンに向かう足音が遠ざかっていく。
蒼太は薄目を開けた。夢を見ていた。いや、夢だったのだろうか。凛音の声が、記憶の端に引っかかっている。
『好きなのに、気づいてよ』
『三年も好きだったんだよ』
熱で朦朧とした意識の中で、その言葉だけが妙にはっきりと残っていた。
「……今の……夢か?」
呟いてみる。凛音が自分を好きだということは知っている。翔真に何度も言われた。そして、あの夜タクシー代を渡した女の子が凛音だということも——すっぴんを見たあの日から、もう確信していた。
でも、三年。
「三年……ずっと、か」
考えがまとまらない。あの時助けた、ただそれだけのことを覚えていてくれた。それは知っていた。でも、三年間ずっと想い続けていた——その重さは、想像を超えていた。
タクシー代を返すため。感謝を伝えるため。そんな理由で近づいてきたのだと、どこかで思っていた。
違った。
毎朝の弁当も、一緒に作る夕食も、風邪をひいた時に飛んできてくれたことも——全部、三年分の想いが詰まっていたのか。
「……俺なんかに、三年も」
胸の奥が、熱いもので満たされていく。熱のせいではない。凛音の想いの深さが、じわりと染み込んでくる。
意識が再び沈んでいく。でも今度は、温かい何かに包まれているような心地よさがあった。
翌朝、蒼太は随分と楽になった体で目を覚ました。
隣を見ると、凛音がソファで毛布にくるまって眠っている。一晩中、ここにいてくれたのか。蒼太は静かに起き上がり、熱を測った。三十七度二分。峠は越えたらしい。
物音で凛音が目を覚ます。
「蒼太くん、熱どう?下がった?」
「ああ……だいぶ楽になった」
「よかった……ホントに心配したんだから」
蒼太はしばらく彼女を見つめ、それから口を開いた。
「なあ、昨日、何か言ってた?」
凛音の肩がびくりと跳ねた。
「……っ!な、なんも言ってない!」
「そうか」
蒼太は頷いたが、凛音の耳が真っ赤に染まっているのを見逃さなかった。
「……昨日、泣いてたか?」
「泣いてない!」
「嘘つくと耳が赤くなるの、知ってる」
蒼太が小さく笑うと、凛音は枕を掴んで投げつけてきた。
「知らない!何も言ってないし泣いてないし!」
「わかったわかった」
蒼太は投げられた枕を受け止めながら、穏やかな表情を浮かべた。凛音は顔を真っ赤にして暴れているが、その姿がどこか愛おしい。
「……朝ごはん、作るね。ちゃんとしたの食べないと」
凛音がキッチンに向かう。蒼太は彼女の背中を見つめながら、昨日聞いた言葉の断片を思い返していた。
三年。あいつは、三年も俺を想っていてくれた。
「お前のおかげで早く治った」
「当然のことしただけだし……」
凛音はそこで言葉を切り、少し俯いた。
「……蒼太くんのこと、放っておけないから」
最後の言葉を、凛音は噛みしめるように言った。
「……ああ」
蒼太は静かに頷いた。三年という時間の重さ。この女は、三年もの間、自分を想い続けていた。
「できたよ、おかゆじゃなくて普通のご飯。食べられそう?」
「食べられる」
「じゃあ一緒に食べよ。私もまだ食べてないし」
二人で向かい合って食事をする。味噌汁と卵焼き、そして昨日届けようとしていた弁当のおかずの残り。
「……お前、ずっとここにいたのか」
「当然じゃん。蒼太くんが熱出してるのに帰れるわけないでしょ」
「仕事は」
「休んだ」
「……すまん」
「だから謝んなくていいって。私がいたかったの」
凛音の言葉に、蒼太は黙って頷いた。
「ねえ、味噌汁、どう?」
「うまい。体の芯まで温まる」
「……よかった」
窓の外では、冬の陽光が街を照らしている。二人の距離は、確実に縮まっていた。
「凛音」
「なに?」
蒼太は言葉を探した。昨日聞いた言葉の断片。三年という時間。その重さに、どう応えればいいのか。
「……いや、なんでもない」
「なによそれ、気になるじゃん」
「いつか、ちゃんと話す」
「……うん、待ってる」
凛音は少し不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
「蒼太くん」
「ん?」
「……早く元気になってね。クリスマス、楽しみにしてるんだから」
「……ああ、わかってる」
「約束だよ」
「約束する」
蒼太は頷いた。クリスマス。まだ何も考えていない。でも、この女のために——何かしたいと思った。
三年分の想いに、俺はどう応えればいいんだろう。
凛音が片付けを始める。その背中を見つめながら、蒼太は味噌汁を口に運んだ。温かい。体の芯まで温まるような、優しい味がした。
——クリスマスには、何を贈ろうか。
蒼太は静かに、そんなことを考え始めていた。




