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24/30

決意の夜

付き合い始めて二週間。蒼太の部屋には、すっかり見慣れた光景が広がっていた。


キッチンから漂う肉じゃがの香り。テーブルに並ぶ二人分の食器。そして、エプロン姿で味見をする凛音の後ろ姿。


「ちょっと薄いかな……」


凛音が首を傾げながら小皿を差し出す。蒼太は受け取って口に運び、少し考えてから答えた。


「いや、ちょうどいい」


「ホント?」


凛音の顔がぱっと明るくなる。付き合い始めて二週間経っても、蒼太に料理を褒められると嬉しくて仕方がない。三年間夢見ていた光景が、今、目の前にある。


食卓についた二人は、いつものように向かい合って夕食を始めた。凛音は蒼太の食べる姿を横目で見ながら、自分も箸を動かす。白米を口に含んだ瞬間、凛音は幸せそうに目を細めた。


「今日のご飯、おいしい」


蒼太が作った白米は、いつも絶妙な炊き加減だ。


「そうか」


蒼太は短く答えて、味噌汁を啜る。この何気ないやり取りが、二人の日常になっていた。冬の寒さも忘れるような、温かい夕食の時間。


その時、蒼太のスマートフォンが震えた。


テーブルの上に置かれた画面が一瞬光る。蒼太の視線がそちらに向かい——表情が、ほんの一瞬だけ曇った。


——美羽。


画面に表示された名前を見た蒼太は、何も言わずスマートフォンをポケットにしまった。


「どうしたの?」


凛音が不思議そうに聞く。


「いや、何でもない。仕事の通知」


蒼太は箸を動かしながら答えた。その声は平静を装っていたが、凛音には何かが引っかかった。


——嘘だ。蒼太くんは嘘をつく時、視線を逸らす。


三年間見てきた凛音には、それがわかる。でも、今は追及しない。きっと、蒼太には蒼太の事情がある。


「そっか」


凛音は笑顔を作って、箸を動かし続けた。幸せな夕食の時間。でも、蒼太の心には小さな棘が刺さっていた。




午後十時。凛音が「明日も早いから」と帰った後、蒼太は一人でソファに座っていた。


テーブルの上には、凛音が洗ってくれた食器。キッチンには、二人で使ったエプロンが並んで掛けられている。幸せの痕跡が、部屋のあちこちに残っている。


でも、蒼太の表情は暗かった。


ポケットからスマートフォンを取り出す。ロック画面には、LINEの通知が表示されていた。


『ソウちゃん、助けて』


送信者の名前は、桐谷美羽。


蒼太は深くため息をついて、通知をタップした。メッセージを開くと、続きが表示される。


『お願い、話だけでも聞いて』

『彼氏の借金が膨らんで……私も巻き込まれそうで』

『本当に怖いの。ソウちゃんしか頼れる人がいなくて』


——また、これか。前に断ったはずなのに。


蒼太は眉をひそめた。以前、カフェで一度会って断ったはずだ。「もう関係ない」とはっきり伝えた。なのに、まだ連絡が来る。


『お願い、無視しないで』

『返事だけでも……』


メッセージは続いている。深夜に向かう時間帯、追い詰められているのは本当なのかもしれない。


——どうすれば……。


三年間、付き合っていた相手。好きだった相手。その人が「助けて」と言っている。完全に無視することが、正しいのかどうか——。


「……くそ」


蒼太は小さく毒づいて、スマートフォンをテーブルに置いた。返信はしない。でも、既読もつけられない。


壁の向こうには、凛音がいる。今、自分の隣にいてくれる人。その人を不安にさせたくない。


でも、美羽の「助けて」という言葉が、頭から離れなかった。




翌日、昼休み。蒼太は社員食堂の隅で、翔真と向かい合っていた。


「美羽から連絡来た」


蒼太がスマートフォンを差し出す。翔真は画面を見て、一瞬で表情が険しくなった。


「……は? また?」


「ああ。前に断ったのに、また来てる」


翔真はLINEのやり取りをスクロールしながら、舌打ちした。


「だから言っただろ。あの女は諦めないって」


「わかってる」


「わかってねえから相談してんだろ」


翔真はスマートフォンを蒼太に突き返し、真っ直ぐに目を見た。


「いいか、蒼太。絶対に関わるな」


「でも——」


「でもじゃねえ。お前の優しさにつけ込んでるだけだ、あの女は」


翔真の声には、怒りが滲んでいた。三年間、蒼太が美羽に搾取されているのを見てきた。何度も忠告した。でも蒼太は聞かなかった。ようやく別れて、凛音という本物の相手に出会えたのに——。


「借金だの連帯保証人だの、知るかよ。弁護士案件だろ、それ。お前に何ができる?」


「……何もできない」


「だろ? だったら無視しろ」


正論だ。蒼太にもわかっている。でも、「無視しろ」という一言が、どうしても飲み込めない。


「……昔は好きだった相手だから、完全に無視もできない」


翔真が呆れたようにため息をついた。


「その優しさが、お前を苦しめてきたんだよ。わかってんのか?」


「わかってる。わかってるけど——」


「今は凛音ちゃんがいるだろ」


翔真の声が、少しだけ柔らかくなった。


「あの子は三年もお前を待ってたんだ。ようやく付き合えて、幸せな時期だろ。そこに元カノの問題を持ち込むな。そっちを大事にしろ」


蒼太は黙り込んだ。翔真の言う通りだ。凛音を傷つけたくない。不安にさせたくない。でも——。


「俺は、凛音に隠し事をしたくない」


「は?」


「美羽から連絡が来てること、正直に話すつもりだ」


翔真は目を見開いた。そして、ゆっくりと頷いた。


「……そうか。それがお前のやり方か」


「ああ」


「嘘ついて後でバレる方が最悪だもんな」


翔真は腕を組んで、天井を見上げた。


「わかった。俺の意見は変わらねえ。美羽には関わるな。でも、凛音ちゃんに話すってんなら、それは正解だと思う」


「……ありがとう」


「感謝はいい。ちゃんと凛音ちゃんを大事にしろよ」




午後八時。蒼太の部屋。


凛音は蒼太の隣に座りながら、彼の横顔を見ていた。テレビはついているけれど、二人とも画面を見ていない。


——やっぱり、何かある。


昨日の夕食の時から、蒼太の様子がおかしい。スマートフォンの通知を見た瞬間の、あの表情。今日も、どこか上の空だ。


「ねえ、蒼太くん」


凛音が静かに声をかけた。


「なに」


「なんかあった?」


蒼太の肩が、ほんの少しだけ強張った。凛音はそれを見逃さなかった。


「……あった」


蒼太は短く答えて、テレビのリモコンを手に取った。音量を下げる。そして、凛音の方を向いた。


「正直に言う」


「うん」


「元カノから連絡が来てる」


凛音の心臓が、一瞬止まった。


——元カノ。美羽さん。蒼太くんと三年間付き合っていた人。


Instagramで見た、あの華やかな女性の顔が脳裏をよぎる。


「……そっか」


凛音は努めて平静を装った。でも、声が少し震えているのが、自分でもわかった。


「どうするの?」


声は静かだった。責めるでもなく、泣くでもなく。ただ、蒼太の答えを待っている。


蒼太は少し考えてから、口を開いた。


「会うつもりはない。前に一度断ったし、もう関係ないと思ってる」


「……うん」


「でも、どう断ればいいかわからない。しつこくて、困ってる」


正直な言葉だった。凛音は蒼太の目を見て、嘘がないことを確認した。


——信じたい。


蒼太は嘘をつかない人だ。三年間見てきたからわかる。この人は、自分の言葉に責任を持つ人だ。


でも、不安が消えない。美羽という存在が、蒼太の過去にいる。三年間、蒼太の隣にいた人。自分には見せなかった表情を、きっとたくさん見てきた人。


「彼女、何て言ってきたの?」


凛音は聞いた。知りたくない。でも、知らないままは嫌だ。


「借金問題で困ってるらしい。新しい彼氏の借金に巻き込まれて、連帯保証人にされそうだって」


「……大変そうだね」


「ああ。でも、俺に何ができるわけでもない。弁護士案件だって、翔真にも言われた」


蒼太の声は冷静だった。凛音は少しだけ安心した。少なくとも、美羽に同情して会おうとしているわけではない。


沈黙が流れた。テレビの音だけが、小さく部屋に響いている。


凛音は考えていた。このまま「無視すればいい」と言うのは簡単だ。でも、蒼太は優しい人だ。完全に無視することに、きっと罪悪感を感じてしまう。


それに——。


——このままじゃ、ずっと引きずる。


美羽が諦めない限り、この問題は終わらない。なら、ちゃんと終わらせるしかない。


「蒼太くん」


凛音は顔を上げた。


「私は蒼太くんを信じてる」


「……ああ」


「でも、もし会って完全に終わらせたいなら——」


凛音は一度言葉を切って、深呼吸した。心臓がバクバクと鳴っている。でも、言わなきゃいけない。


「一緒に行っていい?」


蒼太の目が、大きく見開かれた。


「……え?」


「私も一緒に行く。蒼太くんの彼女として」


凛音の声は震えていた。でも、目は真っ直ぐだった。


三年間、遠くから見ているだけだった。話しかける勇気がなくて、チャンスを逃し続けた。でも、もうあの頃の自分じゃない。今は、蒼太の隣にいる。


「いいよ」


蒼太が答えた。その声には、少しだけ驚きと、そして——安堵が滲んでいた。


「お前がそう言うなら。お前がいてくれた方が、心強い」




蒼太はスマートフォンを取り出した。凛音は隣で、その手元を見つめている。


『一度だけ会う。彼女も一緒に行く』


それだけのメッセージを打ち込んで、送信した。


既読マークがつく。すぐに返信が来た。


『ありがとう、ソウちゃん。彼女……?』


蒼太は返信せずに、スマートフォンをテーブルに置いた。


「……送った」


「うん」


凛音は頷いた。心臓がバクバクしている。自分から「一緒に行く」と言ったのに、いざとなると怖くなる。


——美羽さん……蒼太くんの元カノ。華やかで、綺麗で、大人っぽい女性。私とは正反対の人。


「凛音」


蒼太が名前を呼んだ。


「なに」


「ありがとな」


蒼太の手が、凛音の頭に置かれた。ぎこちない手つきで、髪を撫でる。


「……うん」


凛音は目を閉じた。蒼太の手のひらの温かさが、不安を少しだけ和らげてくれた。




午後十一時。凛音は自分の部屋に戻っていた。


ベッドに座って、天井を見上げる。さっきまで蒼太の隣にいたのに、一人になると不安が押し寄せてくる。


——不安……でも、信じる。


Instagramで見た写真を思い出す。ハイブランドのバッグ、高級レストラン、華やかなパーティー。蒼太と三年間付き合っていた女性。自分とは、何もかもが違う。


「……怖い」


凛音は小さく呟いた。


でも、逃げない。逃げたくない。三年間、蒼太を見てきた。話しかけられなくて、弁当を渡す口実を探して、ようやく——ようやく、隣に立てた。その場所を、誰にも渡したくない。


「私は三年待ったんだから……負けない」


声に出して言うと、少しだけ勇気が湧いてきた。


凛音は机の引き出しを開けて、一冊のノートを取り出した。『蒼太くん攻略計画』——三年前から書き続けてきたノート。


今日の日付のページを開いて、ペンを走らせる。


『元カノから連絡が来たらしい』

『正直、怖い。美羽さん、綺麗だし、蒼太くんと3年も付き合ってたし』

『でも、蒼太くんは私に話してくれた。隠さなかった。それが嬉しかった』

『だから、私も逃げない』

『一緒に会いに行くって言った。震えてたけど、言えた』

『私は3年待ったんだから。今更、負けるわけにはいかない』


ノートを閉じて、胸に抱きしめる。美羽という存在が怖い。でも、蒼太を信じたい。そして何より——自分を信じたい。三年間の想いは、嘘じゃない。




同じ夜。壁一枚隔てた向こう側。


蒼太もまた、眠れずにいた。


ベッドに横たわりながら、天井を見つめる。凛音が帰った後、美羽から何度かLINEが来ていた。『彼女って誰?』『ソウちゃん、新しい人できたの?』——全て無視した。


——美羽と会うのか……。


正直、気が重い。三年間の関係を、今更どう清算すればいいのかわからない。


でも、凛音が一緒に来てくれる。


あの瞬間、凛音の目を見た時、蒼太は驚いた。普段のおどおどした彼女とは違う、真っ直ぐな目。『一緒に行っていい?』——その言葉に、どれだけ救われたかわからない。


「あいつがいれば、大丈夫だ」


蒼太は小さく呟いた。


クリスマスにもらった手編みのマフラーが、椅子の背にかけてある。不揃いな編み目。でも、凛音の想いが詰まっている。


三年間、自分を見てくれていた人。今、自分の隣にいてくれる人。その人を、守りたい。


美羽との因縁を、今度こそ終わらせる。凛音と一緒に。


蒼太は目を閉じた。不安は消えない。でも、一人じゃない。それだけで、少しだけ眠れる気がした。


壁一枚隔てた向こうでは、凛音もまた、同じ決意を胸に眠りについていた。


——そして、運命の日が近づいていた。凛音は美羽と対面することになる。三年間の想いをかけた、二人の女の対決が。

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