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答えを求めて

月曜日の朝七時。藤崎蒼太は誰もいない経理部のデスクに座り、パソコンの画面を見つめていた。いや、正確には見つめているふりをしていた。画面に映るのは先週末の売上データだが、数字が頭に入ってこない。


『三年間、ずっと好きだった』『私、幸せだよ』


凛音の言葉が、何度も脳内で再生される。涙を流しながら想いを伝えてくれた凛音の顔。そして、自分が返した言葉——「返事は、少し考えさせてくれ」。


蒼太は無意識にキーボードの上で指を止め、深く息を吐いた。告白されて、返事を保留にした。それから数日が経つ。なのに、まだ答えを出せていない。


——俺は、どうしたいんだ。


目の前の書類を手に取る。後輩の高橋が作成した経費精算書。いつもなら一読で間違いを見つけられるのに、今日は三回読み返しても頭に入らない。四回目でようやく、日付欄の記載ミスに気づいた。


「……危なかった」


小さく呟いて修正する。こんな単純なミスを見落としそうになるなんて、自分らしくない。蒼太は椅子の背もたれに身体を預け、天井を仰いだ。


3年間。凛音は、3年間もずっと自分を見ていた。あの夜、終電を逃して泣いていた女の子が、まさか隣に引っ越してくるとは思わなかっただろう。でも凛音は、その偶然を「運命」と呼んだ。


——俺みたいな普通の男を好きになって、本当に幸せなのか。


美羽の言葉が蘇る。「つまらない」「刺激がない」「もっと面白い人がいい」。3年間尽くして、最後に言われたのはそれだった。


蒼太は目を閉じた。凛音は違う、と信じたい。でも、本当にそうなのか。自分のような男が、あんなに真っ直ぐな想いに応えられるのか。


不安は、まだ消えない。



昼休み。蒼太が自席で凛音の作った弁当——今日は鮭弁当だった——を開けようとした時、横から影が差した。


「よう」


日向翔真が、缶コーヒーを片手に立っている。金髪にピアス、営業部のエースらしい派手な出で立ち。だが今日の翔真の目は、いつものチャラさがなく、真剣だった。


「ちょっと来い」


有無を言わさぬ調子で、翔真は休憩室へ向かう。蒼太は弁当を持ったまま、渋々後を追った。


休憩室には誰もいない。翔真はソファに腰を下ろし、蒼太を見上げた。


「どうした。今日ずっとぼーっとしてるぞ」


蒼太は向かいに座り、弁当を膝の上に置いた。視線を逸らす。


「……別に」


「嘘つけ。お前が書類三回も読み返してるの、俺見てたからな」


翔真は缶コーヒーを開けながら、じっと蒼太を見据える。


「隣のギャルと何かあったんだろ」


図星だった。蒼太は観念したように息を吐き、弁当の蓋を開けた。鮭の切り身の横に、ハート型の人参が添えられている。凛音らしい、真っ直ぐすぎる愛情表現。


「……告白された」


翔真が缶コーヒーを持つ手が止まった。一瞬の沈黙の後、翔真は勢いよく膝を叩いた。


「だから言っただろ⁉ あの子、絶対お前のこと好きだって!俺の読み通りじゃねえか!」


声が休憩室に響く。蒼太は慌てて周囲を見回したが、幸い誰もいない。


「それだけじゃない」


蒼太は静かに言った。


「3年前から、ずっと俺のことが好きだったって」


翔真の目が見開かれる。


「……3年?」


「ああ。3年前、俺がタクシー代を貸した女の子。あれが凛音だった」


翔真はしばらく絶句していた。やがて、深く息を吐いて背もたれに身体を預けた。


「マジか……。あの子の本気度、俺の想像以上だったわ」


翔真は缶コーヒーを一口飲み、蒼太を真っ直ぐ見据えた。


「で、お前はどうしたいんだ」


核心を突く問い。蒼太は箸を止め、弁当の中の鮭を見つめた。答えが出ない。いや、出せない。


「……わからない」


「わからない?」


「好きだとは思う。でも——」


言葉が詰まる。蒼太は弁当を閉じ、視線を落とした。


「俺みたいな普通の男でいいのか、って」


翔真の眉が跳ね上がる。


「3年も想い続けるって、重いことだろ。それだけの期待に、俺は応えられるのか」


蒼太の声は低く、自嘲気味だった。


「美羽にも言われたんだ。『つまらない』『刺激がない』って。3年付き合って、最後に言われた言葉がそれだった。俺は——」


「お前はまだそんなこと言ってんのか」


翔真の声が、鋭く遮った。


蒼太が顔を上げると、翔真は呆れたような、それでいて真剣な目をしていた。


「美羽みたいなのに騙されて、本物の好意を見分けられないのか」


「……本物?」


「3年間もお前だけを見てきた女だぞ」


翔真は身を乗り出した。


「弁当を毎日作って、風邪の時は看病して、クリスマスにはマフラー編んで。それがどれだけ本気か、わかんないのか」


蒼太は黙り込んだ。翔真の言葉が、胸に突き刺さる。


「美羽は3年間、お前から搾取してただけだ。あの女はお前の優しさを利用してた。でも凛音ちゃんは違う。3年間、ずっと与え続けてきたんだろうが」


翔真の声が、少し荒くなる。


「あの子はお前の普通を好きになったんだよ。お前が自分で『普通』って言ってる部分を。それなのにお前が自分を否定してどうする」


翔真は缶コーヒーをテーブルに置き、蒼太を睨むように見つめた。


「お前さ、自分のこと『普通』って言うけど、本当にそう思ってんのか」


蒼太は答えられない。


「俺は見てきたんだよ。お前が誰より早く出社して、後輩のミスをこっそり直してるの。残業続きの先輩に、さりげなく差し入れしてるの」


翔真の声が、少し柔らかくなる。


「お前の『普通』は普通じゃねえんだよ。誰も見てないところで、ちゃんと人のこと考えて動ける奴なんて、そういないぞ」


蒼太は目を伏せた。そんなことはない、と言いたかった。でも言葉が出ない。


「凛音ちゃんは、そういうお前を3年間見てきたんだろ。派手な見た目に騙されず、お前の本質を見抜いてたんだよ」


翔真は立ち上がり、蒼太の肩を叩いた。


「いいか、よく聞け」


蒼太が顔を上げる。翔真の目は、真剣そのものだった。


「お前を『つまらない』って言った女は、お前のこと何も見てなかった。でも凛音ちゃんは違う。3年間、ずっと見てたんだ」


翔真は一呼吸置いた。


「いつまでも待たせてないで、ちゃんと答え出してやれよ」


蒼太の胸に、何かが落ちた気がした。


「……そう、か」


小さく呟く。翔真は満足げに頷いた。


「わかったらさっさと返事してやれ。あの子、今頃不安で死にそうになってるぞ」


翔真は背を向け、休憩室を出て行く。ドアの前で振り返り、いつもの軽い調子で言った。


「だから言っただろ?あの子は本物だって」


蒼太は一人残された休憩室で、冷めかけた弁当を見下ろした。ハート型の人参が、やけに眩しく見えた。



その夜。蒼太は自室のクローゼットを開けていた。


棚の上段に、紺色のマフラーが丁寧に畳まれている。クリスマスに凛音からもらった、手編みのマフラー。


蒼太はそれを手に取り、ソファに座った。


編み目は不揃いだった。所々、糸の張り方が均一でなく、素人が作ったことは一目瞭然。でも——。


首に巻いてみる。暖かい。不器用な編み目の一つ一つに、凛音の時間と想いが込められている。何日かけて編んだのだろう。何度やり直したのだろう。


『一ヶ月かけて編んだの。上手くできなくて、何度も解いてやり直して……』


クリスマスの夜、凛音が照れながら言っていた言葉を思い出す。


蒼太は目を閉じた。凛音との日々が、次々と蘇る。


毎朝届く弁当。不器用に切られた野菜、でも愛情だけは溢れていた。一緒に作った肉じゃが。風邪で寝込んだ時の看病。おかゆを食べさせてくれた手。泣きながら「三年も好きだったんだよ」と零した声。


クリスマスイブの夜。大晦日の年越しそば。初詣で繋いだ手。


全部、凛音がくれたものだ。


蒼太はマフラーを握りしめた。不器用な暖かさが、胸に染みる。


——あいつは、3年間ずっとこうやって想ってくれてたのか。


誰にも気づかれず、弁当を作り、マフラーを編み、ただひたすらに自分を想い続けた。それがどれだけ苦しかったか。それがどれだけ孤独だったか。


「……俺のどこが、いいんだ」


呟いてから、翔真の言葉を思い出す。


『あの子はお前の普通を好きになったんだよ』


普通。凛音は、自分の「普通」を好きになってくれた。派手さもなく、刺激もなく、ただ毎日を丁寧に生きているだけの自分を。


蒼太はソファに深く沈み込み、天井を見上げた。


マフラーの温もりが、まだ首筋に残っている。凛音の手の温度。何十時間もかけて編まれた、不器用な愛情。


——あいつといると、居心地がいい。


ふと、そう思った。


美羽といた3年間は、常に何かを求められていた。「もっと楽しませて」「もっとサプライズして」「もっと刺激が欲しい」。どれだけ尽くしても、「もっと」は終わらなかった。


でも凛音は違う。一緒にいるだけでいい、と言ってくれた。隣にいてくれるだけで幸せだ、と泣いてくれた。


蒼太は目を閉じた。凛音の顔が浮かぶ。派手なギャルメイクの下の童顔。すっぴんを見られて真っ赤になって逃げる姿。「別にあんたのためじゃないし」と言いながら弁当を押し付けてくる不器用さ。


全部、愛おしい。


——あいつがいない毎日なんて、もう考えられない。


蒼太ははっとした。


そうだ。いつの間にか、凛音は自分の日常になっていた。朝起きて、凛音からのLINEを確認する。昼は凛音の弁当を食べる。夜は凛音と一緒に夕飯を作る。週末は隣り合って映画を見る。


当たり前すぎて気づかなかった。凛音がいない日常は、もう自分の中になかった。


「……好きなんだな、俺は」


声に出してみる。言葉にすると、ようやく実感が湧いてきた。


凛音が好きだ。3年間自分を想い続けてくれた凛音が。不器用で、重くて、真っ直ぐすぎる凛音が。


——ちゃんと、返事しないと。


蒼太はマフラーを外し、丁寧に畳んだ。決意が、静かに固まっていく。



翌日の夜。蒼太は自室でスマホを握りしめていた。


画面には凛音とのトーク画面が開いている。最後のメッセージは、凛音からの「おやすみ」。それに「おやすみ」と返してから、もう数時間が経っている。


蒼太は深呼吸した。心臓が、やけにうるさい。


——ちゃんと伝えないと。


指が震える。普段感情を表に出さない自分にとって、想いを言葉にするのは最も苦手なことだ。でも、このままじゃダメだ。凛音を、これ以上不安にさせたくない。


蒼太は文字を打ち始めた。


「週末、ちゃんと話したい」


送信ボタンの上で、指が止まる。


こんな言い方でいいのか。もっと気の利いた言葉があるんじゃないか。


蒼太は目を閉じた。凛音の顔が浮かぶ。泣きながら「3年間、ずっと好きだった」と言った顔。「待つ。いくらでも待つから」と返してくれた顔。


——あいつは、俺の不器用さも含めて好きになってくれた。


蒼太は指に力を込めた。


——送信。


画面に「既読」の文字が灯るまで、わずか3秒。凛音がずっとスマホを見ていたのだと気づき、蒼太は小さく息を吐いた。


「……待っててくれたのか」


誰にも聞こえない声で呟く。窓の外では、冬の星が瞬いていた。



同じ頃、壁一枚隔てた隣室。


白河凛音は、ベッドの上でスマホを握りしめていた。蒼太からの連絡が来るのを、ずっと待っていた。


——通知。


心臓が跳ね上がる。震える手でスマホを確認する。蒼太からのLINE。


『週末、ちゃんと話したい』


凛音は息を呑んだ。


「ちゃんと話したい……って、どういう意味……」


声が震える。良い返事なのか、悪い返事なのか。わからない。


「返事……くれるのかな……」


頭がぐるぐる回る。怖い。でも、聞きたい。三年間想い続けて、やっと告白できた。その答えが、週末に聞ける。


「やばい……心臓止まりそう……」


凛音はスマホを胸に押し当てた。鼓動がうるさい。手が震える。


——でも、返事しなきゃ。


凛音は震える指で、返信を打ち始めた。


「わかった」


それだけ打つのに、5分かかった。もっと何か言いたかった。でも、何を言えばいいかわからない。


送信ボタンを押す。画面に「送信しました」の文字。


凛音はスマホを抱きしめたまま、布団に倒れ込んだ。涙が滲む。


「待つって言ったから……何を言われても、受け止める」


自分に言い聞かせる。三年待ったのだ。どんな答えでも、ちゃんと聞く覚悟はある。


——でも、お願い。どうか、どうか——。


凛音は枕に顔を埋め、不安で泣きそうになりながら目を閉じた。週末まで、あと数日。怖くて仕方ない数日が始まる。



火曜日。水曜日。木曜日。


凛音にとって、週末までの日々は地獄のような時間だった。


仕事中、何度もスマホを確認してしまう。蒼太からのLINEは、短いけれど毎日来る。「おはよう」「弁当うまかった」「おやすみ」。それだけなのに、その一言一言に何か意味があるんじゃないかと深読みしてしまう。


——良い返事?悪い返事?どっち……⁉


考えすぎて、頭がおかしくなりそうだった。


「凛音、今日なんかおかしいよ?」


職場で、同僚に声をかけられる。凛音は無理に笑った。


「ううん、大丈夫……ちょっと寝不足なだけ」


嘘ではなかった。ここ数日、まともに眠れていない。目を閉じると、蒼太の「ちゃんと話したい」という言葉がぐるぐる回る。


怖い。怖くて眠れない。


夜、凛音は『蒼太くん攻略計画』と書かれたノートを開いた。3年間の想いが詰まったノート。最後のページには、「告白した」「返事待ち」と書いてある。


「……どんな答えでも、受け止める」


凛音は両手でノートを閉じた。


「……お願い」


凛音は両手を合わせた。神様でも、仏様でも、何でもいい。どうか、どうか——。


「蒼太くんが、私を選んでくれますように」



金曜日の夜。明日が、週末。


凛音はベッドに横たわり、天井を見つめていた。スマホには、蒼太からのLINEが届いている。


『明日、18時に俺の部屋に来てくれ』


18時。あと24時間もない。


凛音は深呼吸した。緊張で吐きそうだった。


——大丈夫。何を言われても、ちゃんと聞く。


三年間、蒼太を想い続けてきた。話しかける勇気もなく、遠くから見つめるだけだった三年間。でもこの数ヶ月で、やっと距離が縮まった。弁当を渡せた。一緒に料理を作れた。クリスマスを過ごせた。


そして、告白できた。


「夢みたい……でも、夢じゃない」


凛音は目を閉じた。不安で涙が出そうだった。


「明日……どんな答えが来ても……」


枕元に置いてある『蒼太くん攻略計画』と書かれたノート。三年間の記録。そのノートを見つめながら、凛音は静かに眠りに落ちていった。



同じ金曜日の夜。蒼太は自室のソファに座り、天井を見上げていた。


明日、凛音に返事をする。3年間待ってくれた彼女に、ちゃんと答えを伝える。


「……何て言えばいいんだ」


呟いて、深く息を吐く。


普段から感情を表に出すのが苦手だ。嬉しい時ほど無表情になる。そんな自分が、想いを言葉にできるのか。


蒼太は膝の上に置いたマフラーを見下ろした。不器用な編み目。凛音が一ヶ月かけて編んでくれたマフラー。


——あいつは、3年間ずっとこうやって想ってくれてたのか。


蒼太は目を閉じた。凛音の顔が浮かぶ。派手なメイクの下の童顔。すっぴんを見られて逃げる姿。「別にあんたのためじゃないし」と言いながら弁当を押し付けてくる不器用さ。


全部、愛おしい。


「俺は普通で、面白くないし、刺激もない男だ」


呟く。それは事実だ。美羽に言われた通り、自分には何もない。


「でも——」


蒼太はマフラーを握りしめた。


「お前が、それでいいって言うなら」


凛音は、自分の「普通」を好きになってくれた。誰も見ていないところでの優しさを、見ていてくれた。3年間も、ずっと。


——ちゃんと、伝えないと。


蒼太は立ち上がり、窓の外を見た。冬の夜空に、星が瞬いている。



土曜日の朝。蒼太は夜明け前に目を覚ました。


カーテンの隙間から、薄明かりが差し込んでいる。時計を見ると、まだ5時半。約束の18時まで、12時間以上ある。


蒼太はベッドに横たわったまま、天井を見つめた。緊張で眠れなかった。考えていたのは、凛音のことばかり。


——あいつも、眠れてないかもな。


ふと、そう思った。壁一枚隔てた向こうで、凛音も同じように緊張しているのだろう。返事を待つ不安な気持ちで、どんな夜を過ごしたのだろう。


蒼太は起き上がり、窓を開けた。冷たい朝の空気が流れ込んでくる。


「……ちゃんと、伝えよう」


呟いて、拳を握りしめる。


今日、凛音に返事をする。3年間待ってくれた彼女に。言葉にするのは苦手だけど、それでも——。


蒼太は深呼吸した。心臓がうるさい。でも、逃げない。


壁の向こうで、凛音が待っている。3年間、自分だけを想い続けてくれた彼女が。


——あいつのために。


蒼太は窓を閉め、キッチンへ向かった。今夜、凛音を迎えるための準備を始める。


週末の朝日が、ゆっくりと昇り始めていた。二人の関係に、ついに答えが出る日が来た。

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