記憶の欠片
一月半ば、仕事帰りの蒼太は駅前のコンビニの前で足を止めた。
冷たい夜風が頬を撫で、吐く息が白く染まる。街灯の明かりに照らされた歩道には、帰宅を急ぐ人々の影が行き交っている。蒼太は何気なく視線を動かし、コンビニの入り口脇に目を向けた。
あの場所だ。
三年前の冬。同じように冷え込んだ夜だった。
——派手な髪色の女性が、泣きながら立ち尽くしていた。
記憶が鮮明に蘇る。終電を逃し、財布も忘れて途方に暮れていた彼女。肩を震わせ、化粧が崩れた頬に涙の跡が光っていた。
蒼太は無意識のうちに声をかけた。
『終電なくなった? タクシー代、貸そうか』
『返す……必ず返すから』
『いいよ、困ったときはお互い様だから』
連絡先も聞かず、名前も知らないまま。一万円を渡して、そのまま別れた。
あの女性が凛音だと気づいたのは、すっぴんを見た時だった。童顔で、涙に濡れた頬。派手なメイクの下に覗いていた、幼い顔立ち——あの夜の記憶と完全に重なった。
「三年、か……」
蒼太は呟いた。凛音は三年間、ずっと自分を想い続けていた。初詣の夜、「三年前から、ずっと好きだった」と告白された。頭を撫でながら「俺も」と返した。
でも——それだけでは足りない。
凛音は三年も待っていた。なのに、俺はまだ曖昧なままだ。「俺も」と言っただけで、ちゃんと「好きだ」とは言っていない。告白も、していない。
——俺から、ちゃんと伝えないと。
年越しの夜に固めた決意が、蒼太の中で再び熱を持つ。
コンビニの明かりに照らされた蒼太の表情が、静かに引き締まった。
「今夜……言おう」
蒼太は踵を返し、帰路を急いだ。
マンションに着くと、蒼太は自室の扉の前で立ち止まった。
鍵を取り出しかけた手が止まる。視線が自然と隣の部屋——凛音の部屋へと向かう。
言わなければならない。三年前のあの夜から、ずっと想い続けてくれた凛音に。曖昧なままにしていた自分の気持ちを、ちゃんと言葉にして。
すべての答えを、あの扉の向こうにいる彼女に伝えるのだ。
蒼太は深く息を吸い、凛音の部屋のインターホンを押した。
数秒の沈黙。バタバタと慌ただしい足音が近づいてくる。
扉が開き、凛音の顔が覗いた。部屋着姿で、メイクも薄い。髪は無造作にまとめられている。
「そ、蒼太くん……? どうしたの、こんな時間に」
凛音の声が上擦っている。蒼太は真剣な表情で彼女を見つめた。
「ちょっと話がある」
「な、なに……?」
凛音の瞳が揺れる。蒼太の表情から、ただ事ではないと察したのだろう。
「入っていい?」
「う、うん……」
凛音は戸惑いながらも、扉を大きく開けた。
凛音の部屋に入った蒼太は、リビングには進まず玄関先で立ち止まった。凛音は不安そうな表情で、蒼太の顔を窺っている。
「あの……何か怒ってる……?」
「怒ってない。ただ、伝えたいことがある」
蒼太は真っ直ぐに凛音の目を見た。逸らさないように。
「三年前の冬、駅前のコンビニで……終電逃して泣いてたの、お前だったんだな」
凛音の肩がびくりと震えた。
「俺はその時、タクシー代として一万円を貸した」
「……っ」
凛音の顔に、驚きと動揺が浮かぶ。
「気づいてた、の……?」
かすれた声だった。
「すっぴん見た時に思い出した。童顔で、派手な髪で……あの夜の女の子だって」
凛音は力なく笑った。
「そっか……バレてたんだ」
「ああ」
沈黙が流れる。凛音は深呼吸をして、涙を拭った。その目には、複雑な感情が渦巻いていた。
「……あの夜のこと、ちゃんと話させて」
二人はリビングのソファに並んで座った。凛音は膝の上で手を握りしめ、ゆっくりと話し始めた。
「あの夜……入社半年で、取引先との会食で大失敗して。泣きながら駅に向かったら、終電なくなってて、財布も会社に忘れてて」
声が震えている。でも凛音は続けた。
「どうしようって思ってた時、あんたが声かけてくれた」
蒼太は黙って聞いている。
「あの時、あんたが一万円貸してくれた」
「困った時はお互い様だと思っただけだ」
「……それが、どれだけ眩しかったか。あんたにはわからないでしょ」
凛音の声が詰まる。
「返そうと思ったけど、連絡先知らなくて……まさか同じマンションに住んでたなんて」
「同じマンション……」
「同じマンションだって気づいた時、運命だと思った。やっとお金返せるって……いや、それだけじゃなくて」
彼女は蒼太の目を真っ直ぐに見つめた。
「あんたに、もう一度会いたかった」
凛音は深呼吸をした。心臓が痛いくらいに鳴っている。でも、もう止まらない。止められない。
「初詣の夜、告白したよね」
言葉が溢れ出す。
「三年間、ずっとあんたのことだけ見てたって」
蒼太は頷いた。
「朝、出社する姿。ゴミを分別する姿。エレベーターで他の住人に会釈する姿。全部、全部覚えてる」
涙が止まらない。頬を伝い、顎から落ちていく。
「話しかける勇気がなくて、遠くから見てるだけだった。でも、それでも幸せだった」
「……」
「重いでしょ、気持ち悪いでしょ」
凛音は自嘲するように笑った。
「三年も片思いして、攻略ノートまで作って……」
「攻略ノート?」
蒼太が思わず聞き返す。
「な、なんでもない! 今のなし!」
凛音は慌てて否定するが、もう遅い。顔が真っ赤になる。
涙を拭い、蒼太の目を見つめた。
「……あの夜、頭撫でてくれたでしょ。『俺も』って言ってくれた」
蒼太は頷いた。
「でも……ちゃんとした言葉、まだ聞けてないから」
凛音の声が震える。
「私の気持ち、重すぎて引いてないかなって……ずっと不安で」
凛音の言葉が、部屋の空気を震わせた。
蒼太は凛音を見つめていた。三年間も片想いして、攻略ノートまで作って、それでも「重すぎて引いてないか」と不安がっている女の子。
「重くない」
蒼太の声が、凛音の言葉を遮った。
顔を上げると、蒼太が真剣な表情でこちらを見ていた。
「え……」
「むしろ……そこまで想ってくれてたのに、俺は何も気づかなかった」
「そ、そうた……くん……」
「三年間、ずっと隣にいたのに。ごめん」
蒼太の声は静かだが、確かな温度があった。凛音の目から、また涙が溢れた。
「謝らないで」
声が震えている。でも、笑顔だった。
「今、隣にいてくれてる。それだけで……それだけで十分」
蒼太は黙って凛音を見つめていた。彼女の言葉を、想いを、一つ一つ受け止めるように。
やがて、蒼太が口を開いた。
「……返事は、少し考えさせてくれ」
凛音は一瞬、息を呑んだ。
「適当な言葉で返したくない。お前が三年も待ってくれたんだから……俺も、ちゃんと覚悟を決めてから伝えたい」
蒼太は視線を逸らさなかった。不器用で、ぎこちなくて、でも真剣な目。
「お前を幸せにできるか、俺自身に問いかけたい。だから……待っててくれ」
凛音は涙を拭い、そして——小さく笑った。
「うん、待つ。いくらでも待つから」
三年待ったのだ。もう少しくらい、待てる。蒼太が真剣に考えてくれている。それだけで、今は十分だった。
蒼太は立ち上がり、玄関へ向かった。凛音も後を追う。
靴を履き、ドアノブに手をかけた蒼太が、ふと振り返った。
「三年……か」
蒼太の呟きに、凛音は涙の跡が残る頬で、花が咲くように笑った。
「長かった……でも、後悔してない」
「後悔?」
「だって」
「三年間、毎日あんたのこと考えて、幸せだったもん」
蒼太は言葉を失ったように凛音を見つめていた。やがて、彼は静かに頷いた。
「……おやすみ」
「おやすみ、蒼太くん」
扉が閉まる。凛音は扉に背中を預け、その場にずるずると座り込んだ。
「言えた……やっと言えた」
三年分の想いを、全部吐き出した。蒼太の返事はまだ聞けていない。でも、ちゃんと受け止めてもらえた。
凛音は膝を抱え、静かに泣いた。不安と安堵が入り混じる涙だった。
一方、蒼太は自室に戻り、玄関で靴を脱いだまま壁に背を預けていた。
凛音の顔が、頭の中で何度もリフレインする。
——三年間、ずっとあんたのことだけ見てた。
——重いでしょ、気持ち悪いでしょ。
——うん、待つ。いくらでも待つから。
蒼太は天井を仰いだ。
言えなかった。ちゃんと、言葉にして伝えたかったのに。
「俺のどこが……」
呟きが漏れる。普通で、地味で、面白みもない自分。そんな自分を、三年も想い続けた女がいる。
胸が熱い。でも、嫌じゃない。
むしろ——嬉しい。
蒼太は手編みのマフラーを取り出した。不器用な編み目。でも、暖かい。
凛音の弁当、一緒に作った夕食、風邪の時の看病、初詣で握った手。すべてが頭をよぎる。
——あいつは三年も待ってくれた。俺も、ちゃんと覚悟を決めてから答えを出す。
「……もう少しだけ、待っててくれ」
蒼太は呟いた。
壁一枚隔てた向こうで、凛音も同じ夜を過ごしている。告白を受け止めた夜。答えはまだ出していないけれど、心は決まりかけていた。
凛音はベッドに倒れ込み、天井を見つめていた。泣き疲れて、目が腫れている。でも、心は不思議と穏やかだった。
「蒼太くん……どう思ってるのかな」
何度呟いても、答えは出ない。
でも、凛音は小さく笑った。
「待つから……ずっと待つから」
枕元に置いてある『蒼太くん攻略計画』と書かれたノート。まだ、これを閉じる時ではない。
でも——きっと、もうすぐ。
凛音は目を閉じた。壁の向こうで、蒼太も同じ夜を過ごしている。告白を受け止めてくれた人。答えを考えてくれている人。そう考えると、不安の中にも希望が灯った。
三年間の片想いは、今夜——新たな段階へと進んだ。
そして、まだ返せていない一万円のタクシー代のことを思い出しながら、凛音は静かに眠りに落ちていった。




