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合鍵と、温もりの約束

二月の冷気が染み込むマンションの廊下。午後十時を回った時刻、蒼太はエレベーターを降りた瞬間、自室の前に座り込む人影を見つけて足を止めた。


ハイトーンカラーの髪が廊下の蛍光灯に照らされている。膝を抱えたその姿勢は、まるで迷子の子供のようだった。


「……凛音?」


蒼太が声をかけると、凛音は顔を上げた。頬が赤くなっているのは、寒さのせいだろう。唇が微かに震えている。


「あ、蒼太くん。おかえり」


笑顔を作ろうとしているが、その声には隠しきれない寒さが滲んでいた。蒼太は眉をひそめた。


「なんでこんなところに座ってる。合鍵あるだろ」


「だって……」


凛音は視線を落とす。


「あれは蒼太くんが風邪の時、緊急用に預かっただけだし……。勝手に使っていいのかなって」


その言葉に、蒼太の胸がわずかに痛んだ。付き合い始めて三ヶ月。凛音は当たり前のように蒼太の部屋に来るようになったが、あの時預けた合鍵を、彼女は「緊急用」としか認識していなかったのだ。


「寒かっただろ」


「ちょっとだけ」


明らかに嘘だった。蒼太が凛音の手を取ると、氷のように冷たい。指先の感覚すら怪しいほどだ。


蒼太は黙って凛音の手を両手で包み、自分の息を吹きかけた。


「……ばか」


小さく呟いた蒼太の言葉に、凛音は目を丸くする。


「え、今私のこと馬鹿って……」


「いいから、中入れ」


蒼太は凛音の手を引いて、自室の扉を開けた。


部屋に入ると、まず暖房の温度を上げ、凛音をソファに座らせる。キッチンでお湯を沸かし、ココアを作って戻ってきた。


「ほら」


「ありがと……」


凛音は両手でマグカップを包み込むように持った。その仕草が、廊下で膝を抱えていた姿と重なる。


蒼太はソファの隣に座り、凛音の横顔を見つめた。普段は派手なメイクで武装している彼女だが、今日は薄化粧だ。寒さで赤くなった鼻先が、やけに幼く見える。


「待ってるの、全然苦じゃないよ」


凛音が言った。


「蒼太くんが帰ってくるの、楽しみだし」


「でも手、こんなに冷たくなるまで待ってた」


「それは……今日ちょっと予想より寒かっただけで」


言い訳するように早口になる凛音。蒼太は彼女の手からマグカップをそっと取り上げ、テーブルに置いた。そして、かじかんだ両手を自分の手で包む。


「手、冷たいな」


「……大丈夫、蒼太くんが温めてくれたから」


「あったまった?」


「うん」


凛音の声が小さくなる。その言葉を聞きながら、蒼太は考えていた。凛音にこんな思いをさせたくない。寒い廊下で、一人で待たせるなんて。彼女が好きな時に、この部屋に来られるようにしたい。


蒼太の脳裏に、ある考えが浮かんだ。


「凛音」


「なに?」


「……いや、なんでもない」


言いかけて、蒼太は言葉を飲み込んだ。今夜は凛音を温めることだけに集中しよう。



凛音が帰った後、蒼太はベッドに横たわり、天井を見つめていた。


「ちゃんと言葉にしないと、伝わらないよな……」


あの合鍵は、風邪の時に「何かあった時のために」と預けたものだ。凛音はそれを律儀に「緊急用」として扱っている。でも、蒼太が望んでいるのはそうじゃない。


翌日の昼休み。蒼太は凛音に電話をかけた。


「今日、仕事終わったらちょっといいか」


「え、うん。どうしたの?」


「話がある」


それだけ言って、電話を切った。



仕事を終え、蒼太は真っ直ぐ帰宅した。いつもなら自分の部屋に直行するところだが、今日は違う。エレベーターを降り、自室の隣──凛音の部屋の前で足を止める。


深呼吸をひとつ。インターホンを押した。


数秒後、バタバタと足音がして、扉が開いた。


「蒼太くん!」


凛音は目を輝かせている。部屋着姿だが、髪はきちんと整えられていた。


「どうしたの? 珍しいね、こっちに来るの」


「ちょっといいか」


「う、うん。入る?」


「いや、ここでいい」


凛音は不思議そうな顔でこちらを見ている。まさか怒られるのか、という不安が一瞬よぎったのが、その表情から読み取れた。


「あの合鍵」


蒼太は単刀直入に切り出した。


「え?」


「俺が風邪の時に預けたやつ。まだ持ってるか」


「う、うん。大事に保管してるけど……」


凛音が戸惑ったように答える。蒼太は真っ直ぐ彼女の目を見た。


「あれ、緊急用じゃない」


「え?」


「好きな時に使っていい。俺がいない時でも、好きな時に入っていい」


凛音は目を見開いた。


「それって……」


「毎回待ってるの大変だろ。遠慮しなくていいって言ってる」


凛音は固まったまま、蒼太の顔を見つめている。


「え、ちょ、待って。じゃあ、あの合鍵、私が好きな時に蒼太くんの部屋に入っていいってこと?」


「そう言った」


「蒼太くんがいない時でも?」


「さっきそう言った」


蒼太は少し呆れたように繰り返す。凛音の驚きようを見て、もっと早く言葉にすべきだったと思った。


「ホントに……いいの?」


「ダメなら預けたままにしない」


だが、次の瞬間──凛音の表情が、驚きから純粋な喜びに変わった。口元がゆるみ、目尻が下がり、涙がこぼれ落ちる。


「嬉しい……すっごく嬉しい……」


凛音は胸に手を当てた。あの合鍵が、ずっと大事にしまってあるのだろう。


「大事にする」


「ああ」


「大事にする……一生大事にする!」


その宣言に、蒼太は思わず苦笑いを漏らした。


「大げさだな」


「大げさじゃないよ! だって、蒼太くんが私にいつでも使っていいって言ってくれたんだよ⁉ これって、つまり……」


凛音の目がキラキラと輝く。何かを期待するような、あるいは妄想が暴走し始めているような、そんな目だ。


「つまり?」


「い、いや、なんでもない! とにかく、大事にする。絶対なくさないし、変な使い方しないし……あ、でも蒼太くんのために料理作って待ってるのはいいよね?」


「それは構わない」


「じゃあ、掃除は?」


「……勝手にやられても困る」


「じゃあ洗濯は?」


「おい」


蒼太は凛音の額を軽く小突いた。


「一言言っただけで、どこまで膨らませる気だ」


「えへへ」


凛音は幸せそうに笑った。その笑顔を見て、蒼太の胸が温かくなる。


「じゃあ、また明日」


「うん! おやすみ、蒼太くん」


凛音は胸に手を当てたまま、手を振った。



蒼太が去った後、凛音は扉を閉めてその場にしゃがみ込んだ。


「いつでも使っていい……蒼太くんの部屋に、いつでも……」


何度も呟く。引き出しから取り出した合鍵は、ずっと大切にしまっていたものだ。


「夢じゃない、よね……?」


頬をつねってみる。痛い。夢じゃない。凛音はそのまま床に崩れ落ち、しばらくじたばたしてから、這うようにしてテーブルに向かった。引き出しから、使い込んだノートを取り出す。


表紙には『蒼太くん攻略計画』と書かれている。新しいページを開き、ペンを走らせる。


「今日、蒼太くんから合鍵いつでも使っていいって言われた」


その一文を書いただけで、また涙がこぼれそうになる。


「これって、同棲の前段階だよね……」


ペンが止まる。


「いや、待って。同棲の前段階ってことは……プロポーズの前段階かも……!」


ノートに書き殴る。「合鍵正式許可→同棲→婚約→結婚→新婚旅行(ハワイ希望)→マイホーム→子供(二人くらい)」


書き終えてから、凛音は我に返った。


「……いや、さすがに気が早いか。でも、結婚式はどこで挙げよう……」


でも、と思う。三年間片想いしてきた相手と付き合えて、今日は正式にいつでも部屋に入っていいと言ってもらえた。少しくらい夢を見てもいいはずだ。


凛音は合鍵を眺めながら、幸せを噛みしめた。



翌日の夕方。凛音は蒼太の部屋の前に立っていた。手には合鍵と、買い物袋。心臓がうるさいほど鳴っている。


「よし……」


深呼吸をして、鍵穴に合鍵を差し込む。カチャリ、と小さな音がして、扉が開いた。


「おじゃまします……って、私の彼氏の部屋だけど」


一人で呟きながら、凛音は部屋に入った。蒼太の部屋の匂い。整理整頓された空間。キッチンには、いつも二人で使っている調理器具が並んでいる。


「蒼太くん、喜んでくれるかな」


買い物袋から食材を取り出しながら、凛音は微笑んだ。今日のメニューは、蒼太の好きな肉じゃがと、だし巻き卵と、味噌汁。彼が作ってくれた料理のレシピを、こっそり覚えておいたのだ。


エプロンをつけて、料理を始める。


「なんか……新妻みたい」


思わず口に出してしまい、凛音は一人で赤くなった。


「いやいや、まだ付き合って三ヶ月だし、同棲すらしてないし……」


でも、いつでも来ていいと言ってもらえた。この部屋で、蒼太の帰りを待っている。それだけで、凛音は幸せだった。



午後八時。玄関の鍵が開く音がした。


「おかえり」


凛音はキッチンから顔を出して言った。エプロン姿で、お玉を片手に持っている。


蒼太は玄関で固まっていた。一瞬、自分が間違った部屋に入ったのかと思ったような顔だ。


「……ただいま」


少し間があってから、蒼太は靴を脱いだ。その表情に、小さな笑みが浮かんでいる。


「合鍵、使っちゃった」


「見ればわかる」


蒼太は鞄を置き、キッチンに近づいてきた。コンロの上には、肉じゃがの鍋。テーブルには、だし巻き卵と味噌汁が並んでいる。


「これ、俺が前に作ったやつ」


「覚えてたの」


「そりゃ覚えてる」


凛音は得意げに胸を張った。


「蒼太くんが作ってくれた料理、全部覚えてるよ」


その言葉に、蒼太は目を細めた。


「じゃあ、食うか」


「うん!」


二人はテーブルについた。蒼太が肉じゃがを一口食べる。凛音は緊張しながら、その様子を見守った。


「……うまい」


「ほんと⁉」


「ああ。ちゃんと味染みてる」


蒼太の言葉に、凛音の顔がぱっと明るくなった。三年間想い続けた人と、同じテーブルで、自分の作った料理を食べている。こんな幸せな瞬間が、本当に自分のものになったのだ。



食事を終え、二人で洗い物をした。蒼太が洗い、凛音が拭く。


「……これからも、使っていい?」


「むしろ使え」


「じゃあ、明日も来る」


「好きにしろ」


「明後日も」


「ああ」


「毎日来ていい?」


蒼太は手を止めて、凛音を見た。


「……毎日来たいのか」


「来たい」


即答だった。凛音は真っ直ぐに蒼太を見つめている。その目には、三年間の想いが込められていた。


「じゃあ、来い」


「いいの⁉」


「ダメなら、いつでも使っていいとは言わない」


洗い物を終え、二人はソファに座った。凛音はそっと蒼太に寄り添い、腕に頭を預けた。


「なんか、同棲みたいだね」


「そうかもな」


その言葉に、凛音の心臓が跳ねる。


「……嫌じゃない?」


「何が」


「私が毎日来ること。合鍵使って、勝手に料理作って、待ってること。重いって思わない……?」


凛音の声が、不安で小さくなる。三年間の片想いも、毎日の弁当も、手編みのマフラーも。全部、重いと思われていないか、ずっと心配だった。


「嫌なら、いつでも来いとは言わない」


三度目の、同じ言葉。蒼太は窓の外を見ながら、ぽつりと言った。


「お前がいると、この部屋があったかい。帰ってきて、灯りがついてて、飯の匂いがして、『おかえり』って言ってもらえる。……悪くない」


凛音の目から、涙がこぼれた。


「蒼太くん……」


「泣くな」


「だって……嬉しくて……」


凛音は蒼太の腕に顔を埋めた。


「ねえ、蒼太くん」


「なんだ」


「大好き」


蒼太は答えなかった。代わりに、凛音の頭を優しく撫でた。それが、彼なりの返事だと、凛音は知っている。



その夜、凛音は自分の部屋に戻り、再びノートを開いた。


「今日、蒼太くんに『お前がいると、この部屋があったかい』って言われた」


ペンを持つ手が震える。


「三年間、想い続けてよかった」


合鍵を手に取り、眺める。この小さな鍵が、二人を繋いでいる。


「いつか、同棲して、結婚して……蒼太くん、私、一生そばにいるからね」


壁の向こうに呟く。


壁一枚隔てた蒼太の部屋では、蒼太がベッドに横になり、天井を見つめていた。


「同棲、か」


凛音が言った言葉を反芻する。毎日、あいつが部屋にいる。「おかえり」と迎えてくれる。「ただいま」と返す。それが、当たり前になっていく。


「……悪くない」


蒼太は小さく笑った。二人の「日常」は、確実に次のステージへ向かっている。

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