半年目の決意
六月の朝陽が、蒼太の部屋のカーテン越しに柔らかく差し込んでいた。キッチンからは油が跳ねる小気味よい音と、香ばしい匂いが漂ってくる。
蒼太がベッドから起き上がると、エプロン姿の凛音がフライパンを手に振り返った。ハイトーンの髪を無造作に束ね、すっぴんに近いナチュラルメイク。半年前には想像もできなかった光景だ。
「おはよう」
凛音の声は、もう緊張で上ずることもない。当たり前のように、自然に。
「……おはよう」
蒼太も同じように返す。付き合い始めた頃は、この挨拶一つにも互いにぎこちなさがあった。今は違う。半年という時間が、二人の間にある空気を穏やかなものに変えていた。
「今日の朝ごはん、目玉焼きだよ。黄身は半熟でいい?」
「ああ、いつも通りで」
凛音は嬉しそうに頷いて、フライパンに向き直る。蒼太はその背中を見ながら、ダイニングテーブルに着いた。テーブルの上には、既に味噌汁とサラダが並んでいる。
この光景が、もう半年も続いている。合鍵を渡してから、凛音はほぼ毎日この部屋で朝を迎えるようになった。実質的な半同棲。最初こそ蒼太も戸惑いを感じていたが、今では凛音がいない朝の方が物足りなく感じる。
「はい、お待たせ」
凛音が目玉焼きとベーコンを載せた皿を差し出す。黄身は蒼太の好みに合わせて、絶妙な半熟加減だった。
「……サンキュ」
「ねえ、ベーコンもう一枚いる? 昨日多めに買っといたから」
「いや、これで十分。……毎朝、悪いな」
凛音は箸を持つ手を止め、蒼太をじっと見つめた。
「悪いとか言わないで。私がやりたくてやってんだから」
「……そうか」
「そうだよ。……うまい?」
「ああ。黄身の加減、完璧だ」
凛音の頬がほんのり赤く染まる。
「えへへ……半年も作ってれば、蒼太くんの好みくらいわかるようになるって」
「……半年か」
蒼太は味噌汁を啜りながら、静かに呟いた。
「うん。早かったね、なんか」
「……ああ」
朝食を終え、蒼太はスーツに袖を通す。凛音は今日の出勤が遅いらしく、片付けをしながら蒼太を見送る体勢だった。
玄関で靴を履き、蒼太がドアノブに手をかける。その瞬間、背後から凛音の声が追いかけてきた。
「いってらっしゃい」
振り返ると、凛音がキッチンから顔を覗かせている。口元には自然な笑みが浮かんでいた。
「いってきます」
蒼太は短く答えて、ドアを開ける。半年間、何度も繰り返してきたやり取り。それでも毎回、胸の奥がじんわりと温かくなる。
ドアが閉まる音を聞いて、凛音はその場にしゃがみ込んだ。
「……夫婦みたい」
誰もいなくなった部屋で、小さく呟く。頬が熱い。半年経っても、この瞬間だけは慣れない。蒼太を送り出すたびに、心臓がうるさいほど跳ねる。
三年間、遠くから見ているだけだった。話しかける勇気もなく、廊下ですれ違うだけで精一杯だった。それが今は、毎朝「いってらっしゃい」を言える。蒼太の「いってきます」を聞ける。
凛音は立ち上がり、窓から外を見た。マンションを出ていく蒼太の後ろ姿が見える。その背中を目で追いながら、胸の中で繰り返した。
——夢じゃない。本当に、私たち、こうなれたんだ。
経理部のデスクで、蒼太は伝票の束と格闘していた。月末が近づくと処理すべき書類が増える。いつものことだ。
ふと、ポケットの中でスマートフォンが震えた。画面を確認すると、凛音からのLINEだった。
『今日の晩ごはん、何がいい?』
蒼太は少し考えてから、指を動かす。
『なんでもいい』
送信して数秒。すぐに返信が来た。
『なんでもいいは困る!』
『せめて和食か洋食かだけでも!』
蒼太は思わず口元が緩むのを感じた。凛音はいつもこうだ。何を作るか、何を食べるか、些細なことでも蒼太の意見を聞きたがる。最初は面倒にも感じたが、今は違う。自分のことを考えてくれている、その実感が心地いい。
『じゃあ和食で』
送信する。
『了解!任せて!』
スタンプが連投される。相変わらずの凛音だ。
蒼太はスマートフォンをポケットに戻し、伝票に視線を戻した。だが、さっきまで無機質に見えていた数字の羅列が、どこか違って見える。帰る場所がある。待っている人がいる。それだけで、仕事への向き合い方まで変わる気がした。
昼休み、蒼太は休憩室の自販機でコーヒーを買っていた。そこに、聞き慣れた声がかかる。
「よう」
振り返ると、営業部の日向翔真が立っていた。金髪にピアス、相変わらずのチャラい風貌だが、蒼太にとっては数少ない理解者だ。
「……翔真か」
「お前、最近なんか変わったよな」
翔真はそう言いながら、蒼太の隣でブラックコーヒーのボタンを押した。
「変わった?」
「ああ。前はもっと無表情だったじゃん。仏頂面っていうか、何考えてるかわかんねえっていうか」
「そんなことはないだろ」
「あったよ。マジで。でも最近は違う」
翔真は缶コーヒーを手に取り、蒼太の顔を覗き込むようにした。
「なんつーか、柔らかい顔してる。人間味が出てきたっていうか」
蒼太は首を傾げた。自分では、そんな変化があるとは思えない。表情筋の使い方が変わったわけでもない。いつも通り、普通にしているだけだ。
「そうか?」
「自覚ないのかよ」
翔真は呆れたように笑った。
蒼太は缶コーヒーのプルタブを開けながら、ふと口にした。
「……凛音のおかげかもな」
言ってから、自分の言葉に少し驚いた。こんなことを素直に言えるようになったのは、いつからだろう。
翔真は一瞬目を丸くし、それから盛大にニヤついた。
「のろけかよ」
「違う」
「のろけだろ。お前がそんなこと言うなんて、半年前じゃ考えられなかったぞ」
蒼太は否定しようとして、やめた。否定する理由がない。凛音といると、自然と言葉が出てくる。感情が表に出る。それは事実だ。
翔真はコーヒーを一口飲み、表情を少し和らげた。
「いい顔してるよ、お前」
「……そうか」
「ああ。美羽と付き合ってた頃とは全然違う。あの頃のお前、ずっとどっか無理してたからな」
「……かもな」
蒼太は黙ってコーヒーを啜った。三年間、美羽のために尽くした。金も時間も、全部注ぎ込んだ。でも結局、「つまらない」と言われて終わった。あの頃の自分は確かに、何かを我慢していた気がする。
「今のお前は自然体だ。だから言っただろ?凛音ちゃんとはうまくいくって」
「……ああ」
翔真は満足げに笑い、「まあ、このまま幸せになれよ」と蒼太の肩を叩いて去っていった。
週末の午後。二人は蒼太の部屋のソファで、録画しておいたバラエティ番組を見ていた。凛音は蒼太の肩に頭を預け、時折笑い声を上げる。穏やかな、いつもの休日。
CMに入ったタイミングで、凛音がふと呟いた。
「ねえ」
「ん?」
「蒼太くんの部屋に、私の荷物もっと置いていい?」
蒼太は部屋を見回した。確かに、半年前にはなかったものが増えている。凛音の化粧品が置かれた洗面台。クローゼットの一角を占める凛音の服。キッチンには凛音が持ち込んだ調理器具。本棚にも、いつの間にか凛音の雑誌が並んでいる。
「……そうだな」
「隣の部屋、もうほとんど寝に帰るだけだし」
凛音の声には、どこか探るような響きがあった。蒼太の反応を窺っている。何かを期待している。その気配が伝わってくる。
「……あの、その……」
凛音が言葉を探している間に、蒼太は口を開いた。
「逆に、お前がこっちに来たらいいんじゃないか」
凛音の目が、大きく見開かれた。
「……え?」
「だから。お前の荷物がこっちに多いなら、お前もこっちに来ればいい」
凛音は数秒、固まっていた。それから、震える声で確認した。
「それって……同棲⁉」
「まあ、そういうことになるのか」
蒼太は少し照れながら答えた。自分から言い出すとは思わなかった。でも、凛音に遠回しに言わせるのは違う気がした。自分の気持ちは、自分で伝えるべきだ。
「今さらだろ。もうほとんど一緒に住んでるようなもんだし」
次の瞬間、凛音がソファから飛び上がった。
「待って!引っ越しの準備!何持っていく⁉」
部屋の中をぐるぐると歩き回り、あちこちを指差しながら早口でまくし立てる。
「服は全部持っていく、化粧品も、あとキッチン用品は蒼太くんの方が充実してるから選抜して、でも私のフライパンは捨てられない思い出があって——」
「落ち着け」
蒼太は思わず笑った。凛音の興奮が、伝染してきそうだった。
「落ち着けないよ!同棲だよ⁉」
凛音は両手を振り回しながら叫んだ。目には涙が滲んでいる。
「三年間……三年間、想い続けて、やっと付き合えて、半年経って、今度は同棲で……」
言葉が支離滅裂になっていく。蒼太は立ち上がり、凛音の肩を掴んで動きを止めた。
「だから落ち着け」
「……泣くなよ」
「泣いてない……泣いてないし……っ」
凛音は蒼太の胸に顔を埋めた。肩が小刻みに震えている。
しばらくして、凛音の震えが収まった。蒼太はソファに座り直し、凛音を隣に引き寄せた。
「すぐじゃなくていい。ゆっくり準備すればいい」
「……でも」
凛音は潤んだ目で蒼太を見上げた。
「でも、早く一緒に住みたい」
「……俺も」
小さく、でもはっきりと答えた。
凛音の目から、また涙が溢れた。
「……ずるい」
「何が」
「そういうの、さらっと言うの、ずるい」
凛音は蒼太の腕に顔を押し付けた。蒼太は、その頭をそっと撫でた。
その夜、凛音は自分の部屋に戻っていた。荷物の整理を始めるため、と言っていたが、実際にはほとんど進んでいない。興奮が収まらないのだ。
凛音はベッドに座り、枕元に置いてある日記帳を開いた。三年前から書き続けている、『蒼太くん攻略計画』の延長線上にあるノートだ。
ペンを握り、今日の日付を書く。
「同棲することになった」
書いた文字を見つめる。信じられない。夢じゃない。本当に、蒼太くんと同棲する。
興奮のまま、ペンが走る。
「次は結婚だね」
書いてから、顔が熱くなった。気が早すぎる。でも、想像せずにはいられない。
「蒼太くん、いつプロポーズしてくれるかな」
「……落ち着け、私」
自分に言い聞かせるが、無駄だった。白いドレス、指輪、蒼太のタキシード姿。全部がキラキラと頭の中を駆け巡る。
凛音は部屋を見回した。六畳一間の、慣れ親しんだ空間。ここに越してきたのは三年前。蒼太と同じマンションだと知って、運命だと思った。
「何を持っていこう」
窓の外を見た。隣の部屋——蒼太の部屋の窓が見える。壁一枚隔てた距離。でも三年間、その壁は果てしなく高かった。
「蒼太くんの隣が、私の居場所になるんだ」
呟いて、涙が滲んだ。
「三年待った甲斐があった……」
凛音は窓辺に座り、しばらくの間、隣の部屋の明かりを見つめていた。
同じ夜、蒼太は一人でソファに座っていた。凛音が帰った後の部屋は、少しだけ広く感じる。半年前までは、これが当たり前だったのに。
凛音と同棲する。自分から提案した。言葉にした瞬間、自分でも驚いた。でも、後悔はない。むしろ、遅すぎたくらいだ。
蒼太は立ち上がり、クローゼットを開けた。奥の方に、小さな箱がある。数週間前に買ったもの。まだ凛音には見せていない。
箱を手に取り、中身を確認する。シンプルなデザインのリング。高価なものではないが、凛音に似合うと思って選んだ。
「……同棲して……その次は……」
頭の中で、言葉が形になっていく。まだ早いかもしれない。でも、考えずにはいられない。凛音は三年間、自分を想い続けてくれた。その想いに応えるには、自分も覚悟を決めなければならない。
「……まだ早いか」
蒼太は箱を閉じかけて、止まった。
「……いや」
首を振る。
「……いつか、必ず」
箱を元の場所に戻した。まだ、その時ではない。でも、いつか必ず。
窓の外、隣の部屋の明かりが消えた。凛音が眠りについたのだろう。蒼太は小さく笑い、自分も明かりを消した。
壁一枚隔てた向こうに、自分を待っている人がいる。その事実が、蒼太の胸を温かく満たしていた。
——正式な同棲へ。二人の物語は、新たなステージへと進もうとしている。
そして蒼太もまた、その先を——考え始めていた。




