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23/30

おはよう、彼氏

冬の柔らかな日差しがマンションの共有廊下に差し込んでいた。


凛音は自室のドアの前で、三度目の深呼吸を繰り返していた。付き合って初めて迎える平日の朝。この週末は興奮でまともに眠れず、結局昨夜も三時間しか眠っていない。それでもメイクだけは完璧に仕上げた。いや、完璧すぎるかもしれない。朝からフルメイクは気合いが入りすぎだろうか。


でも、彼氏に会うのだ。当然だ。


彼氏。


その言葉を頭の中で転がすだけで、凛音の顔は自然とにやけてしまう。三年間、夢見てきた響きが現実のものになっている。


隣室のドアが開く音がした。


「今だ……!」


凛音は慌てて自分のドアを開けた。タイミングを計っていたことは絶対に悟られたくない。廊下に出ると、いつもと同じ量販店のスーツに身を包んだ蒼太が立っていた。無造作な黒髪、眠そうな目。何も変わらない。


でも、昨日までとは決定的に違う。この人は今、私の彼氏なのだ。


「お、おはよう……」


声を出そうとして、喉が詰まった。言いたい言葉がある。ずっと言いたかった言葉が。


「おはよう……彼氏」


最後の二文字は蚊の鳴くような声だった。それでも蒼太の耳には届いたらしく、彼は一瞬固まった。そして、困ったように眉を下げる。


「普通におはようでいい」


「だって」


凛音は頬を染めながら反論した。


「彼氏なんだもん」


蒼太は小さくため息をついたが、その口元はわずかに緩んでいた。凛音はそれを見逃さなかった。


笑った。今、絶対笑った。


嫌がってない。むしろ、ちょっと嬉しそう。その発見だけで、今日一日を生きていける気がした。


蒼太が何気なく尋ねた。


「今日、出勤遅いんだっけ」


「う、うん。午後から撮影だから」


凛音が頷くと、蒼太は小さく頷き返した。


「そうか。じゃあ、俺は先に」


蒼太がエレベーターに向かって歩き出す。凛音は慌てて声をかけた。


「あの、蒼太くん」


「ん?」


振り返った蒼太に、凛音は思い切って言った。


「いってらっしゃい」


言った瞬間、凛音は自分の言葉に恥ずかしくなった。まるで新婚の奥さんみたいだ。まだ付き合って一週間も経っていないのに。重い。絶対重いと思われた。


でも蒼太は、ほんの一瞬だけ目を見開いた後、静かに答えた。


「……いってきます」


エレベーターが開き、蒼太が乗り込む。扉が閉まる直前、彼がこちらを見ていた気がした。凛音は扉が完全に閉まるまで動けなかった。


「夫婦みたい……」


誰もいない廊下で、凛音は両手で顔を覆った。心臓がうるさい。たった二言のやり取りなのに、こんなに幸せでいいのだろうか。


自室に戻った凛音は、『蒼太くん攻略計画』と書かれたノートを開いた。新しいページに、震える字で書き込む。


「付き合って三日目。いってらっしゃい、と言えた。いってきます、と返してもらえた。幸せすぎて怖い」




昼休み、蒼太は経理部のデスクで弁当を広げていた。今日も凛音の手作り弁当だ。ハンバーグ、卵焼き、ブロッコリー。彩りが完璧で、隅には小さなハート型の人参が添えられている。


「おい蒼太」


営業部から翔真がやってきた。金髪にピアス、チャラそうな外見とは裏腹に、蒼太の数少ない理解者だ。


「今日も愛妻弁当か?」


「愛妻じゃない」


「じゃあなんだよ。まさかまだ進展してないとか言わねーよな」


蒼太は少し間を置いてから、小声で答えた。


「……隣の子と、付き合うことになった」


翔真の動きが止まった。そして次の瞬間、経理部中に響く声で叫んだ。


「やっとか!」


周囲の視線が集まる。蒼太は眉をひそめたが、翔真は気にする様子もない。


「いやー、長かったな。お前が鈍感すぎて見てるこっちがハラハラしたわ。おめでとう!」


「……どうも」


「で、どこまでいった?」


「どこって……普通に話してるだけだけど」


「普通に?」


「普通に」


翔真の表情が呆れに変わる。


「手繋いだ?」


「……付き合ってからは、まだだ」


「付き合ってからは? じゃあ付き合う前は繋いでんじゃねーか」


蒼太は視線を逸らした。初詣の夜、はぐれないように手を繋いで歩いたことを思い出す。


「……初詣の時は、まあ」


「やっぱりな。で、キスは?」


「まだ」


「ハグは?」


「……まだ」


翔真は天を仰いだ。


「お前ら、付き合う前のほうが進展してたぞ」


確かに、と蒼太は思った。告白の夜、凛音から抱きしめられた。あの時の方がよほど——いや、考えるな。顔が熱くなる。


「週末デートとか行くんだろ? そこでちゃんと進展させろよ。あの子、三年も待ったんだぞ」


その言葉は、蒼太の胸に刺さった。三年。凛音はずっと、待っていてくれた。


「……わかってる」




同じ頃、凛音は職場のデスクで仕事をしていた。アパレルブランドのプレス担当として、今日も新作の撮影スケジュールを組んでいる。はずなのに、頭の中は蒼太のことでいっぱいだった。


「凛音ちゃん、なんか今日めっちゃ機嫌いいね。ていうか、この週末からずっとニヤニヤしてない?」


同僚の声で我に返る。凛音は慌てて表情を引き締めようとした。でも、口元が勝手に緩んでしまう。


「え、そう?」


「そうだよ。なんかあった? もしかして……」


凛音は少し迷ってから、小さな声で答えた。


「……彼氏、できたの」


「え⁉」


同僚の声が跳ね上がる。周囲の女性社員たちが一斉に振り返った。


「ちょっと待って、凛音ちゃんに彼氏⁉ 誰⁉ どこで知り合ったの⁉」


質問の嵐に、凛音は圧倒された。


「えっと、隣に住んでる人……」


「隣⁉ マンションの⁉ それって運命じゃん!」


凛音は頬を染めながら頷いた。


「う、うん……運命、だと思う」


三年前、終電を逃して泣いていた夜。タクシー代を貸してくれたあの人が、今は自分の彼氏になっている。これを運命と呼ばずして、何と呼ぶのだろう。


「週末デートとかするの⁉」


「映画、観に行く予定……」


「いいなー! 絶対ラブコメにしなよ! ムード出るから!」


同僚たちのアドバイスを聞きながら、凛音の頭の中では別のことを考えていた。映画館の暗闘。隣に座る蒼太。もしかしたら、手を繋げるかもしれない。


その想像だけで、凛音の心臓は暴れ出した。




週末の昼下がり。映画館の前で、凛音は三十分前から待っていた。約束の時間までまだ十五分ある。服は七回着替えた。メイクは三回やり直した。


「凛音」


聞き慣れた声に、凛音は飛び上がりそうになった。振り返ると、蒼太が立っていた。いつもと同じ、どこにでもいそうな地味な私服。でも凛音には、その姿が誰よりも眩しく見えた。


「そ、蒼太くん! 早いね!」


「お前の方が早いだろ」


「初デート……初デートだよ⁉」


「声、でかい」


「あ、ごめん……」


凛音は慌てて声を落とした。緊張で声のボリュームがおかしくなっている。落ち着け、自分。三年間夢見てきた初デートだ。


「落ち着け」


蒼太が言った。凛音はハッとして顔を上げる。


「わかってるけど……無理……」


蒼太の口元がわずかに緩んだ。


「……俺も、少し緊張してる」


その言葉に、凛音は目を見開いた。あの無表情な蒼太が、緊張している。その事実が、凛音の心を温かくした。


「じゃあ、おあいこだね」


凛音は笑った。蒼太も、小さく頷いた。




映画が始まった。同僚のアドバイス通り、ラブコメを選んだ。スクリーンには華やかな恋愛模様が映し出されている。でも凛音の意識は、隣に座る蒼太に向いていた。


暗闘の中、蒼太の横顔がスクリーンの光に照らされる。凛音は視線を手元に落とした。肘掛けの上に、蒼太の手がある。


触りたい。手を繋ぎたい。


凛音はそっと手を伸ばした。肘掛けの上、蒼太の手のすぐ隣に自分の手を置く。指先が、触れるか触れないかの距離。


その瞬間、蒼太の指が動いた。凛音の小指に、蒼太の小指が触れる。


凛音は息を呑んだ。偶然? それとも——。


勇気を出して、蒼太の手の上に自分の手を重ねた。蒼太の指が、凛音の指に絡んできた。


心臓がうるさい。映画の内容なんて、全く頭に入らない。でも、今この瞬間が、映画のどんなシーンよりも幸せだった。




映画が終わり、二人はレストランに入った。落ち着いた雰囲気のイタリアンで、窓際の席に案内される。


「何観てたか、正直あんまり覚えてない」


蒼太が言った。凛音は笑った。


「私も」


同じだった。あの二時間、お互いの手のことしか考えていなかった。


パスタとピザをシェアしながら、他愛もない話をした。


「今日、すごく楽しい」


「そうか」


「蒼太くんは?」


蒼太は視線を逸らした。


「……悪くない」


「悪くないって、それ、楽しいってことでしょ」


「うるさいな」


蒼太は口元を手で隠した。でも凛音には分かった。あの無表情の下で、蒼太も笑っている。




食事を終え、商店街を歩いた。夕暮れ時の商店街は、買い物客で賑わっている。


「腕、掴んでいい?」


凛音が聞くと、蒼太は顔を逸らしながら言った。


「……好きにしろ」


その言葉を許可と受け取り、凛音は遠慮なく蒼太の腕を抱え込んだ。三年間、この距離に憧れてきた。蒼太の体温を、こんなに近くで感じられる日が来るなんて。


「あ、たい焼き屋さん」


「何味がいい」


「あんこ!」


蒼太は二つ注文し、一つを凛音に渡した。温かいたい焼きを頬張りながら、また歩き出す。


「今度、一緒に買い物来ようよ」


「……いいけど」


その「いいけど」が、凛音には「行きたい」に聞こえた。




帰り道。日が落ち、街灯が灯り始めていた。どちらからともなく、手が繋がれた。


「手……繋いでる……」


「声に出すな」


「ごめん、嬉しくて……」


人通りの少ない住宅街で、凛音は立ち止まった。


「ねえ、蒼太くん」


「なに」


凛音は蒼太の服の袖を引っ張った。心臓がうるさい。でも、今言わなければ、きっと言えない。


「キス……して」


蒼太は固まった。


「……ここで?」


「人いないし……」


蒼太は深呼吸をした。凛音の顎に手を添え、顔を上げさせる。凛音の目が、潤んでいた。


蒼太は——凛音の額に、そっと唇を寄せた。


「……そこじゃない!」


凛音の抗議の声が、夜の住宅街に響いた。


「次は、ちゃんとする」


「次って、いつ⁉」


「知らない」


「知らないって……!」


凛音は頬を膨らませた。でも、額に残る蒼太の唇の感触を、何度も反芻している。


「約束だからね」


凛音は蒼太の腕を掴んだまま言った。


「次は、ちゃんとしてよ」


蒼太は答えなかった。でも、繋いだ手を、少しだけ強く握り返した。




マンションの廊下。隣り合った二つのドアの前で、二人は向き合っていた。


「明日も、会える?」


「……いいよ」


「じゃあ、おやすみ!」


凛音は部屋に飛び込み、その場にしゃがみ込んだ。


「やばい……幸せすぎる……」


ノートを取り出し、震える手で書き込む。


「初デート。手繋いだ。額にキスされた。次は唇って言われた。幸せすぎて死にそう」




一方、蒼太は自分の部屋で、ソファに座ったまま天井を見上げていた。


「次は、ちゃんとする」


自分で言った言葉を思い出す。約束だ。必ず、果たす。


壁一枚隔てた向こうで、凛音も同じことを考えているのだろうか。


そう思うと、なぜか少し嬉しかった。

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