三年前の輪郭
平日の夜、午後八時過ぎ。蒼太は残業を終え、駅前のコンビニに立ち寄った。
自動ドアが開くと、暖房の温かい空気が頬を撫でる。師走の冷気で冷えた身体が、ようやく緩んでいくのを感じながら、蒼太は棚の前に立った。適当にサンドイッチと缶コーヒーを手に取り、レジに並ぶ。前には二人の客。何気なく店内を見回していると、ふと足が止まった。
ガラス越しに見える駅前のロータリー。タクシー乗り場の青白い照明。その光景が、妙に懐かしい。
——この場所、前にも何かあったような。
既視感というには生々しすぎる感覚が、蒼太の胸をざわつかせた。
「お次の方どうぞ」
店員の声で我に返り、蒼太は会計を済ませる。レジ袋を受け取りながら、また窓の外を見た。
三年前の冬。確か、同じ場所で——派手な髪色の女性が、うずくまって泣いていた。終電を逃し、財布も忘れたと言っていた。あの時、自分は何も考えずに一万円を渡した。
「……なんで今、思い出したんだ」
蒼太は小さく呟き、コンビニを出る。十二月の夜風が、記憶の断片を運んでくるかのように冷たかった。
歩きながら、蒼太の脳裏に三年前の光景がフラッシュバックする。あの夜も、同じように残業帰りだった。コンビニから出ると、タクシー乗り場の近くで女性がしゃがみ込んでいた。派手なハイトーンカラーの髪。華やかな服装。でも、その肩は小刻みに震えていて、明らかに泣いていた。
「大丈夫ですか」
声をかけると、女性は顔を上げた。涙で滲んだ目。化粧が少し崩れた頬。でも、その下の素顔は驚くほど——幼かった。
「終電、逃しちゃって……財布も会社に忘れて……」
女性は途切れ途切れに状況を説明した。蒼太は迷わず財布から一万円札を取り出し、差し出した。
「終電なくなった? タクシー代、貸そうか」
「で、でも、連絡先教えてください! 絶対返すから!」
「いいですよ、そういうの。気をつけて帰って」
そう言って背を向けた。振り返らなかった。女性の声が背中で聞こえた気がしたが、蒼太はそのまま歩き続けた。
——記憶はそこで途切れる。女性の顔は、どうしてもはっきり思い出せない。でも、童顔だった気がする。泣きはらした目の下の、幼さが残る輪郭。
——まさかな……でも、あいつも派手な髪で……。
マンションへ向かう道を歩きながら、蒼太は首を傾げた。なぜ今になって、あの夜のことを思い出したのか。先週、俺が「三年くらい前からだっけ」と聞いた時の、何かを言い淀むような凛音の表情が、不意に頭をよぎる。
——同じマンションに三年……偶然か?
三年前。派手な髪色。童顔。同じマンション。蒼太は自分で否定する。偶然にしては符合が多いが、そんな都合のいい話があるわけがない。東京には似たような見た目の女性なんて山ほどいる。それに、あの時の女性の顔ははっきり覚えていない。凛音だと断定する根拠がない。
でも——凛音がこのマンションを選んだ理由。自分に弁当を届けるようになった経緯。「作りすぎた」という明らかな嘘。すべてが、何か一本の線で繋がっているような気がした。
蒼太は立ち止まり、冬の夜空を見上げた。星は見えない。代わりに、マンションの明かりが遠くに見える。その中の一つが、凛音の部屋だ。
帰宅した蒼太は、スーツを脱ぎながらスマホを確認した。凛音からLINEが来ている。
『今日のお昼、おいしかった?』
今日の弁当は肉巻きおにぎりと、彩り豊かな副菜が三種類。朝、玄関先で受け取った時の凛音の顔を思い出す。「べ、別においしく作ろうとか思ってないから! 余り物だから!」と言いながら、明らかに新品のタッパーに詰められた手の込んだ料理。
蒼太は『うまかった』と短く返信する。送信した後、また考える。あの夜の女性と、凛音。本当に同一人物なのだろうか。だとしたら、凛音はなぜ三年間も黙っていたのか。なぜ自分なんかに——。
「……考えすぎか」
蒼太は頭を振り、冷蔵庫から麦茶を取り出した。今夜は凛音のことばかり考えている。それ自体が、以前の自分ではありえないことだった。
——壁一枚隔てた隣の部屋。凛音はスマホを両手で握りしめ、画面を凝視していた。
「うまかったって……おいしかったってこと……蒼太くんがおいしいって……」
床に座り込んだまま、凛音は返信を考え始める。
——よかった! ——いや、軽すぎる。
——そう言ってもらえて嬉しい——重い。引かれる。
——了解です——いや冷たい……仕事のメールか。
——また作るね!——押しつけがましい?
——え、ホント?——疑ってるみたいでダメ。
三十分後。凛音は四十七パターン目の返信をようやく決定した。
『そう。よかった』
——シンプル。でも冷たくない。適度な距離感。完璧。
送信ボタンを押した瞬間、凛音は大きく息を吐いた。
「……疲れた」
たった一行の返信に全精力を使い果たした凛音は、そのままベッドに倒れ込む。でも、口元には笑みが浮かんでいた。机の上に置かれた『蒼太くん攻略計画』ノートの次のページには、「土曜日、買い出しから誘う」と書かれている。
数日後の夜。蒼太がシャワーを浴びて髪を乾かしていると、スマホが震えた。凛音からのLINE。
『今度の土曜、一緒に買い出しから行かない?』
買い出し。つまり、スーパーで食材を選ぶところから一緒にということだ。蒼太は少し考える。断る理由がない。というより、断りたくない自分がいる。
『いいよ』と返信する。
すぐに既読がつく。そして——沈黙。一分。二分。五分。蒼太は不思議に思いながらスマホを置いた。
隣の部屋では、凛音が「やった!!」と送信した後、自分の返事に悶絶していた。
「やったって何!? 子供か!!」
でも他に言葉が見つからなかった。三年間夢見てきた「蒼太くんとスーパーで買い物」が現実になる。凛音は枕に顔を埋め、足をバタバタさせた。土曜日まであと三日。何を着ていくか、今夜から考え始めなければ。
土曜日の夕方。蒼太と凛音は、駅前のスーパーに来ていた。
「今日は何作るの?」
凛音がカートを押しながら聞く。今日は落ち着いたトーンのニットワンピース。いつもより控えめなメイク。でも、耳にはお気に入りのピアスが揺れている。
「豚の生姜焼きにしようかと思って」
「あ、生姜焼き! いいね!」
凛音の目が輝く。蒼太は「そうか」と短く返しながら、精肉売り場に向かう。豚ロース、生姜、玉ねぎ。蒼太が食材を選ぶ様子を、凛音は隣で見つめていた。一つ一つ手に取り、肉の色や脂の入り方を確かめる蒼太の横顔。
「この豚ロース、いい色だな」
「へえ……そういうの、わかるんだ」
「別に。なんとなく」
凛音は、三年間見てきた背中とは違う蒼太の姿に、胸が高鳴るのを感じていた。隣を歩いている。同じものを見ている。これが、ずっと夢見ていた景色だ。
蒼太の部屋のキッチン。二人は並んで立っていた。
「私も手伝う!」
「じゃあ、野菜切ってくれ」
「う、うん! 任せて!」
凛音は野菜を切る役を買って出た。
「包丁、大丈夫か」
「だ、大丈夫! たぶん!」
凛音の手は緊張で少し震えている。蒼太はさりげなく凛音の手元を見守りながら、生姜をすりおろした。
「慣れてないなら無理しなくていい」
「練習したいの! ……蒼太くんと一緒に作りたいから」
小さな声で付け足された言葉に、蒼太の手が一瞬止まる。
「……そうか」
しばらく二人は黙々と作業を続けた。じゅうじゅうと肉が焼ける音だけが、キッチンに響いている。
凛音が切り終えた野菜を見て、蒼太はふと眉を上げた。普段あれだけ手の込んだ弁当を作れる人間にしては、切り方が少し不揃いだ。緊張しているのか——そう思いながら、蒼太は何も言わずフライパンの火加減を調整した。
「そういえば先週、三年くらい前から住んでるって話になったけど」
蒼太がふと口を開いた。何気ない口調。でも、凛音の手が一瞬止まる。
「……このマンション選んだ理由、あったのか?」
踏み込んだ質問だった。自分でも驚くほど自然に口をついて出た。凛音の肩が強張る。玉ねぎを切る手が止まった。
「……偶然、だよ」
凛音は顔を上げずに答えた。その声は、明らかに嘘をついている時の響きだった。
「駅から近かったし、家賃もちょうどよかったし」
言い訳を重ねる。でも、声が震えているのが自分でもわかる。蒼太は何も言わなかった。ただ、フライパンの火加減を調整しながら、凛音の横顔をちらりと見た。その目に、問いかけるような光があるのを、凛音は感じ取った。
——言わなきゃ。いつか言わなきゃ。でも——今じゃない。今言ったら、この心地いい関係が壊れてしまう気がする。「三年前からあんたに片思いしてた」なんて、重すぎる。引かれる。気持ち悪いと思われる。
「……野菜、これでいい?」
凛音は話題を変えるように、切った野菜を見せた。
「ああ、いいよ」
蒼太は微かに笑った。その笑顔を見て、凛音の胸がまた痛む。好き。ずっと好きだった。でも、真実を告げる勇気がまだない。
生姜焼きが完成した。湯気の立つ皿を中心に、二人は向かい合って座る。
「いただきます」
凛音が手を合わせる。一口食べて、目を輝かせた。
「おいしい……!」
「お前も切ったんだから、お前も作ったようなもんだろ」
「え、そう? 私も作った? 蒼太くんと一緒に?」
凛音の声が弾む。蒼太は「まあ、そうだな」と答えながら、凛音の笑顔を見ていた。派手な髪色。でも、笑うと童顔が際立つ。
——まさか……いや、でも……。
三年前の女性の輪郭と、確かに重なる。
「一緒に作ると、おいしいね」
凛音が言った。その言葉に、蒼太は小さく頷く。
「……そうだな」
窓の外は、すっかり暗くなっていた。二人の食卓だけが、温かな光に包まれている。凛音は時折、蒼太の横顔を盗み見る。
——いつか——いつか必ず、三年前のことを伝えよう。この人に、自分の想いを全部。
凛音が帰った後、蒼太は一人、天井を見つめていた。布団に入っても、眠気が来ない。
——偶然、だよ。
凛音の声が耳に残っている。あれは嘘だった。確信がある。三年前からこのマンションに住んでいる理由。偶然じゃない何か。
蒼太は目を閉じ、三年前の女性の顔を思い出そうとした。派手な髪色。涙に濡れた目。化粧が少し崩れた頬。その下の——童顔。凛音と、同じ輪郭。
「あいつが、あの時の……?」
声に出して呟いた瞬間、心臓が大きく跳ねた。だとしたら、凛音は三年間——。三年間、何を思ってこのマンションにいたのか。自分のことを、どう見ていたのか。
蒼太は布団を握りしめた。確かめたい。でも、踏み込んでいいのかわからない。凛音が自分から話すまで、待つべきなのか。
窓の外で、電車の音が遠く聞こえた。壁一枚向こうで、凛音もきっと眠れずにいる。
二人の間にある三年間の秘密が、少しずつ輪郭を現し始めていた。




