47回目の送信ボタン
月曜日の朝七時。蒼太は誰もいないオフィスに足を踏み入れた。
フロア全体を支配する静寂と、起動したばかりのパソコンが立てる微かなファンの音。いつもの光景だ。窓から差し込む朝日が、整然と並んだデスクを淡く照らしている。
鞄を自分の席に置き、経理部のファイルを整理し始める。請求書、領収書、経費精算書。慣れた手つきで書類を仕分けていく。けれど今日は、いつもと違う何かが蒼太の意識を占めていた。
土曜日に受け取った弁当——凛音が作った、あの弁当の味が頭から離れない。
ハンバーグのジューシーさ。唐揚げのサクサク感。肉じゃがの優しい甘さ。どれも手間暇かけて作られたものだということは、料理をする蒼太にはすぐにわかった。
「……あの量を、足を痛めた状態で」
無意識に呟きながら、手元の書類に目を落とす。金曜日の夜に足首を捻挫していた彼女が、翌朝あれだけの料理を用意するのにどれほどの労力がかかったか。想像すると、胸の奥がざわついた。
お礼に何を作ろう。
頭の中で、和食のレパートリーが浮かんでは消える。肉じゃが、だし巻き卵、味噌汁——母親から教わった、一番得意なメニュー。凛音の笑顔を想像しかけて、蒼太は首を振った。
なぜそんなことを考えているのか、自分でもわからない。
ファイルを棚に戻そうとしたとき、後輩の机に置かれた書類が目に留まった。先週金曜日の請求書処理。何気なく数字を確認して、蒼太の眉がわずかに動く。
一桁ずれている。
このまま提出すれば、後輩は部長に呼び出されるだろう。小さなミスだが、経理部では致命的だ。蒼太は周囲を確認し、静かに電卓を叩く。正しい数字を導き出し、修正液で丁寧に訂正を加えて元の場所に戻した。
誰も見ていない。誰も気づかない。それでいい。
「……よし」
小さく呟いて、蒼太は自分のデスクに戻った。パソコンの電源を入れ、今日の業務に取りかかる。けれど頭の片隅では、まだ土曜日のメニューを考えている自分がいた。
午前十時を回った頃、経理部に人が増え始めた。
蒼太は黙々とExcelのデータを打ち込みながら、隣の席の先輩——山田さんの様子をちらりと窺う。目の下に濃い隈、机の上には空になったエナジードリンクの缶が三本。先月から続いている決算処理で、彼女は毎日終電帰りだ。
蒼太は何も言わず席を立ち、給湯室へ向かった。
戻ってきた時、その手には温かい缶コーヒーがあった。山田さんの机の端に、そっと置く。
「あれ、藤崎くん、これ……」
「自販機で間違えて二本買っちゃったんで。よかったら」
嘘だ。蒼太は最初からこのために小銭を用意していた。けれどそんなことは言わない。
山田さんは疲れた顔をほころばせ、缶を手に取った。「ありがとう……助かるわ」
「いえ」
短く答えて、蒼太は自分の席に戻る。誰も見ていない。誰も気づかない。それでいい——蒼太はそう思っている。
けれど今日は、なぜか「気づいてもらいたい誰か」の顔が脳裏をよぎった。
派手な髪色と、真っ赤になった頬。
「……なんであいつのこと考えてるんだ」
蒼太は小さく首を振り、Excelの画面に視線を戻した。
昼休み、経理部のドアが勢いよく開いた。
「よう、蒼太」
金髪にピアス、スーツの着こなしだけは一流の男——日向翔真が、ニヤニヤしながら入ってきた。営業部のエースにして、蒼太の数少ない理解者。
「翔真、声でかい」
「いいじゃん別に。で?」
翔真は遠慮なく蒼太のデスクに腰掛け、顔を近づけてくる。
「で、って何が」
「隣のギャルに、いつ飯作るの?」
蒼太の手が止まった。「……なんでお前が知ってる」
「お前が日曜に『お礼考えとく』って言ってたろ。あの子に『お礼に何か作る』って言ったんだろ?」
眉間を押さえる。そうだ、酔った勢いで話しすぎた。
「……酔ってたからな」
「で、いつ作んの?まさか言いっぱなしで終わりじゃないよな?」
「週末……とか」
小声で答えると、翔真は満足げに頷いた。
「お前の料理うまいもんな。和食だろ?あの子、絶対落ちるぞこれは」
「落ちるって何が」
「とぼけんなよ。つか、お前まだ気づいてないのか?あの子、明らかにお前のこと——」
「翔真」
蒼太は遮るように名前を呼んだ。翔真は「なんだよ」と眉を上げる。
「俺は、お礼を返したいだけだ」
「はいはい、お礼ね」
翔真は肩をすくめ、立ち上がった。「……まあいいや。頑張れよ、普通の男」
その言葉に、蒼太は何も返せなかった。
午後七時、仕事帰りのスーパーマーケット。
蒼太は野菜売り場で足を止め、じゃがいもを一つずつ手に取っては戻すを繰り返していた。
「煮崩れしにくいのは……メークインか」
いつもなら適当に選ぶ。一人暮らしの自炊で、そこまでこだわる必要はない。けれど今日は違う。
誰かに食べてもらう——その事実が、蒼太の手を慎重にさせていた。
じゃがいもは日持ちするから今買っておいてもいい。玉ねぎ、にんじんも同様だ。味噌は減塩タイプではなく、昔ながらの熟成味噌を選んだ。
「肉と卵は……当日だな」
生鮮食品は土曜の朝に買い直す。料理好きの習慣が、そう判断させた。
買い物かごには根菜と調味料だけが入っている。
「週末、黒毛和牛にしようか……」
独り言を呟きながら、レジへ向かう。けれど無意識に、凛音の笑顔を思い浮かべていた。
「うまかった」と言った時、彼女がどんな顔をしていたか。真っ赤になって逃げていく背中。あの反応は、なんだったのだろう。
考えても答えは出ない。蒼太はビニール袋を両手に提げ、マンションへと歩き出した。
午後八時、マンション五階。
蒼太は自室の鍵を開ける前に、隣のドアの前で足を止めた。スーパーの袋を床に置き、インターホンを押す。
数秒の沈黙。反応がない。
もう一度押す。今度は、中から何かが倒れる音が聞こえた。
「ちょっ、待っ、えっ⁉」
くぐもった声。しばらくして、ドアがわずかに開く。隙間から覗いたのは、眼鏡をかけた童顔の女性だった。
髪は無造作に一つにまとめられ、すっぴんの肌は白い。土曜日の朝も薄化粧だったが、今日は完全にすっぴんらしく、さらに幼く見える。
「え、今⁉ なんで今⁉」
凛音は顔を手で隠しながら、裏返った声で叫ぶ。
「悪い、夜遅くに」
「いや、そうじゃなくて! ちょっと待って、顔、顔見ないで!」
蒼太は困惑する。「……土曜の朝も眼鏡だったろ」
「あの時は薄化粧してたの! 今日は完全にすっぴんなの! 全然違うの!」
確かに土曜日より化粧っ気がない。そこまで慌てることだろうか。蒼太は視線を逸らし、淡々と言葉を紡いだ。
「用件だけ伝える」
「用件⁉」
凛音の目がドアの隙間から大きく見開かれる。
「土曜日、夕飯作るから来て」
沈黙。三秒、五秒、十秒。
「は、はぁ⁉」
凛音の声が廊下に響く。慌てて口を押さえ、周囲を見回してから小声で続ける。
「ちょっと待って心の準備が、え、土曜、蒼太くんの部屋で、ごはん……?」
「弁当のお礼。和食になるけど」
ドアを閉めかける凛音の手が震えているのが見えた。蒼太は一歩引き、言葉を付け加える。
「嫌なら無理しなくていい」
その瞬間、ドアが再び開いた。
「行く!」
叫ぶような声。凛音は顔を真っ赤にしながら、ドアの隙間から必死に訴える。
「行くから! 絶対行くから!」
蒼太は小さく頷いた。「時間、後で連絡したい。LINE交換してもいいか?」
凛音の動きが止まった。ドアの隙間から覗く目が、信じられないものを見るように見開かれる。
「……え」
「時間決まったら連絡したいから」
「れ、連絡先……蒼太くんと……連絡先……」
凛音の声が震えている。数秒の沈黙の後、ドアの隙間から白い手がぬっと伸びてきた。その手には、スマートフォンが握られている。
「ど、どうぞ……」
蒼太はポケットから自分のスマホを取り出し、凛音の画面に表示されたQRコードを読み取った。友だち追加の通知が表示される。
「追加した」
「う、うん……」
凛音の手が引っ込む。ドアの隙間から、真っ赤な耳だけが見えていた。
「じゃあ、また連絡する」
「……はい」
蚊の鳴くような返事。蒼太は踵を返す。背後でドアが勢いよく閉まる音。そして、扉の向こうから何かが崩れ落ちるような物音が聞こえた。
廊下を歩きながら、蒼太は思わず呟く。
「……変わった子だな」
口元が、無意識に緩んでいることに、本人は気づいていなかった。
同じ頃、隣の部屋。
白河凛音は床に座り込んだまま、両手で顔を覆っていた。
「土曜日……蒼太くんの部屋で……手料理……」
信じられない。三年間、ずっと夢見てきたシチュエーションが、急に現実になろうとしている。
「嘘でしょ……夢じゃないよね……?」
凛音は這うようにしてカレンダーの前へ移動し、土曜日の欄を凝視する。あと五日。
「何着ていこう……」
クローゼットを開け、服を取り出しては戻す。派手すぎる。地味すぎる。露出が多い。露出が少なすぎる。
「っていうか、またすっぴん見られた⁉」
今更ながらに気づき、凛音は再び崩れ落ちる。土曜の朝は薄化粧だったのに、今日は完全にすっぴんだった。
「最悪……最悪最悪最悪……」
けれど——蒼太は何も言わなかった。引かなかった。それどころか、夕飯に招待してくれた。
「……でも、引かなかった。夕飯に誘ってくれた」
期待と不安が入り混じり、凛音の心臓は暴れ続ける。
「もしかして……すっぴんでも大丈夫だった……?」
テーブルの上には『蒼太くん攻略計画』と書かれたノートがある。凛音はそれを開き、新しいページに書き始めた。
「よし、新しいページ……」
今夜は眠れそうにない。
夜十一時。凛音はスマートフォンを握りしめ、LINEの画面と格闘していた。
「土曜日、何時がいい?」
シンプルな質問のはずだ。しかし凛音には、これが難題だった。
最初の案は「土曜日、何時に行けばいいですか?」——敬語が固すぎる。却下。
「土曜、何時がいい?……呼び捨てっぽい。却下」
「土曜日楽しみにしてます♡何時がいいですか?……絵文字がキモい。絶対却下」
「土曜日の件ですが……ビジネスメールかよ。却下」
三十分が経過した。凛音は何度も文面を打っては消し、打っては消しを繰り返す。
「……なんで一言送るのにこんなに悩むの私」
軽すぎず、重すぎず、でも期待してることは伝えたい。
四十五回目。「土曜日、何時がいい?」——結局、最初に戻った。
四十六回目。絵文字を付けようか悩んで、やめる。
四十七回目。深呼吸をして、送信ボタンを押した。
「……送れた」
凛音は布団に倒れ込み、天井を見上げる。心臓がうるさい。三十秒後に既読がついた時、息が止まるかと思った。
蒼太からの返信は——「18時で」。
たった一言。
「一言……たった一言だけ……」
凛音は枕に顔を埋め、声にならない悲鳴を上げた。四十七回も推敲したのに、返事は素っ気ない短文。
「この男、やっぱり手強い……」
けれど、だからこそ三年も好きでいられるのだ。
凛音は枕から顔を上げ、スマホの画面をもう一度見つめた。「18時で」——その一言が、今は世界で一番輝いて見える。
「……でも、だから好きなんだよね」
小さく呟いて、凛音は画面を胸に抱いた。
「三年待った甲斐があった……土曜日、絶対うまくいかせる」
テーブルの上の『蒼太くん攻略計画』ノートには、今夜もまた新しい文字が書き加えられていく。
土曜日まで、あと五日。凛音の三年越しの想いは、ようやく動き始めていた。




