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8/30

すっぴんの朝

土曜日の朝九時。藤崎蒼太は、寝起きのまま自室の玄関で立ち尽くしていた。


片手には、パンパンに膨らんだ半透明のゴミ袋。昨夜の料理で出た野菜くずと、使い終わったティッシュがくしゃくしゃに詰め込まれている。


「……今日、燃えるゴミの日だったよな」


壁掛けカレンダーを確認し、億劫そうに玄関を開ける。髪は寝癖で四方八方に跳ね、無精ひげがうっすらと顎を覆う。着ているのは大学時代から愛用しているヨレヨレのジャージ上下。量販店のスーツ姿すら「地味」と評される蒼太だが、今朝の姿はそれに輪をかけて生活感に満ちていた。


廊下に出ると、冬の朝の冷気が素肌を撫でた。マンションの共用廊下は静まり返っている。休日の朝、住人たちはまだ眠りの中にいるのだろう。


——この格好を誰かに見られたら、さすがに恥ずかしいな。


そんなことを考えながら、蒼太はエレベーターホールへと歩を進めた。スリッパがパタパタと床を叩く音だけが、やけに大きく響く。


エレベーターホールに着くと、ちょうどエレベーターの扉が閉まりかけているところだった。蒼太は反射的に手を伸ばし、下ボタンを押す。


センサーが反応し、扉が再び開いた。


蒼太は何の気なしに一歩を踏み出そうとして——凍りついた。


「あ」


声が重なった。


エレベーターの中には、見知った顔があった。しかし、いつもの彼女とは明らかに違う。


ハイトーンカラーの髪は無造作に後ろで縛られ、寝癖なのか毛先があちこちに跳ねている。顔には一切のメイクがなく、代わりに黒縁の眼鏡がかかっていた。服装は蒼太と同じくジャージ——しかも、どこかのスポーツブランドのロゴが色褪せた、明らかに部屋着として長年愛用されてきたもの。手には丸めた紙くずがいくつか詰め込まれた小さなゴミ袋。


普段の「白河凛音」を構成する要素が、何一つない。


派手なギャルメイク。華やかなファッション。自信に満ちた佇まい。そのすべてが剥ぎ取られた、素の彼女がそこにいた。


二人は同時に固まった。蒼太の手からゴミ袋がずり落ちそうになる。凛音の目が、まん丸に見開かれていく。


エレベーターの扉が閉まりかけ、センサーが反応して再び開く。その一連の動作の間、二人は一言も発することができなかった。


沈黙を破ったのは、凛音だった。


「見ないで!!」


悲鳴のような声とともに、凛音は手に持っていたゴミ袋を勢いよく顔の前に掲げた。半透明の袋越しに、丸めた紙くずのシルエットが透けて見える。


「……何を」


「すっぴん!見ないでって!」


凛音の声は裏返り、悲痛ですらあった。彼女は蒼太から顔を背けるようにエレベーターの隅へと移動しようとするが、箱の中は狭い。逃げ場など、どこにもない。


蒼太は仕方なくエレベーターに乗り込み、一階のボタンを押した。扉が閉まる。密室が完成した。


「っ……なんでこっち見てんの!?ゴミ袋見てて!床見てて!天井でもいいから!」


「いや、どこ見ても狭いから……」


「だったら目ぇ閉じてよ!」


「それだと降りる階わからないだろ」


「う……っ、だったら先に降りて!先に行って!」


「一階に着くのは同時だと思うけど」


「正論やめて!今そういうのいらないから!」


凛音はゴミ袋を盾のように構えたまま、壁に背中を押しつけている。耳まで真っ赤に染まっているのが、袋越しでもわかる。


蒼太は視線のやり場に困りながら、階数表示を見つめた。現在三階。一階まで、あと少し。しかし、このエレベーターは古い。降下速度が、やたらと遅く感じられる。


沈黙が、痛い。


耐えきれなくなったのか、蒼太が口を開いた。


「別に変じゃない」


「嘘!」


凛音の反論は即座だった。ゴミ袋の向こうで、彼女の声が震えている。


「派手なメイクないと別人でしょ!ブスでしょ!わかってるから!」


半泣きの声だった。


「ブスって……そこまでは」


「慰めなくていいから!あたしね、メイクに二時間かけてんの!それ全部なかったら、そりゃ別人だって!ていうか何で今日に限ってエレベーター乗ってくんの!?階段使ってよ!」


「いや、俺もゴミ出しだから……」


「だったら時間ずらしてよ!」


「それは無茶だろ……」


「無茶じゃないし!あたしの人生かかってんの!」


「ゴミ出しに人生かけすぎだろ」


「ゴミ出しじゃなくて顔面の話してんの!」


蒼太は少し考えてから、口を開いた。


「……童顔だな、と思っただけ」


凛音の動きが止まる。ゴミ袋が少しだけ下がり、その隙間から眼鏡越しの目が蒼太を見た。


「童顔……」


絶句したような声だった。頬がさらに赤くなっていく。


エレベーターが一階に到着し、扉が開く。凛音は真っ先に飛び出そうとして——蒼太も降りなければならないことに気づき、再び固まった。


「……っ、もういい。一階着いたら速攻で捨てて帰るから、あんたは絶対こっち見ないで」


「わかった」


「……ホントに見ないでよ」


「見ないって言ってる」


「……絶対だからね」


「……ああ」


ゴミ捨て場へ向かう短い廊下を、二人は無言で歩いた。凛音は相変わらずゴミ袋で顔を半分隠しながら、蒼太の斜め後ろをついてくる。


蒼太は歩きながら、ちらりと後ろを振り返った。袋の隙間から、凛音の横顔が見える。眼鏡のレンズ越しの目。化粧気のない頬。小さな鼻と、薄い唇。


——やっぱり、そうだ。


蒼太は、自らの確信が正しいことを裏付けられた。夜のドア越しに一度見た時よりも、明るい場所で改めて見ると、普段のギャルメイクでは見えなかったものがはっきりと見える。丸みを帯びた輪郭。あどけなさの残る目元。派手なつけまつげやアイラインがないぶん、彼女本来の顔の造形が露わになっていた。


ゴミ捨て場に着き、蒼太は手早くゴミを捨てた。凛音は——まだ顔を上げられずにいた。うつむいたまま、ゆっくりとゴミをコンテナに入れる。その動作は普段の彼女からは想像できないほど、おどおどとしていた。


蒼太は、どうしたものかと考えた。このまま先に帰っていいものか。それとも、何か声をかけるべきか。


「じゃあ、俺は戻るから——」


その瞬間。袖を、掴まれた。


蒼太が振り返ると、凛音が俯いたまま、彼のジャージの袖を握りしめていた。細い指が、ぎゅっと布地を掴んでいる。


「……そんなに」


凛音の声は、消え入りそうなほど小さかった。


「……そんなに変じゃない……?」


顔は相変わらず上げられない。しかし、その声には切実な響きがあった。


蒼太は、その問いの重さを感じ取った。彼女にとって、見た目がどれほど重要なのか。普段のギャルメイクにどれほどの労力と時間をかけているのか。そして、それを剥ぎ取られた姿を見られることが、どれほどの恐怖なのか。


今の彼女は、その武装をすべて解除された状態。無防備で、脆くて——だからこそ、確認せずにはいられないのだろう。


蒼太は、凛音の顔をまっすぐに見た。少しだけ考えた。嘘は言いたくない。かといって、気まずくなるようなことも言いたくない。


結局、思ったことをそのまま口にすることにした。


「メイクしてる時より柔らかい感じがする」


凛音の肩が、ピクリと震えた。


「いいと思う」


短い言葉だった。飾り気のない、蒼太らしい言い方。しかし、その言葉が凛音に与えた衝撃は、計り知れなかった。


「っっ!!」


声にならない声が、凛音の口から漏れた。彼女は顔を真っ赤にしたまま、袖を離し——そして、走り出した。


「……おい、どこ行く」


「なんでもないっ!」


ものすごい速さだった。ジャージ姿でスリッパを履いているとは思えないスピードで、凛音はマンションのエントランスへと駆け込んでいく。


蒼太は呆然とその背中を見送った。


「……何だったんだ」


朝の静けさの中、彼女の足音だけがバタバタと遠ざかっていく。蒼太は頭を掻きながら、ゆっくりとマンションへ戻ることにした。


凛音は自室に飛び込むなり、玄関で崩れ落ちた。


「……っ、……っ」


息が整わない。心臓が壊れそうなほど暴れている。ドアにもたれかかったまま、凛音は両手で顔を覆った。


「いいって言った……いいって……柔らかいって……」


蒼太の言葉が、頭の中でリフレインする。


「なんで……なんでそんなこと言うの……死ぬ……心臓止まる……」


最悪だった。人生で一番見られたくない姿を、よりにもよって蒼太に見られた。眼鏡でジャージで髪ボサボサですっぴんで——もう終わりだと思った。嫌われたと思った。


なのに。


「……っ、でも」


涙がにじむ。嬉しいのか悲しいのか、自分でもわからない。ただ、感情が溢れて止まらない。


「嬉しい……すっごい嬉しい……」


凛音は床に座り込んだまま、しばらく動けなかった。


一方、蒼太は自室に戻り、ソファに腰を下ろした。テレビをつけ、休日の情報番組を眺める。しかし、内容はあまり頭に入ってこなかった。


——童顔、か。


凛音のすっぴん姿を思い出す。派手なメイクがないと、確かに印象はだいぶ違う。けれど、変だとは思わなかった。むしろ、普段よりも親しみやすい顔だった。


あどけない目元。丸みを帯びた頬。


——三年前のあの子と、やっぱり同じだ。


明るい場所ではっきりと見た凛音の素顔が、三年前の記憶と完全に重なった。コンビニの前で泣いていた女の子。派手な髪色だったけれど、メイクは崩れていて——その下の顔は、今日見た凛音と同じ童顔だった。


蒼太は、テレビの画面を見つめたまま静かに息を吐いた。あの時の女の子と、凛音。その確信は、もはや絶対のものになっていた。


「……あいつだったんだな」


蒼太は小さく呟いた。三年前、一万円を渡した女の子。それが凛音だったなら——彼女はなぜ、三年間もこのマンションにいたのか。なぜ自分なんかに弁当を届け続けているのか。


その答えは、もう目の前にある気がした。ただ、まだ凛音の口から聞いていない。彼女が自分から話すまで、待つべきなのかもしれない。


それから数日後。凛音は自室の鏡の前で、深呼吸を繰り返していた。


「よし……大丈夫……」


今日は、すっぴんのまま廊下に出る。


あの日以来、凛音は少しだけ変わり始めていた。蒼太の言葉が、何度も頭をよぎる。


「蒼太くんがいいって言ってくれたから……大丈夫」


鏡の中の自分に、凛音は言い聞かせる。


「……大丈夫、だよね」


玄関のドアを開ける。廊下を見渡す。誰もいない。凛音は意を決して、一歩を踏み出した。眼鏡をかけたまま。メイクは一切なし。ただし、髪だけはちゃんと整えた。


——週に一回だけ。少しずつ、慣れていこう。


廊下の先、蒼太の部屋のドアが見える。いつか、この姿でも堂々と彼の前に立てるようになりたい。


凛音は、その小さな決意を胸に、そっと微笑んだ。


部屋に戻ると、机の上の『蒼太くん攻略計画』と題されたノートを開く。新たな項目を書き加える。


『週一すっぴんチャレンジ——蒼太くんに本当の私を、少しずつ見せていく』


ペンを置き、凛音は窓の外を見つめた。


「待っててね、蒼太くん」


インクの乾く音すら愛おしいと思いながら、凛音はノートを閉じた。


同じ頃、蒼太はソファで天井を見上げていた。三年前の記憶が、今ははっきりと形を持っている。泣いていた女の子。童顔の輪郭。派手な髪色。


そして今朝見た、凛音のすっぴん姿。


——あいつが、あの時の子だったんだな。


蒼太は目を閉じた。答えは、もう見つかっていた。けれど、凛音が自分から話すまで、待とうと思った。彼女には彼女のタイミングがある。それを急かすつもりはなかった。

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