二人だけのクリスマス
十二月二十四日、クリスマスイブ。
朝六時、蒼太のキッチンには既に明かりが灯っていた。冷蔵庫から取り出した丸鶏を流水で洗いながら、頭の中でタイムスケジュールを組み立てる。
——チキンは三時間前から焼き始めないと……いや、下味は朝のうちに済ませたから大丈夫か。
塩と胡椒、ローズマリーを丸鶏に擦り込みながら、蒼太は自分の手元を見つめる。こんなに気合いを入れて料理をするのはいつ以来だろう。美羽と付き合っていた頃は、手料理より外食を好まれた。「お店のほうが美味しいでしょ」——そう言われて、いつの間にか料理を作ることが減っていた。
でも凛音は違う。
彼女は蒼太の料理を「美味しい」と言って泣いた。不格好な肉じゃがを「最高」だと言ってくれた。
「……ケーキ、うまく作れるかな」
呟いて、買い置きしていた生クリームと苺を確認する。スポンジは昨夜のうちに焼いておいた。ちょっと膨らみが足りなかった気がするが、味は悪くないはずだ。
——喜んでくれるかな。あいつ、俺の料理食べて泣いてたっけ。あの時の顔……また見れるかな。
そんな期待が、自然と湧いてくる。二人きりで過ごす初めてのクリスマス。凛音のために、精一杯の料理を作りたい。
窓の外を見る。冬の曇り空。夕方には雪が降るかもしれない。壁一枚向こうに、凛音がいる。その事実が、いつの間にか当たり前になっていた。
一方、凛音は正午前から準備を始めていた。
クローゼットの前で、何度目かのため息をつく。
「派手すぎず、でも特別な感じ……うーん、これかな」
手に取ったのは、シンプルなネイビーのニットワンピース。膝丈で、露出は控えめ。でも素材が良くて、着ると女らしいラインが出る。
「……いや、やっぱこっち? あー、もう全然決まんない!」
鏡の前で何度も回転しながら、凛音は髪型を考える。いつものハイトーンカラーは巻いて、少しだけ大人っぽく。メイクも、派手すぎず——でも特別感は出したい。
——蒼太くんの部屋で、二人でクリスマス。三年前の私が聞いたら泣くよね、絶対。
ベッドの上には、丁寧にラッピングされた包みが置いてある。紺色のマフラー。何日もかけて編んだ、不格好な手編みのマフラー。
「マフラー、喜んでくれるかな……」
編み目は不揃いで、途中で毛糸の色が微妙に変わっている部分もある。何度もやり直して、指に絆創膏を巻きながら完成させた。
——編み目ガタガタだし、途中で糸の色変わっちゃってるし……下手すぎて引かれたらどうしよう。
不安が押し寄せる。でも、買ったものじゃ伝わらない気がした。三年間の想いを、自分の手で形にしたかった。
「……でも、買ったものより気持ち伝わるって信じたい」
凛音は包みを抱きしめ、壁の向こうを見つめる。蒼太の部屋。今夜、初めてのクリスマスを過ごす場所。
時計を見る。夕方六時まで、あと六時間。
「今日こそ……ちゃんと、伝えたい」
午後六時。
蒼太の部屋には、ローストチキンの香ばしい匂いが充満していた。テーブルには白い皿が並び、サラダの緑、スープの湯気、そして黄金色に焼き上がったチキン。手作りのケーキは冷蔵庫の中で出番を待っている。
インターホンが鳴った。
蒼太の心臓が跳ねる。——来た。
エプロンを外し、玄関へ向かう。深呼吸をして、ドアを開けた。
「こ、こんばんは……」
凛音が立っていた。
いつもの派手なギャルメイクではない。控えめだが、どこか華やかさを残した化粧。シンプルなネイビーのワンピースは、凛音の華奢な体を柔らかく包んでいる。
「……」
蒼太は思わず言葉を失った。——綺麗だ。
「え、えっと……入っていい?」
凛音が上目遣いで聞いてくる。手には赤いリボンのかかった包み。蒼太は我に返り、
「……ああ、入って」
と、扉を大きく開けた。
「お、おじゃまします……」
凛音が靴を脱いで上がると、すぐに料理の香りが鼻をくすぐったのだろう。目を丸くして、リビングへ歩いていく。
「わ……」
小さな声が漏れた。
「すごい……全部作ったの?」
凛音がテーブルの前で振り返る。その目には、驚きと感動が混じっていた。
ローストチキンは皮がパリッと焼けていて、レモンとローズマリーが添えられている。サラダは色鮮やかで、自家製ドレッシングが別の器に用意されていた。コーンスープからは湯気が立ち上り、パンも温められている。
「たいしたことない」
蒼太は照れ隠しに視線を逸らす。でも凛音は首を横に振った。
「たいしたことあるよ……! チキンもサラダもスープも……あ、ケーキまであるじゃん!」
冷蔵庫の方を指差す凛音に、蒼太は頷く。
「スポンジ、ちょっと失敗したけど」
「手作りのケーキ……」
凛音の声が震えている。蒼太が見ると、彼女は唇を噛んで、何かを堪えているようだった。
「……どうした」
「ううん、なんでもない。嬉しくて」
凛音はプレゼントの包みを椅子に置いて、蒼太を見上げた。いつもより少し大人っぽい化粧の下の瞳が、潤んでいる。
「ありがとう、蒼太くん」
「……座れよ」
蒼太は椅子を引いて、凛音の着席を待った。二人のクリスマスイブが、始まった。
チキンを切り分け、サラダを取り分け、スープを注ぐ。蒼太の手際の良さを、凛音は見惚れるように眺めていた。
「いただきます」
二人の声が重なる。
凛音がチキンを一口食べて、目を閉じた。
「……美味しい」
しみじみとした声だった。蒼太はほっとして、自分も箸を進める。
「ねえ、覚えてる? 最初に一緒にご飯食べた時のこと」
凛音が急に話題を振ってきた。
「……お前がタッパー四つ分の料理持ってきた時か」
「ち、違う! あんたが私のお礼に作ってくれた時!」
凛音が赤くなって反論する。蒼太は小さく笑った。
「ああ、肉じゃがの時か」
「そう。あの時、私……泣いちゃったでしょ」
「泣いた」
「恥ずかしかったんだから……。でも、本当に嬉しくて」
凛音はスープを一口飲んで、続けた。
「あの頃は、まだ全然……こんな風になるなんて思わなかった」
「俺も」
蒼太は正直に答えた。隣の部屋の派手な女の子が、こんなにも自分のことを想っていたなんて。そして今、クリスマスを一緒に過ごしているなんて。
「今年は……」
凛音が言葉を選ぶように、ゆっくりと言った。
「本当に、幸せだった」
「……俺も。お前がいて、良かった」
その言葉に、凛音は一瞬息を呑んだ。
食事が進み、会話も弾む。凛音が職場のクリスマスイベントの話をして、蒼太が翔真に冷やかされた話を返す。穏やかで、温かい時間が流れていく。
ふと、蒼太が箸を置いた。
「……なあ」
「なに?」
凛音が顔を上げる。蒼太は彼女の目を見て、言葉を探した。
「お前と話すようになって、毎日が……」
凛音の心臓が跳ねた。蒼太の声が、いつもより低い。いつもより、真剣だ。
「毎日が?」
促す凛音の声も、震えている。
蒼太は視線を逸らした。言葉が出てこない。頭の中では分かっているのに、口が動かない。
「……楽しくなった」
絞り出すような声だった。凛音は目を見開き、そして——
「っ……私も」
声が裏返った。でも構わなかった。
「私も、蒼太くんといると……毎日が、特別になった」
二人の視線が交わる。言葉は少ないけれど、確かな想いがそこにあった。
「……ケーキ、出すか」
蒼太が照れくさそうに席を立った。凛音は涙を拭きながら、その背中を見つめていた。
ケーキを食べ終えて、食後のコーヒーを飲む。外はすっかり暗く、窓の向こうには雪がちらつき始めていた。
「……あの、さ」
凛音が意を決したように立ち上がり、椅子に置いていた包みを取った。
「これ……作ったから」
差し出された包みを、蒼太は受け取る。赤いリボン、丁寧なラッピング。
「……開けていいか?」
「うん……」
凛音は緊張で死にそうだった。手が震えているのを悟られたくなくて、背中に隠す。
蒼太がリボンを解き、包装紙を開く。中から出てきたのは——
「マフラー……」
紺色の、手編みのマフラー。蒼太は広げて、まじまじと見つめた。
編み目が不揃いだ。ところどころ、きつく編みすぎた部分がある。毛糸の継ぎ目も見える。でも、それが逆に——
「これ、作ったのか」
蒼太が顔を上げる。凛音は俯いたまま、早口で言った。
「編み物とか、したことなくて……。YouTube見ながら、必死で……。でも全然上手くできなくて、何回もやり直して……」
言葉が止まらない。
「似合わなかったら捨てていいから。無理して使わなくていいし。重いって思われるかもしれないけど、でも、買ったものより……気持ちが伝わるかなって……」
凛音の声が震える。蒼太は黙ったまま、マフラーを首に巻いた。
凛音が顔を上げると、蒼太がマフラーを巻いていた。紺色が、彼の黒髪によく似合っている。
「……暖かい」
蒼太がぽつりと言った。
その一言で、凛音の中で何かが決壊した。涙が溢れ出す。止まらない。声を出さないように必死で唇を噛むけれど、嗚咽が漏れてしまう。
「おい、なんで泣いてる」
蒼太が戸惑ったように近づいてくる。凛音は首を横に振った。
「……嬉しいだけ」
涙を拭いながら、言葉を絞り出す。
「三年も……三年も、想ってて……」
声が震える。でも、今夜は全部言いたかった。
「こうやって、一緒にクリスマス過ごせるなんて、思わなかった……」
蒼太は言葉を失っている。凛音は構わず続けた。
「あの時、タクシー代貸してくれた時から……ずっと……嬉しい……。嬉しいの……」
凛音の涙は止まらなかった。
蒼太は、泣いている凛音を見つめていた。控えめにしていたメイクが涙で崩れて、素顔に近い顔が見える。童顔で、泣き虫で、三年間もずっと自分のことを想っていた女の子。
何を言えばいいか分からなかった。言葉を探すけれど、見つからない。
だから——行動で示すことにした。
蒼太は凛音の頭にそっと手を置いた。
「……これからも」
蒼太はぎこちなく、凛音の髪を撫でた。
「一緒に、過ごす」
不器用な言葉だった。気の利いた台詞なんて言えない。でも、今の蒼太が言える精一杯だった。
凛音は目を見開いて——そして、くしゃりと顔を歪めて、また泣いた。
「う、うん……来年も……再来年も……ずっと、一緒だからね……」
蒼太は黙って頷いた。撫でる手は止めなかった。
涙が落ち着いた後、二人はソファに並んで座っていた。テレビではクリスマスの特番が流れている。凛音の肩が、自然と蒼太に触れている。
「ねえ、蒼太くん」
「なに」
「……来年のクリスマスも、こうしてる?」
「ああ」
「再来年も?」
「……ああ」
「十年後も?」
「……それは、気が早すぎる」
蒼太の言葉に、凛音がくすりと笑った。
「そうかな」
時計を見る。十一時半。あと三十分で、クリスマスイブが終わる。凛音は蒼太の肩に頭を預けた。蒼太は何も言わず、それを受け入れた。
深夜零時。テレビから「メリークリスマス」の声が聞こえる。
「メリークリスマス」
凛音が言う。目はまだ少し赤いけれど、笑顔だ。
「ああ、メリークリスマス」
帰り際、凛音は玄関で振り返った。
「……好き」
小さく呟いて、逃げるように自室へ戻っていった。
凛音が帰った後、蒼太は部屋に戻った。
首に巻いたままのマフラーに触れる。不揃いな編み目。ところどころ、糸がほつれかけている。でも、確かに暖かい。
——必死で編んだ、か。
何度もやり直したと。指に絆創膏を巻きながら完成させたと。
凛音の泣き顔が頭をよぎる。「三年も想ってて」と言った声。「一緒にクリスマス過ごせるなんて思わなかった」と言った目。
「……俺も」
蒼太は呟いた。誰もいない部屋に、声が落ちる。
「お前と……ずっと一緒にいたい」
言葉にすると、不思議と胸が軽くなった。
「俺は、お前のこと……」
続きは、出てこなかった。でも、もうすぐ言える気がした。
マフラーをそっと畳んで、枕元に置く。明日からは毎日使おう。凛音が作ってくれた、このマフラーを。
窓の外では、まだ雪が降り続けている。蒼太は静かにベッドに入った。
——来年も、再来年も、ずっと一緒だからね。
凛音の声が耳に残っている。蒼太は目を閉じて、小さく笑った。
「……ああ、ずっと一緒だ」
年末が近づいている。大晦日、初詣——凛音と過ごす時間が、もうすぐやってくる。
蒼太の中で、何かが確かに動き始めていた。




