◆ ジェシカの軌跡9 記憶の蓋・郷愁
夜行性の獣が巣に帰り、早起きの鳥が目を覚ます。
いつもなら、私は鳥のさえずりで目を覚まし、先ずは耳を澄ませる。
この壁の外に、男の呼吸音があるかを確かめる。
その音が外へと出て行くのを確認した後、ようやく私も壁裏から這い出す。…そう、いつもならば。
その日は何か違っていた。
鳥のさえずりではなく、誰かの走り去る音で目を覚ました。
私はいつもの様に壁の中で息を殺し、いつもの様に耳を澄ませながら、部屋の中の呼吸音の位置を探した。
…何か、おかしい。
私は空の皿を抱えて、恐る恐る壁裏から顔を覗かせた。
罵倒も怖い怒鳴り声も聴こえない…静寂。
むせ返る様な鉄の匂いと朝の冷たい空気が混ざり合い、私の肺を満たす。
母と男が、水溜まりの中で静かに絡み合いながら眠っていた。呼吸音は無かった。
私の脳が覚醒した。
…心が震えた。世界に『色』がある事に気付いた。
たぶん…その時だろう。
産まれて初めて、私は『美しさ』を知った。
朝日に照らされた水溜りは赤く艶やかに、艶めかしく輝いていた。
とても綺麗だな…と、思った事を覚えている。
綺麗だったので触ってみたくなった。
私は床に拡がる水溜りにしゃがみ込んで両手をついた。
転がって遊んだ。頭から被ってみた。とても温かかった。
…初めて『母の温もり』を感じた。
時間を忘れて遊んだ。
いつの間にか二の鐘が鳴っていた。
…まずいわ…早くいつもの場所に行かなきゃ、怒られちゃう…。
私は、いつもどおりの習慣へと戻った。
いつもと変わらずに空の皿を持ち、
いつもと変わらない路地をひとりで歩き、
いつもの私の石畳に、ペタンと座った。
手脚に着いた『温かかったモノ』は既に冷たくなり、ベトベトと粘ついた。なんか…気持ち悪かった。
だから私は、目の前の石畳に両手を撫でつけ、『温かかったモノ』をこそぎ落とした。
いつもなら、私から目を逸らしながら通り過ぎるだけの大人達。
何故かその日は、ジロジロと私の事を見つめてきた。
皆が指差す。何かを囁く。
言葉は理解らなかったけれど、『嫌なこと』だけは理解った。
私は皿を持って立ち上がった。
戻ると怒られるかもしれないけど、あの大人達の目は嫌。
だから帰る事にした。
私は来た道を戻り、家へと向かう。
身体中に着いたベトベトが邪魔だったので、路地の壁でソレをこそぎ落としながら、家まで歩いた。
母は水溜りの中で寝ていた。
もう一度、水溜りを歩いてみる。
もう冷たくなっていた。つまらなかった。
私は諦めて壁裏の寝床に潜り込んだ。
空腹を紛らわせる為に空の皿を舐めながら、眠った。
突然、部屋中に大きな音が響き、私は目を覚ました。
壁が震えた。板を壊す怖い音が私の壁裏まで響いた。
私の寝所の板の割れ目が壊されて、光が差し込む。
大人達の顔が、目が、手が…壁裏の隙間に入って来た。私に何の断わりも無く。
何本もの手が伸びてきて私の脚を、私の腕を掴み、私を強く引っ張った。
私は壁裏から引きずり出された。
ああ…また殴られる…。
淡々と考えていた。恐怖は無かった。
大人達は私を取り囲み、何か怒鳴っていた。でも言葉を知らなかったから、何を言っているのかが解らなかった。
多分…良い言葉では無かったと思う。
私はそこで『心光』を視た。
その光源は一人の女性。
一際小さい背。なのに『光』は誰よりも大きかった。
その女性が大人達の間に割り込んで来た。
すぐに彼等の手から私をひったくって、強く抱き締めた。
大人達に向かって何かを叫んでいた。言葉の意味は解らなかった。
ただ私は、彼女の心音が『心地良い音色』だな…とだけ感じ、もっと聴いていたくて身を任せた。
私とその女性を見る周りの大人達は、困った顔をしながら唸っていた。そして黙って首を振り、小さくため息をついた。
ひとり…またひとり…大人達は帰って行った。
帰る際、眠ったままの母と男は袋に入れられ、運び出されて行った。
私はその光景を見つめながら、嫌な音の元が消えた事に安堵していた。
残ったのはオネエチャンと私だけ。
「今日から、アタシ達は家族だ!
アタシがお姉ちゃん。アンタは私の妹だよ!」
「…オネエチャン…?」
「そう!アタシはオネエチャン!アンタは可愛いアタシの妹!アハハ!」
そう言って、私に笑いかけた。
…家族…?妹…?可愛い…?アハハ…?
彼女の言う事、やる事、表情…。今迄、見た事のないモノばかり。
…よくわからないけど。
オネエチャンの奏でる『音』は好き。
それが、私とオネエチャンとの初めての出会いだった。
◆
母と同じ様に、オネエチャンも毎日身体を売っていた。
でも、母とは全然違った。
ご飯が『美味』しかった。
優しい『言葉』で話してくれた。
温かい『家族』を教えてくれた。
柔らかな『温もり』を教えてくれた。
そして…家族を増やしてくれた。
私達の食い扶持だけで精一杯。
なのに彼女は、捨てられた幼子を見つける度に連れ帰ってきた。
その度に、この子はアンタの弟よ、妹よ…と言って、嬉しそうにはしゃいでいた。
「アタシはもう子供が産めない。
でもね!アタシにはアンタ達がいる。家族がいる!
だから今、とっても幸せなの!」
そう言って、何度も何度も抱き締めてくれた。
幸せだった。本当に幸せだった。
生まれて初めて『人の幸せ』を知った。
でも、それが問題を積み上げた。その山は日増に大きくなっていった。
問題は…『ご飯』。
家族はどんどん増えるのに、食べ物が全然足りない。
オネエチャンの稼ぎだけだと、満足に食べられない。
一日一食だったものが、二日に一食…三日に一食…。
弟妹で分けられるご飯は、どんどん少なくなっていった。
私は自分の食い扶持だけでも稼ごうと思った。
以前みたいに、空の皿を持って通りに座った。
でも…いくら待っても、誰もパン屑すら入れてくれなかった。
ジロジロと見て、ヒソヒソと話して、時々石を投げつけられた。
私は…自分の食い扶持すら稼げない子供になっていた。
このままでは私たち、オネエチャンの荷物になってしまう。
だから私は弟妹達と話し合った。いっぱい考えた。
でも、子供の出来る事なんて高が知れてる。
そんな困っていた時、近所の大人が知恵を貸してくれた。
子供でも出来るお金の稼ぎ方を教えてくれた。
盗み、騙し、刃物で脅し、そして……
お金が足りないなら、多く持ってる人達から奪えば良い…と、教えられた。
当たり前だけど、それが悪い事である認識なんて無かった。周りの大人達の言う通りにやっただけ。
稼いだお金はほとんど取られたけど、ご飯が食べられる程度は渡してくれた。
おかげで私達のお腹は減らなくなった。でも、弟妹達の数は減っていった。
次々と死んだ。
盗みに失敗して殴り殺された。
騙した相手に水路に沈められた。
脅した相手に刺し殺された。
妹達は消えた。
目を離した隙に拐われた。
殺されたか、売られたか…わからない。
まだ赤子だった一番下の妹は、家に入って来た野良犬に食べられた。
私達に知恵を貸した大人達は、私達が死んでいくのを笑って見ていた。
目を逸らし、耳を塞ぎ。
文句を言った私達を、官憲の前に放り出した。
官憲は路上で私達を殴った。笑いながら、何度も。
気が付いたら、夜だった。
弟は冷たくなっていた。
私は泣きながら逃げた。
家族が次々と居なくなる。
その度にオネエチャンは狂った様に泣き叫んだ。
そしてオネエチャンも…。
気付いたら、私はまた一人ぼっちになっていた。
◆
突然、洪水の様に押し寄せた郷愁い思い出。
とめどなく涙が溢れ出した。
羨ましい…。これは嫉妬。
あの頃の私にキビシュみたいな…孤児を護ってくれる様な後ろ盾があれば…。
オネエチャンも、まだ…。
そして、私も……。
そんな、蜃の霧よりも儚い過去。
思い描いていたら、涙が止まらなくなった。
…落ち着け私。本分を忘れるな。
駄目。感情は弱さ。感覚が鈍る……
今は追跡中。魚を釣り上げるまでは蜃になれ。
蓋を閉じて、砂に潜れ。
長く息を吐き、心を落ち着かせる。
感情を圧し殺し、記憶に再び蓋をする。
鍵を掛け、重石を乗せる。
…私は水底の蜃。私は部品。私は歯車…
溢れていた涙はいつの間にか止まり、いつもの冷たい灰の瞳へと戻る。
私は感覚を研ぎ澄ませ、再度、中の様子を聴く。
ペトラと呼ばれた男の子は弟妹達を寝かしつけた後、再び出かける様だった。
…ボスに経過報告か。
チャプラ…とか呼んでいた奴かしらね。
次の魚には大きな釣針が付いている事を願うわよ?
暫くすると、色黒の男の子が着替えて出てきた。
周囲を酷く警戒しているが、相変わらず私には気付いていない。
私は感情を殺し、意識を深く鎮めながら、彼の後を追った。




