あんたの普通が
三月の夜。
蒼太の部屋のリビングには、テレビの音だけが流れていた。バラエティ番組の笑い声が響く中、ソファには二人の姿があった。凛音は蒼太の肩に頭を預け、蒼太は無言でそれを受け入れている。
テーブルの上には空になったマグカップが二つ。凛音が淹れたココアの残り香が、まだ微かに漂っていた。
付き合い始めて四ヶ月。合鍵を自由に使えるようになってから二週間。いつの間にか、凛音がこの部屋にいることが当たり前になっていた。
蒼太は画面を見ているようで見ていない。凛音の体温が、左腕から伝わってくる。この何気ない時間が、かつての自分には想像もできなかったものだと、蒼太は思う。
美羽といた三年間、こんな穏やかな夜は一度もなかった。
「……ん」
凛音が小さく身じろぎして、さらに深く蒼太に寄りかかる。その仕草に、蒼太の胸が小さく軋んだ。
「なあ」
蒼太が唐突に口を開いた。テレビの音が、急に遠くなったような気がした。
「俺のどこが好きなんだ」
凛音は一瞬、身体を硬くした。ゆっくりと顔を上げ、蒼太を見る。
「え、急になに」
蒼太の横顔は真剣だった。いつもの無表情とは違う、何かを確かめようとする目。凛音は身体を起こし、蒼太と向き合った。
「急って……どうしたの、いきなり」
「いや」
蒼太は視線をテレビに戻した。けれど、画面を見ていないことは明らかだった。
「ずっと気になってた」
その言葉に、凛音の心臓が跳ねる。三年間、ずっと想い続けてきた理由。それを、蒼太が知りたいと言っている。
「俺は普通で、面白くないし」
蒼太は淡々と続けた。その声には、自嘲が滲んでいた。
「お前みたいな派手な子が好きになる要素がわからない」
凛音は息を呑んだ。
『もっと刺激のある人がいい』——美羽に言われた言葉が、まだ蒼太の中に残っている。凛音にはわかった。「普通」という言葉を、蒼太はずっと否定的に捉えてきたのだ。
派手な自分が、地味な蒼太を好きになる理由がわからない。それは裏を返せば、自分には好かれる価値がないと言っているのと同じだった。
凛音は胸が締め付けられる思いだった。三年間、ずっと見てきたのに。蒼太がどれだけ優しいか、どれだけ眩しいか。本人だけが気づいていない。
「蒼太くん」
凛音は真剣な顔で、蒼太の目を真っ直ぐに見た。
「ちゃんと聞いて」
凛音は少し考えてから、口を開いた。
「前にも言ったけど、最初は三年前にタクシー代貸してくれたこと」
蒼太は静かに頷いた。告白の夜に聞いた話だ。
「見知らぬ私に、躊躇なく一万円渡してくれた」
凛音の声は、静かだけれど揺るぎなかった。
「連絡先も聞かずに」
蒼太は黙って聞いている。
「同じマンションだって知ってから、ずっと見てたのも、前に話したよね」
「……ああ」
「朝早く出社するところ、ゴミを分別するところ、エレベーターで他の住人に会釈するところ」
凛音は一度言葉を切った。
「でもね、それだけじゃないの」
蒼太は凛音を見た。凛音の目には、新たな決意が宿っていた。
「ゴミ捨て場で、お年寄りの人が重そうにしてるのを手伝ってたの、見たことある」
「……あれ、見られてたのか」
「うん。あと、雨の日にエントランスで傘忘れた人に、自分の傘貸してあげてたでしょ。蒼太くんはそのまま濡れて帰ってきてた」
蒼太は言葉を失った。誰にも見せていないつもりのことだった。
「普通って言うけど」
凛音は核心に触れた。
「蒼太くんは誰も見てないところで優しいの」
蒼太の表情が、わずかに揺れた。
「それがすごく眩しかった」
凛音の目に、涙が滲み始めた。
「私の周りの男の人は、派手で目立つことばっかり気にしてて」
蒼太は黙って聞いている。
「中身が空っぽだった」
アパレル業界で働く凛音の周りには、見栄えのいい男性がたくさんいた。でも、誰一人として蒼太のようには輝いていなかった。
「でも蒼太くんは違った」
凛音は涙を堪えながら、蒼太を見つめた。
「蒼太くんの普通は」
声が震える。三年間、ずっと言いたかった言葉。やっと、伝えられる。
「私には特別だったの」
凛音の目から、涙がこぼれ落ちた。
蒼太は言葉を失った。テレビの音が、遠くで鳴っている。凛音の涙が、頬を伝って落ちていく。三年間の想いが、全部この一言に詰まっていた。
普通だと思っていた自分が、誰かにとって特別だった。美羽に「つまらない」と否定された自分が、凛音にとっては眩しかった。
蒼太は動けなかった。胸の奥で、何かが崩れていくような感覚があった。ずっと蓋をしていた傷が、凛音の言葉で溶けていく。
蒼太は黙って、凛音の頭に手を伸ばした。涙で濡れた頬を避けるように、優しく髪を撫でる。
「……ありがとう」
小さな声だった。それでも、凛音には聞こえた。蒼太の声が、わずかに震えていることも。
「お礼じゃなくて、好きって言って」
凛音は涙を手の甲で拭いながら、蒼太を見上げた。その目は真剣だった。涙で赤くなった目が、真っ直ぐに蒼太を捉えている。
「……好きだ」
蒼太は照れくさそうに、視線を逸らしながら言った。
「もう一回」
「は?」
「もう一回言って」
凛音は身を乗り出した。涙はまだ乾いていないのに、目が期待で輝いている。
「何回言わせる気だ」
蒼太は呆れたように、けれど口元には笑みを浮かべて言った。
「一生分! 三年間我慢してたんだから、これからいっぱい言ってもらう」
「……お前、本当に重いな」
「知ってる。でも蒼太くんにはちょうどいいって、自分で言ったじゃん」
「……言った」
蒼太は凛音の肩を引き寄せ、抱きしめた。凛音は幸せそうに、蒼太の胸に顔を埋める。心臓の音が聞こえる。蒼太の鼓動は、少し速かった。
「蒼太くん」
「なに」
「大好き」
凛音の声がくぐもって聞こえる。蒼太は何も言わず、腕に力を込めた。
「俺、ずっと思ってた」
「……うん」
「普通の俺には、普通の結末しかないって」
美羽に振られた夜、そう思った。刺激のない、つまらない男。誰にも必要とされない、価値のない存在。
「でも、お前は……」
言葉が続かなかった。凛音は涙を流しながら、蒼太の手に頬を寄せた。
「私がいるよ」
「……ああ」
「これからもずっと、蒼太くんの隣にいる。普通でもいい。つまらなくてもいい。私は蒼太くんがいいの」
テレビの音が、また聞こえ始めた。バラエティ番組の笑い声。けれど、二人はもう画面を見ていなかった。互いの温もりだけを感じていた。
どれくらい時間が経っただろう。気づけば、凛音は蒼太の腕の中で眠っていた。泣き疲れたのか、規則正しい寝息を立てている。
蒼太は動けなかった。動きたくなかった。凛音の寝顔を、ただ見つめていた。ギャルメイクを落とした素顔。三年前、コンビニの前で泣いていた女の子と同じ、童顔の輪郭。
「俺の普通が、お前には特別……か」
蒼太は小さく呟いた。
美羽の言葉が、頭をよぎった。『もっと刺激のある人がいい』『あなたといても、つまらないの』——三年間、ずっと胸に刺さっていた棘。それが今、溶けていく感覚があった。
凛音は違った。俺の普通を、眩しいと言ってくれた。三年間も、ずっと見ていてくれた。誰にも気づかれない優しさを、凛音だけが見ていた。
蒼太の目に、涙が滲んだ。最後に泣いたのはいつだろう。覚えていない。でも今、胸の奥から込み上げてくるものを、止められなかった。
「……救われた」
蒼太は凛音の髪を撫でながら、声にならない声で呟いた。三年前、俺が凛音を救ったと思っていた。でも本当は、凛音が俺を救ってくれていたんだ。腕の中の温もりが、それを教えてくれた。
「……蒼太くん」
寝言だった。凛音が身じろぎして、蒼太の服を握りしめる。
「ここにいる」
小さく答える。凛音の寝顔が、微かに緩んだ気がした。
窓の外では、三月の風が吹いている。もうすぐ春が来る。
蒼太は眠る凛音を見つめながら、静かに決意した。この先も、ずっと隣にいよう。凛音が三年間待っていてくれたように、今度は俺が守る番だ。
テレビの電源を切り、蒼太は凛音を抱えたまま、ソファに深く身を沈めた。もう少しだけ、この時間が続けばいい。
穏やかな夜は、まだ終わらない。二人の物語は、まだ続いていく——。




