オレンジ色の告白
週末の朝、カーテンの隙間から差し込む淡い光で凛音は目を覚ました。
時計を見ると、まだ午前六時。いつもなら二度寝する時間だが、今日は違う。胸の奥がざわついて、とても眠れなかった。
ベッドから抜け出し、洗面台の鏡の前に立つ。寝癖のついた髪、むくんだ瞼、すっぴんの自分。三年前、蒼太に初めて助けてもらった夜も、きっとこんな顔をしていた。
「今日……蒼太くんから返事を聞く日」
声に出すと、現実味が増して足が震えた。鏡の中の自分は、今にも泣き出しそうな顔をしている。
深呼吸を三回。四回。五回。
「どんな答えでも……ちゃんと受け止める」
自分に言い聞かせるように呟く。でも、心臓は全然落ち着かない。三年間、ずっと夢見てきた「彼女」という立場。もし叶うなら、どうしていいかわからなくなりそうだ。
手のひらを見ると、細かく震えていた。爪が食い込むほど強く握りしめても、震えは止まらない。
「でも、できれば……お願い……」
最後の言葉は、誰にも聞こえないほど小さかった。
窓の外では、冬の朝日がゆっくりと昇り始めている。今日という一日が、凛音にとって特別な一日になる——そんな予感が、胸の奥で静かに渦巻いていた。
壁一枚隔てた隣の部屋。蒼太もまた、落ち着かない時間を過ごしていた。
テーブルの上のリモコンを無意味に並べ直す。ソファのクッションの位置を変える。また元に戻す。普段なら絶対にしない行動だった。
壁掛け時計の針は午後三時を指している。凛音が来るのは六時の約束。まだ三時間もある。
「何から話せばいいんだ」
頭の中で何度もリハーサルをしてきた。だが、いざ本番が近づくと、用意した言葉がすべて霧散していくような感覚に襲われる。
クリスマスにもらった紺色のマフラーが、椅子の背もたれにかけてあった。凛音が一ヶ月かけて編んでくれたもの。不揃いな編み目に、彼女の想いが詰まっている。
手に取ると、まだ温もりが残っているような気がした。
三年間。凛音は俺のことを想い続けていた。終電を逃して泣いていたあの夜から、ずっと。
「でも、ちゃんと伝えないと」
蒼太は小さく呟いた。凛音の三年間に、自分の言葉でちゃんと応えたい。それだけは、絶対に。
窓の外では、冬の柔らかな陽光が街を照らしていた。
午後六時。凛音は蒼太の部屋の前に立っていた。
たった数メートルの距離。何度も通った廊下。見慣れたドア。なのに、今日はすべてが違って見える。
インターホンに手を伸ばすが、指が動かない。心臓が痛いほど鳴っている。耳の奥で血流の音がする。
「大丈夫。大丈夫……」
何度も自分に言い聞かせて、ようやく指がボタンに触れた。
ピンポーン。
その音が、妙に大きく響いた気がした。
数秒後、ドアが開く。蒼太が立っていた。いつもの黒髪、いつもの無表情。でも、どこか緊張しているように見えた。
「入って」
たった三文字。それだけで、凛音の足は勝手に動いた。
「う、うん……」
玄関で靴を脱ぐ手がもつれる。つまずきそうになり、慌てて壁に手をつく。蒼太は何も言わず、リビングへ先に歩いていった。
その背中を見ながら、凛音は思った。
三年間、この背中を追いかけてきた。今日、ようやく答えを聞ける。
二人はソファに並んで座った。
間に一人分の空間を空けて。近すぎず、遠すぎない距離。それでも凛音には、蒼太の体温が感じられるような気がした。
沈黙が落ちた。
窓の外では、夕暮れの空がオレンジ色に染まり始めている。部屋の中は薄暗く、どちらも電気をつけようとはしなかった。
凛音は俯いたまま、自分の膝の上で組んだ手を見つめている。指先が白くなるほど力が入っている。
蒼太は何度か口を開きかけた。そして、また閉じた。言葉を探しているのがわかる。
時計の秒針の音だけが、やけに大きく聞こえた。
一分。二分。永遠のように長い時間。
ようやく、蒼太が息を吸う音がした。
「……あの」
凛音の心臓が跳ね上がる。
「……うん」
声が震えないように、精一杯の返事をした。
蒼太は前を向いたまま、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「正直、まだ自分の気持ちがよくわからなかった」
凛音は息を呑んだ。蒼太の声は低く、静かだった。感情を押し殺しているようにも聞こえる。
「でも、考えて、答えが出た」
凛音は蒼太の横顔を見つめた。いつもの無表情。でも、その目は真剣そのものだった。
心臓が破裂しそうだった。凛音は無意識に、ソファの布を握りしめていた。
蒼太が次の言葉を発するまでの数秒間、世界が止まったように感じた。
「俺は、普通で、面白みもなくて、刺激もない男だ」
蒼太の言葉に、凛音は思わず顔を上げた。
「それはお前が一番知ってるはずだ」
違う。そんなことない。凛音は口を開きかけた。
「そんなこと——」
しかし、蒼太が手を軽く上げて制した。まだ話は終わっていない、という合図。凛音は言葉を飲み込んだ。
「元カノにも言われた。つまらない、刺激がないって」
蒼太の声には、自嘲のような響きがあった。過去の傷を自分で抉るような痛々しさ。
「だから最初、お前が俺を好きだって言った時、信じられなかった」
凛音は黙って聞いていた。今は、蒼太の言葉を遮ってはいけない。そう直感した。
「派手で、明るくて、俺とは正反対のお前が……なんで俺なんだって」
蒼太は一度言葉を切った。そして、ゆっくりと凛音の方を向いた。
「でも」
その目が、凛音を真っ直ぐに見つめていた。
「でも、お前がそれでいいって言うなら」
蒼太の目は、いつになく真剣だった。いつもの無表情の奥に、確かな熱があった。
「俺は、お前のこと、好きだ」
その言葉が、凛音の耳に届いた瞬間。
世界が、一変した。
視界がぼやける。涙が溢れ出していた。止めようとしても、止められない。三年間溜め込んできた想いが、一気に溢れ出すように。
凛音の頬を、温かいものが伝い落ちていった。
「今のって……」
凛音は涙声で言った。
「告白⁉」
蒼太は少し困ったような顔をした。
「……たぶん」
「たぶんじゃなくて!」
凛音は涙を拭いながら、少し笑った。泣きながら笑うという、器用なのか不器用なのかわからない表情。
蒼太は姿勢を正し、改めて凛音を見つめた。
「好きだ。付き合ってほしい」
今度は、迷いのない声だった。
凛音の涙が、また溢れた。でも今度は、嬉し涙だとはっきりわかった。三年間、ずっと夢見てきた瞬間。やっと、やっと叶った。
「うん……うん!」
何度も、何度も頷いた。視界は涙でぼやけていて、蒼太の顔がよく見えない。でも、その存在だけは確かに感じられた。
三年間待った。三年間、片想いを続けた。弁当を作り、偶然を装って会い、話しかける勇気も出せないまま、ただ見つめ続けた三年間。
その全てが、報われた瞬間だった。
凛音は我慢できなくなって、蒼太に抱きついた。
「わっ……」
蒼太は明らかに動揺した。体が強張るのがわかる。でも、凛音は離れなかった。
「三年……長かった……」
凛音の声は、蒼太の胸に押し付けられてくぐもっていた。
数秒の戸惑いの後、蒼太の腕がゆっくりと凛音の背中に回った。ぎこちなく、でも確かに、抱きしめ返してくれた。
「……これからは、隣にいる」
蒼太が小さく呟いた。
凛音の心臓がまた跳ねた。顔を上げると、蒼太は相変わらず無表情に近い顔をしていた。でも、耳が少し赤くなっているのが見えた。
「うん……楽しみにしてる」
凛音は笑った。涙と笑顔がごちゃ混ぜになった、人生で一番幸せな顔をしていた。
しばらく抱き合った後、二人は少し離れてソファに座り直した。凛音の目は真っ赤に腫れていて、メイクは完全に崩れていた。でも、そんなことはどうでもよかった。
「ねえ、蒼太くん」
凛音は少し不安そうな顔で言った。
「私、重いよ?」
蒼太は即答した。
「知ってる」
凛音は目を丸くした。
「知ってるの⁉」
「三年前から俺を想ってて、同じマンションに引っ越してきて、攻略ノートまで書いてた女が、軽いわけないだろ」
「っ……それ言う⁉」
凛音は顔を真っ赤にした。でも蒼太は続けた。
「それでいいの?」
不安そうな凛音の問いに、蒼太は真っ直ぐに答えた。
「お前の重さは、俺にはちょうどいい」
その言葉に、凛音はまた泣きそうになった。でも今度は、笑いながら泣いた。
窓の外は、すっかり夕暮れ時になっていた。オレンジ色の光が部屋に差し込み、二人を柔らかく包んでいる。
凛音は蒼太の肩に頭を預けていた。涙は止まったが、離れる気はなかった。蒼太も、もう戸惑う様子はなかった。
「蒼太くん……」
「なに」
「好き」
単純な言葉。でも、三年間の想いが全部詰まった二文字。
蒼太は少し間を置いて、答えた。
「……俺も」
相変わらず、言葉は少ない。でも凛音には、それで十分だった。蒼太の「俺も」には、彼なりの精一杯の想いが込められているとわかるから。
部屋はオレンジ色の光に満ちていた。冬の夕暮れは短い。でも、この瞬間だけは永遠に続いてほしいと思った。
三年越しの片想いが、両想いに変わった夜。二人の関係は、今日から新しい形へと進んでいく。
隣の部屋の、壁一枚隔てた距離。でも今は、その距離すらゼロになった気がした。
——これからも、ずっと一緒に。
凛音は心の中で、そう誓った。蒼太の温もりを感じながら、これから始まる「恋人」としての日々に、胸を躍らせていた。




