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つまらない、全部

金曜日の夜、午後九時。


新宿の雑居ビルの三階にある居酒屋の個室は、妙に静かだった。障子で仕切られた六畳ほどの空間に、藤崎蒼太と桐谷美羽は向かい合って座っている。テーブルには手つかずの刺身盛り合わせと、泡の消えかけたビールジョッキが二つ。


美羽はスマートフォンの画面を眺めながら、時折唇の端を持ち上げて笑っている。誰かとLINEをしているのだろう。蒼太は三年間、この光景を何度見てきただろうか。デート中でも、食事中でも、美羽の視線はいつもスマホに向いていた。


「なあ、美羽」


蒼太が声をかけると、美羽は顔を上げずに生返事をした。


「んー?」


「今日、話があるって言ってたろ。何かあったのか」


美羽はようやくスマホをテーブルに置いた。長い睫毛に彩られた瞳が、蒼太を見つめる。三年前、合コンで出会った時から変わらない、人形のように整った顔立ち。けれど今夜、その瞳には温度がなかった。


「……ソウちゃんといても、つまんないの」


静かな声だった。責めるでもなく、悲しむでもなく、ただ事実を述べるような平坦な声。


蒼太は一瞬、言葉の意味が理解できなかった。


「……何か、俺が悪いことしたか」


「してない。だから、つまんないの」


美羽は髪をかき上げ、退屈そうに息を吐いた。


「ソウちゃんってさ、怒らないでしょ。喧嘩もしないし、サプライズもないし。私が何言っても『わかった』って言うだけ」


「それは……お前の言うことを聞きたかっただけで」


「そういうとこ。刺激がないの、全部」


美羽の言葉は、鋭利な刃物のように蒼太の胸に突き刺さった。刺激。その二文字が、三年間の全てを否定していた。


蒼太は無意識に拳を握りしめていた。テーブルの下で、爪が掌に食い込む。けれど顔には何も出さない。出せない。二十七年間、そうやって生きてきた。


「何か悪いところがあったなら、直す。だから——」


「無理だよ」


美羽は首を横に振った。その仕草さえ、どこか芝居がかっていて美しい。


「ソウちゃんは変われない。だって、変わる必要ないって思ってるでしょ?自分は普通だから、これでいいって」


図星だった。蒼太は何も言い返せなかった。


美羽がバッグを持って立ち上がる。シャネルのバッグ。蒼太が去年の誕生日にプレゼントしたものだ。


「私、新しい彼氏できたの」


蒼太の思考が、一瞬止まった。


「経営者なんだ。IT系の会社やってて、すっごく刺激的な人。私のこと、お姫様みたいに扱ってくれるの」


美羽は嬉しそうに笑った。蒼太がこの三年間で、ほとんど見たことのない笑顔だった。


「じゃあね、ソウちゃん。三年間ありがとう。楽しいこともあったよ」


障子が開き、美羽の華奢な背中が個室から消えていく。ヒールの音が廊下に響き、やがて聞こえなくなった。


残されたのは、蒼太と、冷めた料理と、二人分のビールだけだった。


店内のざわめきが、どこか遠くに聞こえる。蒼太は泡の消えたビールに手を伸ばし、生温くなった液体を口に含んだ。苦い。舌の上に広がる苦みが、この三年間を思い出させる。


最初は幸せだった——はずだ。美羽と付き合えることが嬉しくて、彼女が喜ぶなら何でもした。毎月のブランド品。美羽が欲しいと言えば、ボーナスを切り崩してでも買った。高級レストランでの食事。一回の会計が蒼太の一週間分の食費を超えることもあった。美容院代、エステ代、ネイル代。「立て替えといて」と言われるたびに、財布を開いた。


気づけば、蒼太の貯金は目減りしていた。けれど美羽が笑ってくれるなら、それでいいと思っていた。


いつから、笑顔が消えたのだろう。いつから、「ありがとう」を聞かなくなったのだろう。


蒼太はビールを飲み干し、空のジョッキを見つめた。


「……俺は普通だから、仕方ない」


口に出した言葉は、自分への言い訳なのか、慰めなのか。どちらにしても、空虚な響きしか持たなかった。


刺激がない。面白くない。つまらない。全部、正しいのだろう。


蒼太は会計を済ませ、店を出た。秋の夜風が頬を撫でる。終電まで、あと二十分だった。



午後十一時四十五分。蒼太は最寄り駅から十分ほど歩き、住み慣れたマンションに到着した。築十年の六階建て。派手さはないが、駅から近くて家賃もそこそこ。蒼太にとっては居心地のいい住処だった。


エレベーターで五階に上がり、廊下に出た瞬間——蒼太の足が止まった。


廊下の真ん中で、女性が倒れていた。いや、正確には座り込んでいる。ハイトーンカラーの髪。派手なメイク。露出度の高いワンピース。ヒールの高いサンダルが片方、廊下に転がっている。どうやらヒールを引っ掛けて転んだらしい。


「……大丈夫ですか」


蒼太が声をかけると、女性がびくりと肩を震わせた。振り向いた顔は、濃いアイメイクに彩られていたが——その瞳には、明らかに動揺の色があった。


「だ、大丈夫です!」


女性は慌てて立ち上がろうとしたが、足首を押さえて顔をしかめた。


「ちょ、痛っ——」


「無理に立たない方がいい」


蒼太は女性の傍にしゃがみ込んだ。足首が少し腫れている。捻挫だろうか。


見覚えのある顔だった。隣室——五〇二号室の住人だ。引っ越してきた時期は忘れたが、廊下やエレベーターで何度かすれ違ったことがある。派手な見た目とは裏腹に、いつも目を合わせるとすぐに逸らしていた印象がある。


「とりあえず冷やした方がいい。待ってて」


蒼太は自分の部屋の鍵を開け、冷凍庫から保冷剤を取り出した。タオルで包んでから、再び廊下に戻る。


女性はまだ同じ場所に座り込んでいた。廊下の蛍光灯が、ハイトーンの髪を白く照らしている。


「これ。患部に当てて」


蒼太が保冷剤を差し出すと、女性は目を見開いた。なぜそんなに驚くのかわからないが、蒼太は気にせず保冷剤を持った手を伸ばしたままにする。


「あ、ありがとう……ございます……」


女性は顔を背けながら、震える手で保冷剤を受け取った。耳まで赤くなっている。酒でも飲んでいたのだろうか。


「立てそうか?」


「た、立てます!多分!」


女性は壁に手をついて立ち上がった。だが、明らかに右足をかばっている。一人で部屋まで歩くのは難しそうだ。


「肩、貸そうか」


「い、いいです!!」


女性は後ずさった。その勢いでよろめき、危うく転びそうになる。


「……無理するな」


「無理じゃないです!ただのちょっとした捻挫だし!あんたに心配される筋合いないし!」


矢継ぎ早の言葉。顔は相変わらず真っ赤だ。蒼太は少し困惑しながらも、これ以上踏み込むのは失礼かと思い、一歩引いた。


「わかった。けど、明日も腫れてたら病院行った方がいい」


「わ、わかってます!」


女性は保冷剤を抱きしめながら、自分の部屋に向かって歩き出した。というより、片足を引きずりながら移動している。


その背中に向かって、蒼太は「おやすみ」と声をかけた。


女性の足が止まった。振り返りはしない。だが、震える声が廊下に響いた。


「あ、明日……弁当届けるから!」


「……は?」


「作りすぎただけだから!深い意味なんてないから!お礼とかじゃないから!じゃあ!!」


言い終わる前に、女性は自分の部屋に飛び込んでいった。ドアが勢いよく閉まる音が響く。


蒼太は廊下に一人、取り残された。


「……弁当?」


意味がわからなかった。作りすぎたから隣人に届ける?そんな習慣、聞いたことがない。


けれど、今日は色々ありすぎた。考える気力もなかった。蒼太は首を傾げながら、自分の部屋に戻った。



部屋の灯りをつけると、いつもと変わらない光景が広がっていた。六畳一間にキッチン。必要最低限の家具。飾り気のない空間。ただいま、と言う相手もいない。


蒼太はスーツを脱ぎ、ハンガーにかけた。シャワーを浴び、髪を乾かし、ベッドに横になる。天井を見つめながら、今日一日を思い返す。


朝、いつも通り出社した。後輩が作った資料のミスを見つけ、こっそり直しておいた。昼休み、残業続きの先輩にコーヒーを差し入れた。定時後、美羽からの「話がある」というLINEを見て、嫌な予感がした。


そして——振られた。三年付き合った彼女に、「つまらない」と言われて。


蒼太は腕を目に乗せた。涙は出ない。悲しいはずなのに、どこか他人事のような気分だった。


「普通の俺には、普通の結末か」


呟いた言葉は、誰にも届かない。明日からも、いつも通りの日常が始まる。誰よりも早く出社して、誰にも気づかれない仕事をして、誰にも必要とされない夜を過ごす。


それが、藤崎蒼太という男の人生だ。


目を閉じる。廊下で出会った女性の顔が、ふと脳裏をよぎった。真っ赤な顔。震える声。「弁当届ける」という謎の宣言。


変わった隣人だ、と思いながら——蒼太は眠りに落ちていった。



同時刻。五〇二号室。


白河凛音は、自室のドアに背中をつけたまま、床にずるずると座り込んでいた。心臓が、おかしくなりそうなほど鳴っている。


「……話せた」


声が震える。目の奥が熱い。


「三年……三年かかって、やっと話せた……」


凛音は両手で顔を覆った。指の隙間から、涙がこぼれ落ちる。


三年前の冬。仕事で失敗して、先輩に怒鳴られて、終電を逃して、財布も忘れて——駅前で泣いていた自分に、声をかけてくれた人がいた。


『終電なくなった?タクシー代、貸そうか』


見知らぬ男性。黒髪を無造作に整えた、地味な身なりの青年。彼は躊躇なく一万円札を差し出した。


『返す……必ず返すから、連絡先教えて』


『いいよ、困ったときはお互い様だから』


『でも——』


『気をつけて帰って』


彼はそれだけ言って、去っていった。名前も、連絡先も、何も聞けないまま。タクシーの中で、凛音は彼の背中を見つめていた。涙が止まらなかった。


それから一週間、凛音は必死で彼を探した。手がかりは、彼が向かった方向と時間帯だけ。奇跡のように——同じマンションに住んでいることを知った。


五〇一号室。藤崎蒼太。


運命だと思った。


凛音は立ち上がり、ふらふらと机に向かった。引き出しを開ける。そこには、三年前のタクシーの領収書が大切に保管されていた。金額は八千七百円。お釣りの千三百円は、まだ返せていない。いや、返す口実にしようと思っていた。でも、話しかける勇気がなかった。三年間、ずっと。


エレベーターで一緒になっても、廊下ですれ違っても、目を合わせることすらできなかった。


それなのに今夜——彼の方から、声をかけてくれた。保冷剤を持ってきてくれた。「無理するな」と、心配してくれた。


凛音は領収書を胸に抱きしめた。


「好き……ずっと、ずっと好きだった……」


誰にも聞こえない声で呟く。


明日、弁当を届けると約束した。作りすぎただけ、という苦しい言い訳。でも、それでいい。やっと——やっと、きっかけができた。


凛音は涙を拭い、キッチンへ向かった。冷蔵庫を開け、食材を確認する。明日のために、今夜から仕込みを始めなければ。彼が「おいしい」と言ってくれる弁当を作るために。


三年越しの想いを込めて。


深夜の五〇二号室に、包丁がまな板を叩く音が響いていた。

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