ただいま、と言える場所
午前七時。まだ人気のないオフィスに、蒼太の足音だけが響いていた。
経理部のフロアは蛍光灯の白い光に照らされ、整然と並んだデスクが静かに朝を待っている。蒼太は自分の席に鞄を置くと、習慣のようにフロア全体を見渡した。
後輩の高橋の机に目が止まる。昨日の退勤間際、締め切りギリギリで提出された月次報告書。蒼太はそれを手に取り、一枚一枚確認していく。
「……ああ、やっぱり」
三ページ目の集計欄。数字が一桁ずれている。このまま部長に提出されれば、会議で恥をかくのは高橋だ。入社二年目、ようやく仕事を任されるようになった後輩。昨日、緊張した顔で「チェックお願いします」と持ってきた時の表情が蘇る。
蒼太は赤ペンではなく、鉛筆を手に取った。薄く正しい数字を書き込み、付箋に「念のため確認を」とだけ記す。直接ミスを指摘するのではなく、高橋自身が気づけるように。修正した書類を元の場所に戻し、何事もなかったように自分の席へ戻った。
これで高橋が出社してきた時に、自分で気づける。俺が直したって知られる必要はない。
窓の外では、早朝の街がゆっくりと動き始めている。蒼太は自分のパソコンを立ち上げながら、今日の業務リストを頭の中で組み立てていった。
誰に褒められるわけでもない、誰に感謝されるわけでもない。それでも、これが藤崎蒼太の朝だった。
午前十一時半。経理部にも人が揃い、キーボードを叩く音や電話の声が飛び交っている。
蒼太は自分の作業を進めながら、ふと斜め向かいの席に視線を向けた。先輩の村上が、目の下に濃い隈を作ってパソコンに向かっている。決算期の残業続きで、ここ一週間はほとんど家に帰れていないらしい。缶コーヒーの空き缶がデスクの端に三本並んでいた。
蒼太は席を立ち、自販機コーナーへ向かった。財布から小銭を取り出し、栄養ドリンクのボタンを押す。ガコンと音を立てて落ちてきたそれを手に、蒼太は経理部へ戻った。
村上がトイレに立った隙を見計らい、さりげなくその机に栄養ドリンクを置く。メモも何も添えない。ただ、見える位置に。
五分後、戻ってきた村上が首を傾げる。
「あれ……誰がこれ置いてくれたんだ?」
周囲を見回すが、誰も名乗り出ない。蒼太は自分の画面に集中しているふりをしながら、村上がドリンクを開ける音を聞いていた。
「まあいいか。ありがたく飲もう」
村上の独り言。蒼太は小さく息を吐き、何事もなかったように数字の入力を再開した。
「お前、そういうとこだぞ」
背後からの声に、蒼太は振り返った。営業部のエース、日向翔真が腕を組んでニヤニヤしている。金髪にピアス、チャラそうな見た目とは裏腹に、その目は鋭く蒼太を見据えていた。
「何が?」
「栄養ドリンク。村上さんに置いたの、見てたぞ」
「……別に。あの人、倒れそうだったから」
「だから、そういうとこだっつってんの」
翔真は蒼太の肩を小突く。
「高橋も、書類のミスに自分で気づいて青ざめてたけど、誰かが先に直しといてくれたおかげで事なきを得たって感謝してたぞ。どうせお前だろ」
「……さあ」
蒼太の反応は薄い。翔真は首を振った。
「自分の良さに気づいてないの、お前だけだからな」
「良さって……普通のことだろ」
「その普通ができねえ奴がどんだけいると思ってんだ」
蒼太は答えない。ただ、どこか居心地悪そうに視線を逸らすだけだった。
昼休み。社員食堂の隅の席で、蒼太と翔真は向かい合っていた。蒼太は日替わり定食を黙々と食べ、翔真はカツカレーをスプーンでかき混ぜながら、にやにやと蒼太を見つめている。
「で?」
「で、って何だよ」
「隣のギャルとどこまで進んだ?」
蒼太の箸が止まる。翔真は待ってましたとばかりに身を乗り出した。
「どこって……一緒に飯作ったり、買い物行ったり」
「それを進展って言うんだよ」
「……デートか? ただの隣人として——」
「一緒に買い物行って、一緒に飯作って、それを何回もやってんだろ? お前の頭の中の『デート』の定義どうなってんだ」
蒼太は味噌汁を啜りながら考え込む。確かに、凛音との時間は増えている。週末は気づけば一緒にいる。でも、それが恋愛的な意味を持つとは——。
「あいつは変わってるだけだ。誰にでもああいう感じなんじゃないか」
「変わってる、ね」
翔真はカレーを口に運びながら、意味深な笑みを浮かべた。
「あの子、明らかにお前に気があるぞ。鈍感にもほどがある」
「……根拠は」
「根拠? お前、作りすぎたって言い訳しながらタッパー四つ分の弁当持ってくる女がいると思うか?」
「それは——」
「休みの朝からわざわざ弁当持ってきたんだろ? 一緒に飯作る時、お前の好みに合わせてメニュー決めてんだろ?」
蒼太は言葉に詰まった。言われてみれば、確かに凛音の行動は普通の隣人の範疇を超えている。でも——。
「あいつは変わってるだけだ」
同じ言葉を繰り返す蒼太に、翔真は真っ直ぐな目を向けた。
「その変わってるが、お前だけに向いてることに気づけ」
静かだが、重みのある言葉。蒼太は反論しようとして、口を閉じた。
三年前の記憶が、不意に頭をよぎる。コンビニの前で泣いていた女性。派手な髪色、でも童顔で。凛音と、あの時の女性——もうほとんど確信に近い。でも、翔真には言えない。
「……考えとく」
「考えとくじゃなくて認めろよ」
翔真は笑ったが、それ以上は追及しなかった。
午後五時半。蒼太は経理部のデスクで、月末の締め処理を進めていた。画面に並ぶ数字と格闘していると、ポケットの中でスマートフォンが震えた。
画面を確認すると、凛音からのLINE。
『今日、仕事何時に終わる?』
何気ない質問。蒼太は片手で返信を打とうとして、ふと手を止めた。三年前の出来事が頭をよぎる。なぜ時間を聞くのか——少し気になったが、深く考えても答えは出ない。
『7時くらい』
送信ボタンを押してから、蒼太はスマートフォンをデスクの端に置いた。数秒後、既読がつく。返信はない。それもいつも通りだ。蒼太は画面から目を離し、再び仕事に戻った。
同時刻。凛音の部屋では、全く異なる空気が流れていた。
『7時くらい』
蒼太からの返信を見た瞬間、凛音の目が輝く。スマートフォンを胸に抱き、ベッドの上でゴロゴロと転がった。
「七時くらい……ってことは、会社出るのが七時として、電車が十五分、駅から歩いて五分……」
指を折りながら計算する。真剣な眼差しは、まるで数学の難問に挑む受験生のようだ。
「七時二十分くらいにマンション着く! ってことは……洗濯物取り込むのを七時十五分くらいからスタートすれば——」
凛音はベッドから飛び起き、クローゼットに向かった。
「待って、何着てこ。部屋着見られるの恥ずかしいし、でもガチガチにキメてたら『待ってました』感出るし……」
悩んだ末、ラフだけど可愛いルームウェアを選ぶ。髪は軽く巻いて、メイクは薄めに直す。鏡に向かってにっこり笑い、時計を確認した。
「偶然を装って……完璧」
これが白河凛音の「偶然」の正体だった。三年間の片想いで培われた、緻密な計算と情熱。本人は大真面目である。
午後七時十八分。蒼太がマンションのエントランスをくぐり、五階の廊下に出た時のことだった。ちょうど凛音が自室の玄関ドアを開け、廊下に面した窓枠に干していたタオルを取り込んでいるところだった——ように見えた。
廊下で顔を合わせる。凛音は取り込んだタオルを抱え、蒼太を見るなり頬を染めた。
「お、おかえり……っ、別に待ってたわけじゃないし! たまたま洗濯物取り込んでただけだから!」
早口でまくし立てる凛音。そのタオルは、明らかに朝から干していたものではなく、つい一時間前に干したであろう生乾きの状態だった。蒼太は気づかない。
「ただいま」
蒼太は自然にそう返した。特に意識したわけではない。ただ、帰ってきて凛音がいて、「おかえり」と言われたから。それに対する答えとして、最も自然な言葉を選んだだけだ。
凛音の動きが止まる。
「ただいまって……」
小さく呟く凛音。タオルを抱えたまま、固まっている。
「……なんか変か?」
「変じゃない! 変じゃないけど!」
凛音の声が裏返る。顔が赤い。耳まで赤い。蒼太には、凛音がなぜそんなに動揺しているのか分からなかった。
「ただいまって、その、あんたが私に向かって言って、私がおかえりって返して、それって……」
凛音は言葉を詰まらせる。頭の中では『まるで夫婦みたいじゃん』と叫んでいるが、口には出せない。三年間夢見てきた光景。帰ってくる蒼太を「おかえり」と迎える自分。そして蒼太が「ただいま」と返す。それが今、現実になっている。
「白河さん?」
蒼太が怪訝そうに名前を呼ぶ。凛音ははっと我に返った。
「な、なんでもない! じゃ、じゃあね!」
タオルを抱えたまま、凛音は自分の部屋に駆け込んだ。バタン、と扉が閉まる音。蒼太は廊下に一人残され、首を傾げるしかなかった。
「……変なやつ」
そう呟きながらも、蒼太の口元には小さな笑みが浮かんでいた。
凛音は扉にもたれかかり、そのまま床にずるずると座り込んだ。心臓がうるさい。顔が熱い。タオルを抱えたまま、天井を仰ぐ。
「ただいまって言ってくれた……私におかえりって言う権利があるってこと……?」
声に出して確認する。夢じゃない。現実だ。
凛音はタオルを放り出し、机に向かった。引き出しから一冊のノートを取り出す。表紙には手書きで『蒼太くん攻略計画』と書かれている。新しいページを開き、ペンを走らせる。
『今日の成果:おかえり、ただいまのやり取り成功!!!!!!!!』
感嘆符の数がおかしい。でも凛音は気にしない。
『私が「おかえり」って言ったら、蒼太くんが「ただいま」って返してくれた。これって……私に帰ってくる場所があるってこと……?』
妄想が暴走し始める。同棲、結婚、新婚旅行——。凛音はペンを止め、深呼吸した。
「落ち着け私……まだ付き合ってすらないんだから……」
でも、と凛音は思う。確実に、二人の間には「日常」が生まれ始めている。それが何より嬉しい。
ノートを閉じ、凛音は窓の外を見た。壁一枚向こうに、蒼太がいる。
「いつか、ちゃんと伝えなきゃ。三年前のこと……私の気持ち……」
その決意を胸に、凛音は明日の弁当のメニューを考え始めた。蒼太の好きなもの、蒼太が喜ぶもの。全ては、彼のために。
同じ頃、蒼太は自分の部屋で着替えながら、ふと立ち止まっていた。
「……やっぱり、あいつがあの時の女性なんだろうな」
三年前。終電を逃して泣いていた女性。派手な髪色、でも童顔の輪郭。凛音と重なるその記憶——もはや疑う余地はほとんどなかった。
でも、一つだけ確かなことがある。
凛音との「ただいま」「おかえり」——その何気ないやり取りが、妙に心地よかったということだ。
スマートフォンを手に取り、凛音とのLINEの履歴を眺める。たわいない会話の数々。いつの間にか、こうして連絡を取り合うことが当たり前になっていた。
翔真の言葉が蘇る。『その変わってるが、お前だけに向いてることに気づけ』——。
蒼太は窓の外を見た。壁一枚向こうに、凛音がいる。三年前のあの夜、泣いていた女性と同じ顔が。
その答えは、もうすぐ見つかりそうな気がしていた。




