一人で年越しとか寂しいでしょ!
十二月三十一日、午後三時。
凛音の部屋は、いつにも増して散らかっていた。ベッドの上には何着もの服が山積みになり、ドレッサーの前には使いかけのコスメが乱雑に並んでいる。その中心で、凛音は鏡に向かって深呼吸を繰り返していた。
「一人で年越しとか寂しいでしょ!」
声に出して言ってみる。
違う。なんか偉そうだ。
「一人で年越しとか……寂しいでしょ?」
語尾を上げてみる。これだと自信がなさすぎる。
「ひ、一人で……」
駄目だ。噛んだ。
凛音は頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。クリスマスイブに蒼太の手料理を食べて、手編みのマフラーを渡して、「好き」と伝えた。蒼太も「ずっと一緒だ」と言ってくれた。
でも——これって、付き合ってるの?
「なんでこんなに緊張するの……」
「ずっと一緒」と言ってくれた。それは確かだ。嬉しかった。でも、「付き合おう」とは言われていない。告白への返事も、はっきりとはもらっていない。この関係は何なのか。彼女ぶって年越しに誘ってもいいのか。
ドレッサーの引き出しを開けると、色褪せたノートが目に入った。『蒼太くん攻略計画』と書かれた表紙。三年前からつけ続けてきた、想いの記録。
凛音はノートを手に取り、最後のページを開いた。
『12月24日——蒼太くんが「ずっと一緒」って言ってくれた。両思い、なのかな。夢みたい。でも、ちゃんと「付き合おう」って言葉はまだ聞けてない。私たち、何なんだろう。でも、三年間頑張ってよかった』
震える字で書かれた文章を見つめながら、凛音は小さく笑った。
「よし」
立ち上がり、もう一度鏡に向き合う。
「一人で年越しとか寂しいでしょ!」
今度は自然に言えた気がする。何より、嘘ではないのだ。蒼太が一人で年を越すのは寂しい。だから一緒にいたい。それだけのこと。
凛音はスーパーで買ってきた年越しそばの材料が入った袋を確認した。ネギ、かまぼこ、えび天、そば。蒼太の好きなものを考えながら選んだ。
「大丈夫。蒼太くんは『ずっと一緒』って言ってくれた。堂々と行けばいい」
自分に言い聞かせながら、凛音は部屋を出る準備を始めた。
午後四時。凛音は年越しそばの材料が入った紙袋を両手に抱え、隣の部屋のインターホンを押した。
心臓がうるさい。
数秒後、ドアが開く。
「おう」
蒼太はいつも通りの無表情で凛音を見下ろした。ラフなスウェット姿で、髪は少し寝癖がついている。その姿を見た瞬間、凛音の頭の中は真っ白になった。
「ひ、一人で年越しとか……」
言葉が詰まる。蒼太が首を傾げる。
「ん?」
「さ、寂しいでしょ!」
やっとの思いで言い切った。練習した通りのセリフ。完璧なはずだった。
しかし、蒼太は数秒の沈黙の後、ぽつりと言った。
「お前がな」
「……え?」
「一人で年越しが寂しいのは、お前の方だろ」
図星だった。凛音は顔が熱くなるのを感じた。
「う、うるさい! いいから入れて!」
蒼太は小さく笑い、ドアを大きく開けた。
「どうぞ」
その笑顔に、凛音の心臓がさらに跳ねる。「ずっと一緒」と言ってくれた人。でも、この人の笑顔には弱い。いや、だからこそ、もっと弱くなった気がする。
玄関で靴を脱ぎながら、凛音はこっそり深呼吸した。
「あ、これ、そばの材料。一緒に作ろうと思って」
「ああ、ありがとう」
蒼太が紙袋を受け取る。その指が一瞬、凛音の手に触れた。それだけで、凛音は電撃が走ったように硬直した。
「どうした?」
「な、なんでもない!」
蒼太の部屋のキッチンは、一人暮らしにしては設備が整っている。料理好きな彼が選んだ物件だけあって、コンロは三口、作業スペースも広い。
「ネギ、どのくらい切る?」
凛音がまな板の前に立ちながら聞く。
「好きなだけ」
蒼太は横で鍋に水を張りながら答えた。
「じゃあたくさん入れちゃお」
凛音はネギを手に取り、包丁を握った。蒼太の料理姿は何度も見てきたが、こうして隣に並んで作業するのは初めてだった。緊張で手元が怪しい。
「……お前、包丁使えるのか?」
「使えるし! 馬鹿にしないで!」
凛音は憤慨しながらも、丁寧にネギを刻み始めた。不揃いな輪切りが、まな板の上に並んでいく。
その間に、蒼太は昆布と鰹節で出汁を取り始めた。手際がいい。凛音が弁当を作り続けてきたのは知っていたが、蒼太の料理の腕前は別格だった。
「いい匂い……」
「まだ出汁だけだぞ」
「出汁だけでも美味しそう」
蒼太は呆れたように笑った。でも、嬉しそうにも見えた。
「えび天は買ってきたやつでいいか」
「うん、いい」
「かまぼこ、切るか?」
「私が切る!」
凛音は張り切ってかまぼこを手に取った。飾り切りに挑戦しようとして、見事に失敗する。
「……何これ」
「何って……ウサギ、のつもり」
「どこがだよ」
「うるさい!」
凛音の手元には、形容しがたい形のかまぼこが残った。蒼太は小さく吹き出しながら、残りのかまぼこを器用に飾り切りしていく。手元から生まれていくのは、綺麗な松葉の形。
「ずるい……」
「練習すればできる」
「絶対無理」
「そんなことない」
何気ない会話。でも、凛音にとっては宝物のような時間だった。三年間、想像するだけだった「一緒に料理する」という夢が、今、現実になっている。
窓の外では、少しずつ日が暮れていく。大晦日の夕方。一年で一番特別な夜が、始まろうとしていた。
午後七時。テーブルには湯気を立てる年越しそばが二つ並んでいた。透き通った出汁の上に、えび天とネギ、そして凛音の失敗作と蒼太の松葉切りが仲良く乗っている。
「いただきます」
「いただきます」
二人で手を合わせ、箸を取る。凛音がそばを啜ると、出汁の旨味が口いっぱいに広がった。
「美味しい……」
「そうか」
蒼太は素っ気なく答えるが、口元が少し緩んでいる。彼なりの喜び方だと、凛音はもう知っている。
テレビでは紅白歌合戦が始まっていた。華やかなステージ、煌びやかな衣装。でも凛音の視線は、画面よりも隣の蒼太に向いてしまう。
「……見ろよ、テレビ」
「見てる」
「俺を見てるだろ」
「み、見てない!」
慌てて視線をテレビに戻す。頬が熱い。
しばらく紅白を眺めながら、そばを食べ進める。凛音のお椀が空になった頃、ふと気になっていたことを聞いてみた。
「ねえ、蒼太くん」
「ん?」
「来年の目標とかある?」
蒼太は箸を止めた。少しの間、考え込むような沈黙。
「……特には」
「そうなんだ」
凛音は少しがっかりした。何かあるのかと期待したのだが。でも、蒼太の横顔には、何か考えているような色があった。
「お前は?」
「私?」
凛音は少し考えた。来年の目標。いくつも浮かぶが、一番大きいのは——
「私は……あるよ」
「何」
「……まだ秘密」
本当は、「蒼太くんともっと一緒にいたい」と言いたかった。でも、なんだか恥ずかしくて言えなかった。
午後十時。紅白も後半に入り、リビングには穏やかな空気が流れていた。食べ終わった食器は洗い終わり、二人はソファに並んで座っている。
いつの間にか、凛音と蒼太の距離は近くなっていた。肩が触れそうで触れない、微妙な距離。
凛音は膝の上で手を握りしめながら、勇気を振り絞った。
「ねえ」
「ん?」
「私……来年の目標、やっぱり言う」
蒼太がこちらを見る。その視線を受けて、凛音は心臓が破裂しそうになりながらも、言葉を紡いだ。
「私は……今年よりもっと、蒼太くんと一緒にいたい」
声が小さくなってしまった。でも、確かに伝えた。
蒼太は何も言わなかった。テレビからは、バラードの歌声が流れている。
沈黙が怖い。凛音が視線を落とそうとした、その時。
ふわり、と。
頭に温かい感触があった。蒼太の手が、凛音の頭を撫でていた。
「……蒼太くん?」
「うん」
それだけ。でも、その手は優しかった。不器用で、ぎこちなくて、でも確かに優しい。
凛音の目に、じわりと涙が滲んだ。言葉にしなくても伝わる。この人は、ちゃんと受け止めてくれる。
蒼太の手が、数回、凛音の髪を梳くように動いた。そして、静かに離れていく。
「そろそろ、カウントダウンだな」
蒼太がテレビを見る。時刻は十一時五十分を過ぎていた。
凛音は涙を拭い、頷いた。
「……うん」
十一時五十九分。テレビの画面には、どこかの神社に集まった群衆が映し出されていた。カウントダウンの数字が表示され、会場は熱気に包まれている。
凛音と蒼太は、ソファに並んで画面を見つめていた。
「あと一分」
蒼太が呟く。
「うん」
凛音の心臓が、カウントダウンに合わせるように早くなっていく。蒼太と迎える、初めての年越し。三年前は想像もできなかった。一年前も、まだ話しかける勇気すらなかった。それが今、こうして隣にいる。
「10、9、8……」
テレビの中の群衆が声を合わせる。凛音も、小さな声でカウントダウンを始めた。
「7、6、5……」
蒼太も、同じように数え始める。
「4、3、2、1……」
二人の声が重なる。
「あけましておめでとう」
「あけましておめでとう」
同時に言って、目が合った。テレビからは歓声と「蛍の光」が流れ始める。
凛音は蒼太を見つめながら、胸がいっぱいになった。
「今年も……よろしくね」
「ああ。よろしく」
蒼太の口元が、ほんの少し緩んだ。その表情を見た瞬間、凛音の目からまた涙が零れ落ちた。
「な、泣くなよ」
「だって……嬉しいんだもん」
凛音は袖で涙を拭いながら笑った。新しい年が、始まった。
午前零時を過ぎた頃。凛音は立ち上がり、蒼太に向かって言った。
「初詣、行こっか」
「今からか?」
「うん。近くの神社、混んでるかもしれないけど……」
蒼太は少し考えてから、頷いた。
「ああ」
二人は防寒着を着込み、外に出た。一月の深夜。吐く息が白い。空には冬の星が瞬いている。
近所の神社までは歩いて十分ほど。静かな住宅街を抜け、参道に入ると、予想以上の人混みがあった。
「すごい人……」
「正月だからな」
参拝の列は鳥居の外まで伸びていた。屋台の灯りがちらほらと見え、甘酒やたこ焼きの匂いが漂ってくる。
人波に押されそうになりながら、凛音は必死に蒼太についていく。
「はぐれそう……」
その時、蒼太の手が伸びてきた。凛音の手を、ためらいなく掴む。
「離れるな」
その一言。凛音は目を見開いた。
蒼太の手は、大きくて、温かかった。ごつごつした、男の人の手。三年間、想像だけしてきた感触が、今、現実になっている。
「……うん」
声が震えた。顔が熱い。でも、手を振り払うなんてできない。繋いだ手を胸の前で抱えるようにしながら、凛音は人混みの中を歩いた。
蒼太の手は、離れなかった。
参拝の列はゆっくりと進んでいく。深夜一時を回っても、人の波は途切れない。凛音と蒼太は、繋いだ手をそのままに、列に並んでいた。
「寒くないか」
「だ、大丈夫」
「手、冷たいな」
「そ、そうかな」
蒼太は凛音の手を、もう片方の手で包み込んだ。両手で、凛音の手を温めるように。
「……っ!」
凛音は声にならない悲鳴を上げた。これは、死ぬ。心臓が止まる。
「どうした?」
「な、なんでもない……」
蒼太は不思議そうな顔をしながらも、手を離さなかった。
列が進み、ようやく本殿の前に辿り着く。賽銭を投げ、鈴を鳴らし、手を合わせる。
凛音は目を閉じ、心の中で願った。
蒼太くんと、ずっと一緒にいられますように。今年も、来年も、その先も。ずっと、ずっと——。
目を開けると、隣で蒼太も手を合わせていた。その横顔は、いつもより穏やかに見えた。
「何、お願いした?」
「秘密」
「えー」
「言ったら叶わないだろ」
「……それもそっか」
凛音は頷きながら、蒼太が何を願ったのか気になって仕方なかった。
参拝を終えた二人は、おみくじ売り場に立ち寄った。巫女さんから籤を受け取り、それぞれ引く。
凛音は震える手で紙を開いた。
「大吉!」
「おう」
「やった! 蒼太くんは?」
「小吉」
「えー、微妙じゃん」
「うるさいな」
蒼太は仏頂面だが、特に気にしていないようだった。
凛音は自分のおみくじを読み進める。恋愛の欄に目が止まった。
「想い人との縁、叶う時期」
凛音の心臓が跳ねた。
「な、何て書いてある?」
蒼太が覗き込もうとする。
「み、見せない!」
凛音は慌ておみくじを胸に抱いた。
「何だよ」
「いいでしょ別に!」
顔が真っ赤だ。「想い人との縁、叶う時期」——蒼太は「ずっと一緒」と言ってくれた。でも、まだ「付き合おう」とは言われていない。この縁が、叶うなら——。
凛音はおみくじを丁寧に折りたたみ、財布の中にしまった。
「持って帰るのか」
「うん。お守りにする」
「そうか」
蒼太は自分のおみくじを木に結びながら、凛音を見た。
「いいこと書いてあったんだな」
「……うん」
凛音は頷きながら、胸の奥で喜びを噛みしめた。この幸せが、ずっと続きますように。
深夜二時過ぎ。参拝客の波も少し落ち着き、二人は神社を後にした。
帰り道は、来た時より静かだった。街灯の下を歩きながら、凛音は繋いだままの手に意識を向けていた。
蒼太は離さない。自分からは、絶対に離したくない。
しばらく無言で歩いていると、蒼太が口を開いた。
「今年は……」
「ん?」
「ちゃんと考えなきゃいけないことがある」
凛音は足を止めそうになった。蒼太の声は、いつもより真剣だった。
「何を?」
聞き返す声が、少し震えた。蒼太は前を向いたまま、答えた。
「まだ言えない」
「……そう」
凛音の胸に、様々な感情が渦巻いた。不安と、期待。怖さと、嬉しさ。
「考えなきゃいけないこと」——それは、何だろう。私のこと? それとも、別の何か?
聞きたい。でも、聞けない。蒼太が「まだ」と言ったのなら、待つしかない。三年間待ったのだから、もう少しくらい待てる。
凛音は繋いだ手に、そっと力を込めた。蒼太は何も言わず、同じように握り返してくれた。
冬の夜空に、白い息が溶けていく。二人の影は、街灯の下で一つに重なっていた。
マンションに戻った時、時刻は午前二時半を過ぎていた。共有廊下は静まり返り、蛍光灯だけが白く光っている。
凛音の部屋は502号室。蒼太の部屋は501号室。壁一枚隔てた、隣同士。
二人は、それぞれの部屋の前で向かい合った。帰ってきてしまったことが、少しだけ寂しい。
「じゃあ……おやすみ」
凛音が言う。
「ああ、おやすみ」
蒼太が頷く。
でも、凛音の足は動かなかった。もう少しだけ、この時間を引き延ばしたい。
「あの……」
「ん?」
「今年も、よろしくね」
精一杯の笑顔で言う。蒼太は凛音を見つめ、ほんの少し表情を緩めた。
「ああ、よろしく」
その顔が、凛音は大好きだった。普段は無表情で、何を考えているかわからない人。でも、こうして二人きりの時に見せる穏やかな顔が、たまらなく好き。
「……蒼太くん」
「なに」
「私、幸せだよ」
蒼太は少し目を見開いた。凛音は恥ずかしさを押し込めて、続けた。
「三年前から、ずっと好きだった。今も、好き。蒼太くんの隣にいられて、すごく幸せ」
蒼太は何も言わなかった。でも、その手が伸びてきて、凛音の頭を軽く撫でた。
「……俺も」
たった二文字。でも、凛音には十分だった。涙が溢れそうになるのを堪えながら、凛音は笑った。
「おやすみ、蒼太くん」
「ああ。おやすみ」
二人はそれぞれの部屋に入っていく。ドアが閉まる音が、廊下に響いた。
午前三時。蒼太は自室のベッドに横になったまま、天井を見つめていた。
暗闘の中、繋いだ凛音の手の感触がまだ残っている。小さくて、冷たくて、でも確かに温かかった。
「今年も、よろしくね」
凛音の声が、頭の中で繰り返される。
「私、幸せだよ」
三年前。終電を逃して泣いていた女の子に、タクシー代を渡した。連絡先も聞かず、名前も知らないまま別れた。それが凛音だったと知ったのは、つい最近のこと。
あの時から、凛音はずっと自分を見ていた。三年間。好きでいてくれた。
蒼太は目を閉じた。美羽との三年間を思い出す。尽くしても、尽くしても、「つまらない」と言われた日々。「もっと刺激が欲しい」と、別れを告げられた夜。
自分は普通で、面白くなくて、誰かに特別だと思われることなんてない——そう、思っていた。
でも、凛音は違った。
「蒼太くんの『普通』が、私には特別だから」
いつか凛音が言った言葉。その意味が、今ならわかる気がする。
蒼太は胸の奥で、何かが揺れるのを感じた。
凛音のことが——好きなのかもしれない。
蒼太は枕元に置いた凛音の手編みのマフラーを手に取った。不揃いな編み目。でも、温かい。
三年。あいつは、三年も俺を想っていてくれた。
毎朝の弁当も、一緒に作る夕食も、風邪をひいた時に飛んできてくれたことも——全部、三年分の想いが詰まっていた。
「……いや」
蒼太は呟いた。暗闘の中、自分の声だけが響く。
「好きだ」
言葉にした瞬間、胸の奥が熱くなった。もう誤魔化せない。とっくに気づいていたのかもしれない。ただ、認めるのが怖かっただけだ。
——あいつは三年も待ってくれた。なのに、俺はまだ曖昧なままでいいのか。
今の関係は曖昧なままだ。「ずっと一緒だ」と言った。凛音も「好き」と言ってくれた。でも、俺からちゃんと「好きだ」と言葉にしていない。告白も、していない。
俺から、ちゃんと告白する。「好きだ」と、言葉にして伝える。
蒼太は暗闘の中で、静かに決意を固めていた。壁一枚隔てた向こうで、凛音も眠れぬ夜を過ごしている。そんな気がした。
新しい年が、始まった。二人の物語は、新たなステージへと進もうとしていた。




