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運命の夕食

土曜日の午後三時。凛音の部屋は、まるで嵐が通り過ぎた後のような惨状だった。


ベッドの上には十着以上の服が山積みになり、床にはハンガーが散乱している。鏡の前に立つ凛音は、今日五回目の着替えを終えたところだった。


「派手すぎる……?」


赤いニットワンピースを体に当て、首を傾げる。普段の凛音なら迷わず選ぶ一着だが、今日は違う。蒼太の部屋で、蒼太の手料理を食べる。それは三年間夢見てきた光景そのものだった。


ワンピースを投げ捨て、次はベージュのブラウスを手に取る。


「……地味すぎる?」


鏡に映る自分の顔は、いつもより血色が良い。というより、朝から興奮しすぎて頬が紅潮しているのだ。深呼吸を三回繰り返し、クローゼットの奥から取り出した淡いブルーのワンピースに目を留めた。シンプルなAラインで、派手すぎず地味すぎない。そこに白いカーディガンを羽織れば——。


「頑張りすぎてない感……これだ」


鏡の中の自分に向かって小さくガッツポーズをする。


続いてメイク。普段ならアイラインをしっかり引いて、つけまつげも欠かさないが、今日は控えめに。でも、アイラインだけは——これだけは譲れない。凛音なりの「武装」だった。


リップを塗り終え、時計を見ると午後四時五十分。あと一時間以上もある。凛音はベッドに倒れ込み、天井を見上げた。


「……長い。長すぎる」


胸の奥で、心臓が痛いほど鳴っている。三年間、ずっとこの日を待っていた。同じマンションに住んでいながら、話しかける勇気もなく、ただ遠くから見ているだけだった日々。それが今、終わろうとしている。


凛音は枕を抱きしめ、小さく呟いた。


「蒼太くん……待っててね」



午後五時五十五分。凛音は蒼太の部屋の前に立っていた。


インターホンのボタンに指を伸ばし——止まる。心臓の音が耳の奥で響いている。深呼吸。一回、二回、三回。それでも指が震えて止まらない。


「大丈夫……大丈夫だから……」


自分に言い聞かせながら、ようやくボタンを押す。ピンポーン、という音が廊下に響いた瞬間、凛音は逃げ出したい衝動に駆られた。でも、足が動かない。


数秒後、扉が開いた。


「入って」


エプロン姿の蒼太が、いつもの無表情で立っていた。紺色のエプロンは少し皺になっていて、袖はまくり上げられている。その姿があまりにも自然で、あまりにも「家庭的」で、凛音は一瞬言葉を失った。


「あ……う、うん」


ぎこちなく頷いて、一歩を踏み出す。蒼太の部屋の前に立つのは初めてではない。先週、弁当を渡しに来た時にも玄関先で少し話した。でも今日は違う。今日は、中に入る。蒼太の生活空間に、足を踏み入れる。


玄関で靴を脱ぎながら、凛音は自分の心臓が暴れているのを感じていた。大丈夫、大丈夫。ただの夕食。ただの、お礼の夕食——。


「こっち」


蒼太の声に導かれ、凛音はリビングへと足を進めた。



リビングに入った瞬間、凛音の鼻腔を温かい香りが包んだ。出汁の香り。醤油と味醂が混ざり合った、どこか懐かしい匂い。


「……いい匂い」


思わず呟いた言葉に、蒼太は振り返らずに答えた。


「座ってて。もうすぐできる」


部屋は想像以上に綺麗に片付けられていた。必要最低限の家具だけが置かれた、シンプルで清潔感のある空間。本棚には経理関係の実務書が並び、テーブルの上には二人分の箸と取り皿が丁寧に並べられている。


凛音はソファに腰を下ろし、キッチンに立つ蒼太の背中を見つめた。


その背中を、三年間見てきた。


マンションの廊下で、すれ違う時。エレベーターの中で、階数ボタンを押す時。ゴミ捨て場で、きちんと分別して捨てている時。いつも少し猫背で、でもどこか頼もしい背中。


蒼太は慣れた手つきでフライパンを操り、何かを手際よく仕上げている。時折、味見をしては塩を足し、火加減を調整する。その一連の動作があまりにも自然で、凛音は見惚れていた。


派手な男が好きだと思われがちだ。ギャルメイクに派手な服、アパレル業界で働いているせいで、周りからは「チャラい男が好きそう」と言われる。でも、凛音が三年間好きでい続けたのは、こういう人だった。


地味で、目立たなくて、でも誰も見ていないところで優しい人。


凛音は小さく唇を噛んだ。好き。本当に好き。この気持ちを、いつか伝えられる日が来るのだろうか。



「できた」


蒼太がテーブルに料理を運んでくる。凛音は思わず息を呑んだ。


肉じゃが。ほくほくのじゃがいもと、飴色に煮込まれた牛肉。だし巻き卵は端が少しだけ焦げていて、それが逆に手作りの温かみを感じさせる。味噌汁からは湯気が立ち上り、炊きたてのご飯は艶やかに光っていた。


「いただきます」


凛音は手を合わせた。箸を持ち上げ、まず肉じゃがに手を伸ばす。じゃがいもを口に運んだ瞬間——。


涙が、勝手に溢れてきた。


止められない。止めようとしても、次から次へと涙が頬を伝っていく。凛音は慌てて顔を伏せたが、嗚咽を抑えることができなかった。


「口に合わなかった?」


蒼太の声が、どこか不安そうに聞こえる。凛音は首を横に振った。


「違う……おいしい……すごくおいしい」


声が震えている。情けない。こんなつもりじゃなかったのに。でも、どうしようもなかった。


三年間、ずっと夢見ていた光景だった。蒼太の部屋で、蒼太の手料理を食べる。それだけのことなのに、こんなにも胸がいっぱいになる。


「ごめ……っ、ごめん、私……」


凛音は袖で涙を拭いながら、必死に言い訳を探した。でも、何も思いつかない。ただ、おいしくて、嬉しくて、それだけで涙が止まらない。


蒼太は何も言わず、ティッシュの箱を差し出してきた。その不器用な優しさが、また凛音の涙腺を刺激する。


ようやく涙が収まった頃、蒼太は小さく笑った。


「よかった」


その笑顔を見た瞬間、凛音は胸が痛くなった。普段は無表情な蒼太が、こんな風に笑うことがある。その笑顔が、自分に向けられている。それだけで、また泣きそうになる。


「い、いただきます……改めて」


凛音は気持ちを切り替えようと、箸を動かし始めた。だし巻き卵は出汁がじゅわっと染み出して、味噌汁は具だくさんで、ご飯はふっくらと炊き上がっている。どれも丁寧に作られていることが、一口ごとに伝わってくる。


「……うまいか?」


「うん。すごく」


会話はぎこちない。でも、不思議と居心地は悪くなかった。蒼太も黙々と箸を動かしながら、時折、凛音の様子を窺っている気配がある。


「仕事、最近どう?」


「あー……忙しいかな。展示会の準備とかで」


「そっか」


「蒼太くん……藤崎さんは?」


「経理だから、月末は毎回バタバタする。でも、まあ、いつも通り」


「そう……」


沈黙。でも、気まずくはない。凛音は味噌汁を啜りながら、何か話題を探した。


「このマンション、長いの?」


「んー……五年くらいかな」


「そうなんだ。私は——」


三年前から住んでる。その言葉が喉元まで出かかって、凛音は口を閉じた。


三年前。終電を逃して、駅前で泣いていたあの夜。蒼太がタクシー代を貸してくれた、あの夜。同じマンションだと知って、運命だと思った。でも、話しかける勇気がなくて、三年も経ってしまった。


「三年くらい前からだっけ」


蒼太がさらりと言った。凛音はびくりと肩を跳ねさせる。


「え……覚えてたの?」


「引っ越してきた頃、廊下ですれ違ったから」


それだけの説明。淡々とした口調。でも凛音は、その言葉の裏に何があるのか、必死に読み取ろうとした。覚えていてくれた。三年前のこと、覚えていてくれた——。


けれど蒼太は、凛音が言葉を止めた理由を察したのか、それとも単に興味がないのか、それ以上は何も聞かなかった。凛音はほっとしながらも、胸の奥で小さな期待と失望が入り混じるのを感じた。


——三年前のあの夜のこと、覚えているだろうか。タクシー代のこと、覚えているだろうか。


まだ、聞けない。凛音は言えなかった秘密を胸の奥に押し込み、味噌汁を一口啜った。



食事を終え、凛音は蒼太の部屋の玄関に立っていた。


「ごちそうさまでした。本当に、おいしかった」


「そう言ってもらえると、作った甲斐がある」


蒼太は相変わらず表情が読みにくいが、声のトーンがほんの少し柔らかい気がする。凛音は靴を履きながら、次の言葉を探していた。


このまま帰るのは嫌だ。また会う約束が欲しい。でも、自分から言い出すのは——。


「また……」


気づいた時には、口が勝手に動いていた。


「また……作って」


小さな声だった。もしかしたら、聞こえなかったかもしれない。凛音は恥ずかしさで顔が熱くなるのを感じながら、蒼太の反応を待った。


数秒の沈黙。凛音の心臓が、また暴れ始める。言いすぎただろうか。図々しいと思われただろうか。でも——。


「いいよ」


蒼太は、あっさりと頷いた。


「ホント……?」


「俺も、一人分作るのも二人分作るのも手間は同じだし」


素っ気ない言い方。でも、凛音には分かる。これが蒼太なりの優しさなのだ。


「じゃあ……また、連絡する」


「ああ」


扉が閉まる直前、凛音は蒼太の顔を見上げた。無表情に見えるけれど、目元がほんの少し緩んでいる。その事実が、凛音の胸をいっぱいにした。


「おやすみ」


「……おやすみ」



自室に戻った凛音は、玄関で靴を脱ぐのも忘れて、その場にしゃがみ込んだ。


涙が、また溢れてくる。


さっきの食事の時とは違う涙だった。嬉しくて、幸せで、でも切なくて——全部が混ざり合って、どうしようもない感情が胸の中で暴れている。


「好き……」


声が震える。


「本当に好き……」


三年間、ずっと見てきた。三年間、ずっと想ってきた。その想いは、今日の夕食で、さらに深くなってしまった。


蒼太の作る料理は、どれも丁寧で、優しい味がした。自分のために時間をかけて作ってくれた。「いいよ」と言ってくれた。また会える。また、あの部屋に行ける。


凛音はようやく立ち上がり、部屋の奥へと進んだ。机の引き出しを開け、一冊のノートを取り出す。表紙には『蒼太くん攻略計画』と書かれている。


ページをめくると、三年分の記録が並んでいた。


新しいページを開き、今日の日付を書く。そして——。


『蒼太くんの部屋で、夕食を食べた。肉じゃが、だし巻き卵、味噌汁、ご飯。全部おいしかった。泣いてしまって恥ずかしかったけど、「よかった」って笑ってくれた。「また作って」って言ったら、「いいよ」って言ってくれた。また会える。また、会えるんだ』


ペンを置き、凛音はノートを胸に抱きしめた。


壁の向こうには、蒼太がいる。たった壁一枚隔てただけの距離に、ずっと好きだった人がいる。


「いつか……いつか、伝えられるかな」


三年前のこと。タクシー代のこと。ずっと見ていたこと。好きだということ。


まだ言えない。言ったら、この関係が壊れてしまうかもしれない。でも——。


凛音は涙を拭い、窓の外を見上げた。夜空に星が瞬いている。


「待ってて、蒼太くん。いつか、ちゃんと……」


その言葉の続きは、夜の静寂に溶けていった。


——三年前から住んでいる。


あの時、凛音は確かにそう言いかけた。蒼太は彼女が言葉を止めたことに気づいていた。だからあえて、自分から「三年くらい前からだっけ」と水を向けた。それ以上は踏み込まなかった。彼女の横顔には、何かを堪えるような表情が浮かんでいたから。


なぜ、言葉を止めたのだろう。


その答えは、まだ凛音の胸の奥にしまわれている。

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