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作りすぎた、という名の愛情

土曜日の朝十時。蒼太は夢と現実の境界を漂っていた。


昨夜は結局よく眠れなかった。美羽の言葉が頭の中で何度もリピートされ、気づけば窓の外が白み始めていた。『つまらない』『刺激がない』『もっと楽しませてくれる人がいい』——三年間の関係を終わらせるには、あまりにも簡潔な言葉だった。


ピンポーン。


インターホンの電子音が、曖昧な意識を現実に引き戻す。蒼太は布団の中で身じろぎし、枕元のスマホを確認した。土曜日、午前十時三分。宅配便を頼んだ記憶はない。


ピンポーン。


二度目の呼び出し音に、蒼太は諦めたように布団から這い出た。Tシャツとスウェットのまま、寝癖で四方八方に跳ねた髪も直さずに玄関へ向かう。覗き穴から外を確認しようとして——やめた。どうせ誰であっても出なければならない。


ガチャリ。


扉を開けた瞬間、蒼太の脳が一瞬フリーズした。


隣室の彼女——五〇二号室の住人が立っていた。ただし、昨夜見た姿とはまるで別人だった。派手なハイトーンカラーの髪はゆるく一つに結ばれ、顔には最低限の化粧しかしていない。黒縁の眼鏡をかけ、オーバーサイズのカーディガンにデニムという、どこにでもいそうな格好。そして両手には、異様に大きなトートバッグを抱えている。


「あ」


彼女も固まっていた。目が合った瞬間、その白い頬にさっと朱が差す。


「つ、作りすぎただけだから!」


第一声がそれだった。目を逸らし、トートバッグを蒼太に向かって突き出す。


「……は?」


状況が飲み込めない蒼太は、差し出されたバッグと彼女の顔を交互に見た。眼鏡の奥の瞳が泳いでいる。耳まで赤い。


「だから!昨日言ったでしょ、弁当持ってくって!一人暮らしって量の調整難しいじゃん、作ってたら増えちゃって、捨てるのももったいないし、隣に誰か住んでたなって思い出して——」


早口でまくし立てる彼女。蒼太は寝起きの頭で必死に情報を処理しようとした。昨夜、足を捻って座り込んでいた彼女。保冷剤を貸して、確かに「弁当を届ける」と言っていた。まさか本当に来るとは思っていなかったが。


「……入れ、じゃなくて、入る?」


玄関先で立ち話もなんだろうと思い、蒼太は一歩下がった。


「い、いい!ここで渡すだけだから!」


彼女は首を横に振り、トートバッグからタッパーを次々と取り出し始めた。


「えっと、これがハンバーグで、こっちが唐揚げ、これは肉じゃが、卵焼きはここ——」


蒼太の両手に、次から次へとタッパーが積み上げられていく。ハンバーグが二人前、唐揚げが山盛り、肉じゃがは大きめのタッパーにぎっしり、卵焼きは綺麗な黄金色。どう見ても「作りすぎた」というレベルではない。計画的に、しかも相当な時間をかけて作られた量だ。


「これ全部?」


蒼太は思わず声を上げた。タッパーの重みが両腕にずっしりとのしかかる。


「だ、だから言ったじゃん!量の調整が難しいって!」


彼女は顔を背けたまま答える。しかしその声は裏返り気味で、明らかに動揺していた。


蒼太はタッパーの蓋越しに中身を観察した。ハンバーグの焼き色は均一で、唐揚げの衣はカラッと揚がっている。肉じゃがの煮崩れ具合も絶妙だ。料理好きの蒼太には、これがどれだけ手間のかかった仕事かがわかる。


「……うまそう」


素直な感想が口をついて出た。


彼女の動きが止まる。ゆっくりとこちらを向いた顔は、先ほどより更に赤くなっていた。眼鏡の奥の瞳が揺れている。


「と、当然でしょ!」


声が上ずっている。虚勢を張っているのは明らかだった。


「私だって料理くらいするし、別にあんたのために作ったわけじゃないし、たまたま、本当にたまたま量が多くなっただけで——」


言い訳が止まらない。蒼太は黙ってタッパーを抱えたまま、彼女の言葉が途切れるのを待った。


ようやく言葉が尽きた彼女は、居心地悪そうに視線を泳がせていた。玄関の狭い空間に、気まずい沈黙が流れる。


蒼太はふと、彼女の足元に目を落とした。昨夜、保冷剤を当てていた右足首。今日はスニーカーを履いているが、歩き方に若干の違和感があるように見えた。


「昨日の足、大丈夫?」


何気なく聞いた一言に、彼女がびくりと肩を跳ねさせる。


「……っ、大丈夫に決まってんじゃん」


目を逸らしながら答える。その声は小さく、どこか震えていた。


「あんたのせいじゃないし」


「俺のせいとは思ってないけど」


「だったら聞かないでよ……」


彼女は俯いたまま、カーディガンの裾をぎゅっと握りしめていた。耳の先まで赤い。心臓の音が聞こえてきそうなほど、緊張しているのが伝わってくる。


蒼太は腕の中のタッパーを見下ろした。これだけの量を、足首を痛めた状態で作ったのか。しかも土曜日の朝十時に届けに来るということは、相当早くから準備していたはずだ。


「……お礼に今度何か作る」


蒼太がそう言うと、彼女が顔を上げた。眼鏡の奥の目が見開かれている。


「は、はぁ⁉」


「これだけもらって何もしないのも悪いから。俺も料理するし」


「べ、別にそんなの期待してないし!」


彼女は両手をぶんぶん振った。しかしその動きとは裏腹に、頬の赤みは増している。


「勝手にしなよ!私は別に、あんたの料理とか、全然興味ないから!」


言葉と表情が完全に矛盾していた。蒼太は「そうか」とだけ返した。


「じゃ、じゃあ私帰るから!タッパーは、その、いつでもいいから!洗わなくていいし!っていうか洗って返されると逆に困るし!」


支離滅裂なことを言いながら、彼女は後ずさりで自分の部屋へ向かっていく。


「ありがとう」


蒼太がそう言うと、彼女の足が止まった。一瞬だけこちらを振り返り——その顔は限界まで赤く染まっていて——すぐに前を向き、逃げるように自室のドアへ消えていった。


バタン、とドアが閉まる音が廊下に響く。


蒼太は玄関に立ったまま、腕の中の大量のタッパーを見下ろした。まだ温かい。



凛音は自室のドアに背中を預け、その場にずるずると座り込んだ。


心臓がうるさい。耳の中で血流の音が聞こえる。手のひらは汗ばみ、膝が小刻みに震えていた。


「話せた……ちゃんと話せた……」


声に出してみる。現実感がない。三年間、同じマンションに住みながら、まともに会話したことがなかった。エレベーターで一緒になっても「どうも」と会釈するのが精一杯で、廊下ですれ違えば目を逸らすだけ。話しかけたいのに、声が出ない。近づきたいのに、足が動かない。


それが昨日、足を捻挫するという最悪の状況で、ようやくきっかけを掴んだ。そして今日——弁当を渡せた。会話した。彼の顔を見て、声を聞いて、「うまそう」と言ってもらえた。


「うまそうって言った……」


凛音は膝を抱え、顔を埋めた。嬉しすぎて涙が出そうだった。


ふと、スマホを取り出す。カレンダーアプリを開き、予定追加のボタンを押した。指が勝手に動く。


『蒼太くん手料理』


入力してから、自分で自分にドン引きした。


「待って、私何してるの……」


彼は「今度何か作る」と言っただけだ。いつとも、何をとも言っていない。それなのにカレンダーに予定として入れようとしている自分。重い。重すぎる。


「いや、でも、約束は約束だし……」


言い訳を呟きながら、結局「保存」ボタンを押してしまう。日付は空欄のまま。


「……まあ、メモみたいなものだし」


誰に言い訳しているのかわからない。凛音は立ち上がり、本棚の隙間に手を伸ばした。取り出したのは一冊のノート。表紙には手書きで『蒼太くん攻略計画』と書かれている。


ページを開き、震える字で新しい記録を書き加えた。


『弁当を渡した。「うまそう」と言ってもらえた。「お礼に作る」と言われた。死ぬ。幸せすぎて死ぬ』


「三年……三年かかったけど……」


やっと、一歩進めた。凛音はノートを胸に抱きしめ、天井を見上げた。「次は……次こそは……」



蒼太は玄関から戻り、キッチンのテーブルにタッパーを並べた。


改めて見ると、本当に量が多い。ハンバーグだけで四個、唐揚げは優に十個以上、肉じゃがは二日分はありそうだ。卵焼きも綺麗に八切れ並んでいる。


「作りすぎた、ね……」


独り言が漏れる。明らかに嘘だろう。この量を「うっかり」作る人間がいるとは思えない。しかし蒼太は、その嘘を追求する気にはなれなかった。


ハンバーグのタッパーを開ける。途端に、デミグラスソースの芳醇な香りが広がった。表面には照りがあり、ふっくらとした形が崩れていない。フォークで切ってみると、中から肉汁が滲み出てきた。


口に運ぶ。


「……うまい」


素直な感想だった。市販のソースではない、手作りの味。玉ねぎの甘みがしっかり引き出されていて、肉の旨味と調和している。合い挽き肉の配合も絶妙だ。


唐揚げも食べてみる。下味がしっかり染みていて、衣はサクサク。冷めても美味しく食べられるよう、油の切り方も計算されている。


「……手、込んでるな」


料理好きの蒼太だからこそわかる。この一品一品に、相当な時間と手間がかかっている。しかも全てが冷めても美味しいよう工夫されているのは、「他人に渡す」ことを前提に作られた証拠だ。


ふと、冷蔵庫に目が行った。


ドアに貼られた写真。美羽と二人で写った、去年の誕生日の写真。彼女が選んだ高級レストランで、彼女が食べたいと言ったコースを頼み、彼女が希望した特注のケーキを予約しておいた日。写真の中の美羽は笑っているが、蒼太は覚えている——あの日、彼女は「もっと良い店あったのに」と帰り道に呟いていた。


蒼太は無言で冷蔵庫に近づき、マグネットごと写真を外した。


引き出しにしまおうとして、やめた。ゴミ箱に入れた。


テーブルに戻り、まだ温かいハンバーグをもう一口食べる。


「……うまい」


同じ言葉が、また口をついて出た。しかしその響きは、さっきとは少し違っていた。


夕方五時を回った頃、蒼太のスマホが震えた。ソファで横になりながら、何となくテレビをつけていた。土曜日の午後は長い。一人暮らしの部屋は静かで、テレビの音だけが虚しく響いていた。


スマホの画面を確認する。LINEの通知。差出人は——日向翔真。


『昨日美羽と会うって言ってたけど、どうだった?』


同期入社で、唯一の友人と言っていい存在だ。営業部のエースで、金髪にピアスという派手な見た目だが、根は真面目で義理堅い男。蒼太が美羽と付き合い始めた頃から「あの女やめとけ」と言い続けていた、数少ない理解者でもある。


『別れた』


返信すると、すぐに既読がつく。


『マジか。向こうから?』


『ああ』


『……だから言っただろ。飲みに行くぞ。明日の夜空けとけ』


強引だが、翔真らしい。蒼太は少し考えてから、『わかった』と返信した。


『よし。じゃあいつもの店で19時な。遅れんなよ』


『了解』


スマホを置き、蒼太は天井を見上げた。美羽と別れた。三年付き合った彼女に「刺激がない」と言われ、新しい男のところへ行かれた。自分は「つまらない男」だったのだと、突きつけられた。


でも——不思議と、昨日ほど落ち込んでいない自分がいた。


キッチンの冷蔵庫を見る。隣人が持ってきた料理を入れたばかりだ。ハンバーグ、唐揚げ、肉じゃが、卵焼き。どれも丁寧に作られていて、温かかった。


「……変な子だな」


呟いて、蒼太は小さく息をついた。


土曜日の夕暮れ。部屋にはまだテレビの音が流れている。冷蔵庫には隣人がくれた料理が詰まっていて、明日は友人と飲みに行く約束がある。


失恋の翌日にしては、悪くない一日だったのかもしれない——そう思える自分に、蒼太自身が少し驚いていた。


壁一枚向こうでは、凛音がまだ『蒼太くん攻略計画』ノートを抱きしめたまま、幸せの余韻に浸っているとも知らずに。

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