普通の幸せ、特別な未来
初夏の柔らかな光がカーテンの隙間から差し込んでいた。
凛音は目を開け、一瞬自分がどこにいるのか分からなくなった。見慣れない天井。隣から聞こえる穏やかな寝息。視線を横に向けると、蒼太の寝顔がすぐそこにあった。
——夢じゃない。
本当に、一緒に住んでいる。
凛音は声を出さないように息を吸い込み、ゆっくりと吐いた。昨日、最後の段ボールを運び入れた。蒼太が「疲れただろ」と言って、凛音の好きなグラタンを作ってくれた。一緒にお風呂の順番を決めて、同じベッドで眠りについた。
それだけのことが、凛音には奇跡のように思えた。
蒼太の黒髪が枕に乱れている。起きている時はいつも無表情に近い顔が、今は力が抜けて穏やかだ。口元が少しだけ開いていて、子供のようにも見える。
三年前のあの夜を思い出す。入社半年で大失敗し、終電を逃し、財布も忘れて、駅前のコンビニの前でうずくまっていた。泣いていた。情けなくて、恥ずかしくて、消えてしまいたいと本気で思っていた。
そこに、一人の青年が現れた。
『終電なくなった?タクシー代、貸そうか』
差し出された一万円。連絡先も聞かずに立ち去っていく背中。追いかけようとしたのに、足が動かなかった。
あの背中を、ずっと探していた。
同じマンションだと気づいた時の衝撃。話しかける勇気がなくて、遠くから見つめるだけの日々。弁当を作っては、渡す理由を考えていた。告白した夜の緊張。両想いになれた時の涙。合鍵をもらった時の歓喜。
全部、全部、今この瞬間に繋がっている。
凛音は蒼太の頬にそっと指を伸ばし、触れる寸前で止めた。涙が滲みそうになるのを必死でこらえる。泣いたら起こしてしまう。でも、胸がいっぱいで、どうしようもなかった。
その時、蒼太の瞼がゆっくりと動いた。睫毛が震え、やがて目が開く。ぼんやりとした視線が凛音を捉え、数秒かけて焦点が合った。
「……なに見てる」
寝起きのかすれた声。いつもの無表情。でも凛音には分かる。蒼太が照れている時の、微かな眉の動き。
「大好きな彼氏の顔」
凛音は迷いなく答え、そのまま蒼太の胸に飛び込んだ。
「おい……」
「だって嬉しいんだもん。起きたら蒼太くんがいるの、嬉しい」
蒼太は一瞬固まり、それからぎこちなく凛音の背中に手を回した。朝の匂い。シャンプーの残り香。凛音の体温が、蒼太の腕の中で溶けていく。
「……俺もだ」
小さな声。でも凛音の耳にはしっかり届いた。
「え、今なんて?」
「うるさい。聞こえてただろ」
「もう一回言って」
「……朝飯、何食う」
「ずるい!」
凛音は抗議しながらも、蒼太の胸に顔を押し付けたまま笑っていた。心臓の音が聞こえる。少しだけ速い。
二人の朝が、こうして始まった。
午後二時。二人は近所のスーパーへ向かった。
凛音はいつもより控えめなメイクに、蒼太のパーカーを羽織っている。サイズが合っていないそれを見て、蒼太は「返せ」とは言わなかった。
自動ドアをくぐると、野菜売り場の青々とした匂いが鼻をくすぐった。
「今日は何作る?」
「カレーとか?」
「いいね。じゃあ、にんじん多めに」
凛音がにんじんを手に取り、蒼太が持つカゴに入れる。玉ねぎ、じゃがいも、豚肉。蒼太が「カレールーは甘口でいいか」と聞き、凛音が「中辛がいい」と答える。
どこにでもある、普通の光景。
でも凛音は、泣きそうになるほど幸せだった。三年前、こんな未来を想像できただろうか。一緒に買い物をして、一緒に帰って、一緒にご飯を作る。夢にまで見た「普通」が、今ここにある。
「凛音、豆腐も買う?」
「あ、うん。絹がいい」
名前を呼ばれただけで、心臓が跳ねる。きっとこの先も、ずっとこうなのだろう。
レジに並んだ二人の前に、中年の女性店員がいた。商品をスキャンしながら、彼女はふと顔を上げた。
「お二人、ご夫婦ですか?」
凛音の思考が停止した。
——夫婦。夫婦⁉
顔が一気に熱くなる。何か言おうとしても、口がパクパクするだけで声が出ない。
隣で、蒼太が答えた。
「まあ、そんなもんです」
「あら、お若いのに素敵ですねえ。仲良しさんなのがすぐ分かりますよ」
店員は微笑んでレジを続けた。凛音は固まったまま動けない。蒼太は何事もなかったかのように会計を済ませ、袋を持った。
「行くぞ」
「……うん」
自動ドアを出た瞬間、凛音は蒼太の腕を掴んだ。
「今の!」
「なに」
「『そんなもん』って!」
「事実だろ」
「え、あ、うん、でも、あの——」
蒼太は少しだけ口角を上げた。本当に微かに。でも凛音には分かった。
「……ずるい」
心臓がうるさい。顔が熱い。夫婦。いつか、本当に。
凛音は蒼太の腕に額を押し付け、小さく笑った。
帰宅後、二人は並んでキッチンに立った。
蒼太が肉を切り、凛音が野菜の皮を剥く。以前は凛音が一方的に手伝うだけだったが、今は自然な連携ができるようになっていた。
「玉ねぎ、もう少し小さく切って」
「了解」
「そうそう、それくらい」
凛音は蒼太の指示に従いながら、隣に立つ彼を盗み見た。エプロン姿の蒼太。真剣な横顔。慣れた手つきで鍋をかき混ぜている。
「蒼太くん、上手になったね」
「は?」
「私への指示の出し方」
「……そうか?」
「前は全部自分でやろうとしてたじゃん」
蒼太は少し考え、「そうだったかもな」と答えた。
「私が下手だから、任せられなかったんでしょ」
「そうじゃない。一人でやる方が楽だっただけだ。でも……」
「でも?」
「お前といる方が、楽しい」
凛音の手が止まった。涙が出そうになるのを必死でこらえる。
「……ずるい」
「さっきも言ってたな、それ」
「だって蒼太くんがずるいから」
二人は顔を見合わせ、どちらからともなく笑った。
カレーの良い匂いがキッチンに満ちてきた頃、凛音は不意に口を開いた。
「ねえ蒼太くん」
「なに」
「あんたの普通が、私には眩しかったの。今も、ずっと」
蒼太の手が止まった。
「三年前、終電逃して泣いてた私に、何も聞かずにタクシー代くれた。連絡先も聞かずに、『困った時はお互い様』って言って去っていった。……あの時から、ずっと思ってた。この人の『普通』は、普通じゃないって」
凛音の声が少し震えた。
「後輩のミスをこっそり直して、疲れてる先輩に差し入れして、誰にも気づかれないところで誰かを助けてる。それが蒼太くんの『普通』でしょ?私には、それがずっと眩しかった。今も、眩しい」
沈黙が流れた。カレーがコトコトと音を立てている。
蒼太がゆっくりと凛音の方を向いた。
「俺も……お前といると、自分が特別な気がする」
凛音の目から涙がこぼれた。
「元カノに『つまらない』って言われた時、そうなんだって思った。俺は普通で、特別なところなんて何もないって。でも……お前が俺を見る目は、違った。俺の『普通』を、特別だって言ってくれた。だから……俺も、特別になれた気がした」
「蒼太くん……」
「ありがとう」
短い言葉。でも、蒼太にしては珍しいほど真っ直ぐな感謝だった。
凛音は涙を拭きもせずに笑い、蒼太に飛びついた。キッチンの狭いスペースで、二人は抱き合った。カレーが焦げそうになっているのに気づいたのは、数分後だった。
夕食を終え、洗い物も片付いた後。リビングのソファに並んで座った二人。テレビはついているが、どちらも見ていない。
凛音は深呼吸をして、バッグから一枚の紙幣を取り出した。一万円札。少し皺が寄っているが、大切に保管されていたことが分かる。
「これ、返す」
蒼太は一瞬目を見開き、すぐに紙幣の意味を理解した。
「三年前の……」
「うん。ずっと返したかった。でも、返したら繋がりがなくなっちゃう気がして……ずるずる持ってた」
凛音は少し恥ずかしそうに笑った。
「でも、もういいでしょ?同棲してるんだし。これは、私のけじめ」
蒼太は一万円を見つめ、それから凛音の顔を見た。
「いらない。あれは、お前に会うための投資だった。リターンはもう十分もらってる」
「でも……これは私の気持ちだから。三年分の利子付き」
凛音は強引に一万円を蒼太の手に押し付けた。
蒼太はしばらく黙っていた。そして不意に立ち上がった。
「ちょっと待ってろ」
蒼太は寝室に消え、すぐに戻ってきた。手には小さな箱。
凛音の心臓が跳ねた。
「な、なにそれ……」
「……じゃあ、これで指輪でも買うか……なんてな。実はもう買ってあるんだ」
蒼太は凛音の前に座り直した。いつもの無表情が、少しだけ緊張で歪んでいる。
「プロポーズ、とかじゃない。まだ早いと思うし。でも……いつか、そうなりたいって思ってる。お前と」
箱を開ける。中には、シンプルなシルバーの指輪。
涙が、止まらなかった。凛音は両手で顔を覆い、声を上げて泣いた。
「ちょ、泣くな……」
「無理……っ、だって……っ」
嬉しすぎて言葉にならない。三年間、ずっと想っていた。片想いの苦しさも、両想いになれた喜びも、全部全部、この瞬間のためにあったような気がした。
「待ってる!いつまでも待ってる!だから、ちゃんとプロポーズして。いつか」
蒼太は少し困ったような、でも嬉しそうな顔をした。
「……そんなに待たせない」
「絶対だからね」
「ああ」
蒼太が指輪を凛音の左手の薬指にはめた。少しだけ大きいけれど、ぴったりくる日が来ると信じている。
凛音は指輪を見つめ、また泣きそうになった。
「重いって、思わない?三年も片想いして、同じマンションに引っ越してきて、攻略ノートまで作ってたのに?」
「……お前のそういうところが好きなんだよ」
凛音は泣き笑いの顔で蒼太に抱きついた。蒼太の腕が、しっかりと凛音を抱きしめ返す。
後日、日曜日の午後。インターホンが鳴り、蒼太が出ると、金髪にピアスの男が立っていた。
「よう、新居見に来たぞ」
日向翔真。蒼太の親友であり、二人の恋のキューピッドでもある。
「勝手に来るな」
「いいじゃん、休みだろ?あ、邪魔した?」
「してる」
「まあまあ」
翔真は遠慮なく部屋に上がり込み、リビングを見回した。凛音が紅茶を淹れてきて、テーブルに置く。
「翔真さん、いらっしゃい」
「おう、凛音ちゃん。幸せそうじゃん」
「おかげさまで」
翔真はソファに座り、満足げに笑った。
「だから言っただろ?お前ら絶対うまくいくって」
「うるさい」
蒼太は不機嫌そうに言ったが、口元は緩んでいる。
「最初から分かってたんだよ、俺は。こいつの隣はお前しかいないって」
凛音は照れくさそうに俯いた。
「翔真さんのおかげでもあります。背中、押してくれて」
「いや、お前らの努力だよ。俺は何もしてねえ」
翔真は紅茶を一口飲み、窓の外を見た。
「……良かったな、蒼太」
「……ああ」
翔真が帰った後、部屋に静けさが戻った。
夕暮れの光がカーテン越しに差し込み、リビングを柔らかく照らしている。二人はソファに並んで座っていた。テレビもつけず、音楽もかけず、ただ隣にいる。
凛音がそっと蒼太に寄りかかった。蒼太の肩は少し硬いけれど、温かい。
「幸せだね」
凛音が呟いた。
「ああ」
蒼太が答え、凛音の手を握った。
普通の夕暮れ。普通のリビング。普通の二人。でも、凛音にとっては何よりも特別な時間だった。
三年前、終電を逃して泣いていた夜。差し出された一万円。あの時から、全てが始まった。長い片想いの末に辿り着いた、この場所。
「ねえ、蒼太くん」
「なに」
「来年も、再来年も、ずっと一緒にいようね」
「当たり前だろ」
蒼太は無表情のまま答えた。でも、握る手の力が少しだけ強くなった。
凛音は目を閉じ、蒼太の温もりを感じた。
普通の男と、重すぎる彼女の、甘くて不器用なラブストーリー。
——これからも、ずっと続いていく。
【完】




