表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
51/55

◆ ジェシカの軌跡9 記憶の蓋・郷愁




 夜行性の獣が巣に帰り、早起きの鳥が目を覚ます。

 いつもなら、私は鳥のさえずりで目を覚まし、()ずは耳を澄ませる。

 この壁の外(部屋の中)に、男の呼吸音(いやなおと)があるかを確かめる。

 その音が外へと出て行くのを確認した後、ようやく私も壁裏から這い出す。…そう、いつもならば。


 その日は何か違っていた。

 鳥のさえずりではなく、誰かの走り去る音で目を覚ました。

 私はいつもの様に壁の中で息を殺し、いつもの様に耳を澄ませながら、部屋の中の呼吸音(いやなおと)の位置を探した。

 …何か、おかしい。


 私は空の皿を抱えて、恐る恐る壁裏(ねどこ)から顔を覗かせた。


 罵倒も怖い怒鳴り声も聴こえない…静寂。

 むせ返る様な鉄の匂いと朝の冷たい空気が混ざり合い、私の肺を満たす。

 母と男が、水溜まりの中で静かに絡み合いながら眠っていた。呼吸音(いやなおと)()()()()

 私の脳が覚醒した(ざわついた)


 …心が震えた。世界に『色』がある事に気付いた。

 たぶん…その時だろう。

 産まれて初めて、私は『美しさ』を知った。


 朝日に照らされた水溜りは赤く(つや)やかに、(なま)めかしく輝いていた。

 とても綺麗だな…と、思った事を覚えている。


 綺麗だったので触ってみたくなった。

 私は床に拡がる水溜りにしゃがみ込んで両手をついた。

 転がって遊んだ。頭から被ってみた。とても温かかった。

 …初めて『母の温もり』を感じた。


 時間を忘れて遊んだ。

 いつの間にか二の鐘が鳴っていた。

 …まずいわ…早くいつもの場所に行かなきゃ、怒られちゃう…。

 私は、いつもどおりの習慣へと戻った。


 いつもと変わらずに空の皿を持ち、

 いつもと変わらない路地をひとりで歩き、

 いつもの私の石畳(せき)に、ペタンと座った。


 手脚に着いた『温かかったモノ』は既に冷たくなり、ベトベトと粘ついた。なんか…気持ち悪かった。

 だから私は、目の前の石畳に両手を撫でつけ、『温かかったモノ』をこそぎ落とした。

 いつもなら、私から目を逸らしながら通り過ぎるだけの大人達。

 何故かその日は、ジロジロと私の事を見つめてきた。


 皆が指差す。何かを囁く。

 言葉は理解らなかったけれど、『嫌なこと』だけは理解った。

 私は皿を持って立ち上がった。

 戻ると怒られるかもしれないけど、あの大人達の目は嫌。

 だから帰る事にした。


 私は来た道を戻り、家へと向かう。

 身体中に着いたベトベトが邪魔だったので、路地の壁でソレをこそぎ落としながら、家まで歩いた。


 母は水溜りの中で寝ていた。

 もう一度、水溜りを歩いてみる。

 もう冷たくなっていた。つまらなかった。

 私は諦めて壁裏の寝床に潜り込んだ。

 空腹を紛らわせる為に空の皿を舐めながら、眠った。


 突然、部屋中に大きな音が響き、私は目を覚ました。

 壁が震えた。板を壊す怖い音が私の壁裏(ねどこ)まで響いた。

 私の寝所の板の割れ目(いりぐち)が壊されて、光が差し込む。

 大人達の顔が、目が、手が…壁裏の隙間(私のねどこ)に入って来た。私に何の断わりも無く。

 何本もの手が伸びてきて私の脚を、私の腕を掴み、私を強く引っ張った。

 私は壁裏(ねどこ)から引きずり出された。


 ああ…また殴られる…。

 淡々と考えていた。恐怖は無かった。

 大人達は私を取り囲み、何か怒鳴っていた。でも言葉を知らなかったから、何を言っているのかが解らなかった。

 多分…良い言葉では無かったと思う。


 私はそこで『心光(しんこう)』を視た。

 その光源は一人の女性。

 一際小さい背。なのに『光』は誰よりも大きかった。


 その女性が大人達の間に割り込んで来た。

 すぐに彼等の手から私をひったくって、強く抱き締めた。

 大人達に向かって何かを叫んでいた。言葉の意味は解らなかった。

 ただ私は、彼女の心音が『心地良い音色』だな…とだけ感じ、もっと聴いていたくて身を任せた。


 私とその女性を見る周りの大人達は、困った顔をしながら唸っていた。そして黙って首を振り、小さくため息をついた。

 ひとり…またひとり…大人達は帰って行った。

 帰る際、眠ったままの母と男は袋に入れられ、運び出されて行った。

 私はその光景を見つめながら、嫌な音の()が消えた事に安堵していた。

 残ったのはオネエチャンと私だけ。


 「今日から、アタシ達は家族だ!

 アタシがお姉ちゃん。アンタは私の妹だよ!」

 「…オネエチャン…?」

 「そう!アタシはオネエチャン!アンタは可愛いアタシの妹!アハハ!」

 そう言って、私に笑いかけた。


 …家族…?妹…?可愛い…?アハハ…?

 彼女の言う事、やる事、表情…。今迄、見た事のないモノばかり。

 …よくわからないけど。

 オネエチャンの奏でる『音』は好き。

 それが、私とオネエチャンとの初めての出会いだった。



 母と同じ様に、オネエチャンも毎日身体を売っていた。

 でも、母とは全然違った。


 ご飯が『美味』しかった。

 優しい『言葉』で話してくれた。

 温かい『家族』を教えてくれた。

 柔らかな『温もり』を教えてくれた。

 そして…家族を増やしてくれた。


 私達の食い扶持だけで精一杯。

 なのに彼女は、捨てられた幼子を見つける度に連れ帰ってきた。

 その度に、この子はアンタの弟よ、妹よ…と言って、嬉しそうにはしゃいでいた。

 「アタシはもう子供が産めない。

 でもね!アタシにはアンタ達がいる。家族がいる!

 だから今、とっても幸せなの!」

 そう言って、何度も何度も抱き締めてくれた。


 幸せだった。本当に幸せだった。

 生まれて初めて『人の幸せ』を知った。

 でも、それが問題を積み上げた。その山は日増に大きくなっていった。

 問題は…『ご飯』。


 家族はどんどん増えるのに、食べ物が全然足りない。

 オネエチャンの稼ぎだけだと、満足に食べられない。

 一日一食だったものが、二日に一食…三日に一食…。

 弟妹で分けられるご飯は、どんどん少なくなっていった。


 私は自分の食い扶持だけでも稼ごうと思った。

 以前みたいに、空の皿を持って通りに座った。

 でも…いくら待っても、誰もパン屑すら入れてくれなかった。

 ジロジロと見て、ヒソヒソと話して、時々石を投げつけられた。

 私は…自分の食い扶持すら稼げない子供(やくたたず)になっていた。


 このままでは私たち、オネエチャンの荷物になってしまう。

 だから私は弟妹達と話し合った。いっぱい考えた。

 でも、子供の出来る事なんて高が知れてる。

 そんな困っていた時、近所の大人が知恵を貸してくれた。

 子供でも出来るお金の稼ぎ方を教えてくれた。


 盗み、騙し、刃物で脅し、そして……

 お金が足りないなら、多く持ってる人達から奪えば良い…と、教えられた。


 当たり前だけど、それが悪い事である認識なんて無かった。周りの大人達の言う通りにやっただけ。

 稼いだお金はほとんど取られたけど、ご飯が食べられる程度は渡してくれた。

 おかげで私達のお腹は減らなくなった。でも、弟妹達の数は減っていった。


 次々と死んだ。

 盗みに失敗して殴り殺された。

 騙した相手に水路に沈められた。

 脅した相手に刺し殺された。

 妹達は消えた。

 目を離した隙に拐われた。

 殺されたか、売られたか…わからない。

 まだ赤子だった一番下の妹は、家に入って来た野良犬に食べられた。


 私達に知恵を貸した大人達は、私達が死んでいくのを笑って見ていた。

 目を逸らし、耳を塞ぎ。

 文句を言った私達を、官憲の前に放り出した。

 官憲は路上で私達を殴った。笑いながら、何度も。

 気が付いたら、夜だった。

 弟は冷たくなっていた。

 私は泣きながら逃げた。


 家族が次々と居なくなる。

 その度にオネエチャンは狂った様に泣き叫んだ。

 そしてオネエチャンも…。

 気付いたら、私はまた一人ぼっちになっていた。


 

 突然、洪水の様に押し寄せた郷愁(ふる)い思い出。

 とめどなく涙が溢れ出した。


 羨ましい…。これは嫉妬。


 あの頃の私にキビシュ(こいつら)みたいな…孤児を護ってくれる様な後ろ盾があれば…。

 オネエチャンも、まだ…。

 そして、私も……。


 そんな、(みずち)の霧よりも儚い過去(ゆめ)

 思い描いていたら、涙が止まらなくなった。


 …落ち着け私。本分を忘れるな。

 駄目。感情は弱さ。感覚が鈍る……

 今は追跡中。魚を釣り上げるまでは蜃になれ。

 蓋を閉じて、砂に潜れ。


 長く息を吐き、心を落ち着かせる。

 感情を圧し殺し、記憶に再び蓋をする。

 鍵を掛け、重石を乗せる。

 …私は水底の蜃。私は部品。私は歯車…


 溢れていた涙はいつの間にか止まり、いつもの冷たい灰の瞳へと戻る。


 私は感覚を研ぎ澄ませ、再度、中の様子(景色)聴く(見る)

 ペトラと呼ばれた男の子は弟妹達を寝かしつけた後、再び出かける様だった。


 …ボスに経過報告か。

 チャプラ…とか呼んでいた奴かしらね。

 次の魚には大きな釣針が付いている事を願うわよ?


 暫くすると、色黒の男の子(ペトラ)が着替えて出てきた。

 周囲を酷く警戒しているが、相変わらず私には気付いていない。


 私は感情を殺し、意識を深く鎮めながら、彼の後を追った。




 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ