だから言っただろ?
日曜日の夜、駅前の雑居ビル三階にある居酒屋「鳥よし」は、週末の終わりを惜しむサラリーマンたちで賑わっていた。
カウンター席の奥、壁際のテーブルに向かい合って座る二人の男。一人は黒髪を無造作に整えた地味な印象の男——藤崎蒼太。もう一人は金髪にピアス、どこからどう見ても陽キャな風貌の男——日向翔真。
翔真は届いたばかりの生ビールを一気に半分ほど煽ると、ジョッキをテーブルに叩きつけるように置いた。
「だから言っただろ? あの女やめとけって」
開口一番、遠慮のかけらもない。蒼太は枝豆を一粒つまみながら、小さく息を吐いた。
「……まあ、そうだったな」
「そうだったな、じゃねーよ」
翔真は呆れたように眉を上げる。
「俺が何回言ったと思ってんだ。付き合い始めた頃から、あいつヤバいって言い続けてただろ」
蒼太は何も言わず、ビールを口に運ぶ。泡の苦味が、妙に沁みた。店内では週末を惜しむサラリーマンたちの笑い声が響き、焼き鳥の香ばしい匂いが漂っている。そんな賑やかさの中で、蒼太の心だけがどこか遠くにあった。
翔真は箸で焼き鳥を掴みながら、声のトーンを落とした。
「あいつさ、お前の財布としか見てなかったぞ」
その言葉に、蒼太の手が止まる。
「……知ってた」
「知ってたって」
翔真は目を細める。
「知ってて三年も?」
蒼太は視線を落とし、テーブルの木目を見つめた。美羽と過ごした三年間。彼女の誕生日に買ったブランドバッグ、記念日のたびに予約した高級レストラン、何気ない日に強請られたアクセサリー。全部、蒼太の貯金から出ていた。月末になると口座残高を見てため息をつく日々。それでも、美羽の笑顔が見たくて——。
「好きだったんだよ、あいつのこと」
翔真は大きなため息をついた。
「お前の『好き』は、いつも自分を削るやつだな」
「……悪かったよ、忠告聞かなくて」
「謝るとこ、そこじゃねーんだよな」
翔真は焼き鳥の追加注文を済ませ、改めて蒼太の顔を見た。いつもの無表情。だが、その奥にある疲労感を、三年来の友人は見逃さない。目の下の隈、いつもより深い皺。金曜日に振られてから、まともに眠れていないのだろう。
「で、お前はどう思ってんの。振られたこと」
蒼太は少し考えてから、自嘲気味に笑った。
「俺が普通すぎたんだ」
「はあ?」
「美羽は刺激が欲しかったんだろ。でも俺は……どこにでもいる地味な事務員だから。つまらなかったんだと思う」
翔真は箸を置いた。その目が、真剣なものに変わる。
「お前さ、自分のこと過小評価しすぎ」
「……何が」
「何がって全部だよ」
翔真は身を乗り出した。
「お前、後輩のミスを誰にも言わずにフォローしてるだろ。残業続きの先輩にこっそり差し入れしてるだろ。気づかれないように人を助けて、それを『普通』だって言うんだろ」
蒼太は眉をひそめた。
「見てたのか」
「そりゃ見るわ。営業部から経理部、しょっちゅう行き来してんだから」
翔真はビールを一口飲んで続けた。
「……別に、誰でもやることだろ」
「やらねーよ」
翔真は呆れたように首を振る。
「お前の『普通』は、普通じゃねーんだよ。あの女がそれを見る目がなかっただけだ」
蒼太は黙り込んだ。翔真の言葉を、どう受け止めていいかわからない。ずっと「普通」だと思っていた自分。それが美羽には「つまらない」と映った。なら、翔真の言う「普通じゃない」とは何なのか。
「まあいいや」
翔真は話題を切り替えるように、にやりと笑った。
「それより、最近どうなの。生活は」
「どうって……普通に」
「また普通か。お前その言葉禁止な、今日から」
蒼太は苦笑いを浮かべながら、新しく届いた焼き鳥を皿に取った。
「そういえば、なんか弁当もらった」
翔真の手から、箸が落ちた。からん、と乾いた音がテーブルに響く。
「……は?」
「だから、弁当。隣の部屋の——」
「待て待て待て」
翔真は両手を振って蒼太の言葉を遮った。
「隣の部屋って、あの派手な子だろ? 前に言ってた、ギャルっぽい」
「ああ」
「は? 手作り弁当? あの派手な子から?」
「そう。昨日の朝届けに来て、ハンバーグとか唐揚げとか、タッパー四つ分くらい」
翔真は信じられないものを見るような目で蒼太を見つめた。
「手作りか? 手作りかどうかは重要だろ!」
翔真の声が大きくなり、隣のテーブルの客がちらりとこちらを見た。蒼太は「声でかい」と手で制す。
「いや、明らかに手作りだった。肉じゃがとか卵焼きとか、惣菜の味じゃなかったし」
「お前……それ絶対好かれてるだろ」
蒼太は首を傾げた。
「いや、作りすぎただけって言ってた」
「大量の手料理を隣の独身男に持ってくる女がただの隣人なわけねーだろ!」
翔真は落とした箸を拾い上げ、蒼太を指差した。
「考えてみろ。わざわざ休日の朝にタッパー四つ分の料理を作って、隣の部屋の男に届けに来る。しかも手作り。これのどこが『作りすぎただけ』なんだよ」
「……偶然じゃないのか」
「偶然で肉じゃが作る奴がいるか! あれ仕込みに何時間かかると思ってんだ」
蒼太は料理好きとして、その言葉の重みがわかった。
「……まあ、確かに手間はかかるな」
「お前、本気で気づいてないの? あの子、お前に気があるんだって」
「いや……俺みたいな地味な男に、あんな派手な子が興味持つわけないだろ」
「だからそういうとこだっつの」
翔真は額に手を当て、深いため息をついた。それから、何か考え込むように顎に手を当てる。
「なあ、いつからあの子住んでる?」
蒼太は記憶を辿る。隣の部屋に凛音が引っ越してきたのは、確か——。
「三年くらい前……かな」
「三年」
翔真は妙な間を置いて、その言葉を繰り返した。
「三年前っていうと、お前が美羽と付き合い始めた頃か」
「そうだな、たぶん同じくらいの時期だと思う」
翔真の目が細まった。何か引っかかるような、考え込むような表情。
「三年間、隣に住んでて……最近急に弁当持ってくるようになった、と」
「急にっていうか、昨日が初めてだけど」
「お前が振られた翌日に?」
蒼太は箸を止めた。言われてみれば、タイミングが妙だ。金曜日に美羽と別れ、土曜日に凛音から弁当を貰った。
「……偶然だろ」
「本当にそう思うか?」
翔真は探るような目で蒼太を見つめる。その視線に、蒼太は居心地の悪さを感じた。
「三年も隣にいて、今まで特に接点なかったんだろ? それが急に——まあいい、深読みしすぎか」
だが、翔真の目は完全には疑念を消していない。三年という期間。凛音が引っ越してきた時期。蒼太が美羽と別れた直後の行動。何かが繋がりそうで、まだ繋がらない。
「だから偶然だって」
「とにかく」
翔真はビールを飲み干した。
「あの子のこと、もうちょっとちゃんと見てみろ。俺の勘が当たるかどうか、わかるから」
「お前の勘って、当たったことあったか」
「美羽の件、俺は最初から言ってただろ」
蒼太は何も言い返せなかった。
「重い女だけど、お前にはちょうどいいかもな」
「重いって、何がだよ」
「わかんねーならいい。そのうちわかる」
翔真は意味深な笑みを浮かべながら、残りの焼き鳥を平らげた。
「帰るか」
「おう。あ、弁当のお礼はちゃんとしろよ。お前料理得意だろ」
「……考えとく」
会計を済ませて店を出たのは九時過ぎだった。駅前で翔真と別れ、蒼太は夜道を歩いてマンションに戻った。酔いを醒ましながら、翔真の言葉が頭の中で反響していた。
——お前、自分のこと過小評価しすぎ。
——それ絶対好かれてるだろ。
考えすぎだ。蒼太は心の中で否定する。凛音が自分に好意を持っているなんて、そんなことがあるはずない。
エントランスを抜け、エレベーターに乗り込む。五階のボタンを押し、扉が閉まる。静かな箱の中で、自分の息遣いだけが聞こえる。
チン、という音とともにエレベーターが五階に到着した。扉が開く。
——そこに、凛音がいた。
自室の前で、ゴミ袋を手に持ったまま立っている。パーカーにスウェットという部屋着姿。ハイトーンの髪は無造作に結ばれ、メイクは落としているようだった。廊下の蛍光灯が、彼女の姿を白っぽく照らしている。
目が合った。
凛音の顔が、一瞬で赤くなった。
「あ……」
「……ゴミ出し?」
蒼太は何気なく声をかけた。
「ご、ゴミ出し……今じゃなくてもいいし……っていうか、なんで今帰ってきたの……」
支離滅裂だ。蒼太は首を傾げた。
「いや、普通に飲みに行ってて」
「そ、そう……飲み……じゃあ、私、ゴミ……ゴミは明日でいいから……」
明らかに挙動がおかしい。凛音は後ずさりするように自分の部屋のドアに近づく。ゴミ袋を持ったまま、逃げ場を探すように視線を泳がせている。
蒼太は翔真の言葉を思い出した。——あの子、お前に気があるんだって。
まさか、と心の中で否定しながらも、凛音の反応が妙に気にかかる。
逃げるように部屋に入ろうとする凛音の背中に、蒼太は声をかけた。
「あ、弁当うまかった」
凛音の動きが止まった。
背中を向けたまま、微動だにしない。廊下の蛍光灯が、彼女の金髪を白っぽく照らしている。
「……そう」
小さな声。震えているようにも聞こえた。
蒼太は続けた。
「特に肉じゃが。あの味付け、俺好みだった」
凛音の肩が跳ねた。
「ハンバーグも唐揚げも、全部うまかった。ちゃんと完食した」
「っ……」
返事がない。だが、凛音の手が——ドアの鍵を握る手が、明らかに震えている。
「……ありがと」
蚊の鳴くような声だった。凛音は振り返らないまま、ガチャガチャと鍵を開けようとしている。だが、手が震えているせいか、なかなか開かない。
「大丈夫か?」
「だ、大丈夫! ぜんぜん大丈夫だから!」
全然大丈夫ではない声だった。ようやく鍵が開き、凛音は部屋に飛び込むように入っていく。
「じゃ、じゃあね! おやすみ!」
バタン、と扉が閉まった。
蒼太は一人、廊下に残された。
「……変わった子だな」
と呟きながら、自分の部屋の鍵を取り出す。
翔真の言葉がまた頭をよぎる。——絶対好かれてるだろ。
いや、と蒼太は首を振った。あれはただ、恥ずかしがり屋なだけだ。たぶん。きっと。
……本当にそうだろうか。
一方、バタン、と扉を閉めた瞬間、凛音は膝から崩れ落ちていた。
玄関の床に座り込み、胸を押さえる。心臓がうるさい。痛いくらいに脈打っている。
「うまかったって……」
声が震えた。
「うまかったって言った……」
涙が滲んだ。嬉しすぎて、感情がコントロールできない。
三年間、ずっと見てきた人。マンションの廊下ですれ違うたび、心臓が止まりそうになった人。話しかける勇気もなく、ただ遠くから見つめていた人。
その人が、「うまかった」と言った。
凛音は手のひらで顔を覆った。熱い。顔が、耳が、首まで熱い。
「肉じゃが……俺好みって……」
何度も反芻する。あの低い声。淡々とした口調。でも確かに「うまかった」と言った。「全部完食した」と言った。
這うようにしてリビングに移動し、ソファに倒れ込む。クッションを抱きしめ、顔を埋める。
「好き……」
声に出した。
「好き、好き、好き……蒼太くん、大好き……」
三年分の想いが、堰を切ったように溢れ出す。
テーブルの上には、明日の弁当のメニューを書き殴ったメモが散らばっている。その横に置かれた一冊のノート——表紙には丸っこい字で『蒼太くん攻略計画』と書かれている。
凛音はクッションから顔を上げ、そのノートを手に取った。震える手でページをめくり、新しいページにペンを走らせる。
『三日目。昨日渡した弁当の感想を直接言ってもらえた。「うまかった」とのこと。肉じゃがが特に好評。次回は肉じゃがをメインに据える……』
ペンを置き、凛音は再びクッションに顔を埋めた。
「明日……また会えるかな……」
月曜日。平日。蒼太は仕事に行く。つまり、朝、廊下で会えるかもしれない。
凛音は跳ね起きた。
「明日のメイク……何時に起きれば……服は……」
深夜のマンション。壁一枚隔てて、二人の夜は過ぎていく。蒼太は翔真の言葉を反芻しながら眠りにつき、凛音は明日の準備に奔走する。
三年——。
翔真が引っかかった、その数字。凛音が隣に越してきてからの年月。蒼太が美羽と付き合い始めた時期。そして今、蒼太が振られた直後に動き出した凛音。
それらが意味するものを、蒼太はまだ知らない。
三年越しの片思いが、ようやく動き始めていた。




