◆ ジェシカの軌跡8 記憶の蓋・幼少
「ペトラ兄ちゃん!」
夜更けのスラム街、外にまで響き渡る甲高い声に、私は一瞬ギョッとした。
迎えに出た幼子の頭を撫でながら、はにかむ色黒の男の子。
骨格も、肌色も、人種も違う彼ら。
ひと目でわかる。血の繋がらない集団。
この辺りの孤児にしては破れの少ない良い生地の服を着ている幼子。肌艶も良い。
窓を覆う風除けの板戸には腐食穴が空いており、室内の明かりが小さく漏れている。こんな夜更でも蝋燭を灯せている。周囲の家は真っ暗なのに。
貧民街の中ではマシと思える程度のあばら家。
黒ずんだ板と新しい板が混在している屋根の上には、風で飛ばない様に重石が乗せてある。
左官仕上げの壁はボロボロ。大きく剥落し、下地が露出している箇所もチラホラ。しかし、そんな箇所には綺麗な板で上から補強されている。
素人修繕ではあるけれど、あちこち手直しされている。比較的まともな建材や釘を手に入れられる。つまり、金銭に余裕のある証拠。
普通、こんなに良い生活をしている孤児が居たら、周囲の大人達が襲わない筈がない。なのに、ざっと見た感じは平穏無事。
ペトラと呼ばれた、恐らくは稼ぎ頭の子が留守にしていたにも拘らず。
この家を護ってる大人が居る様子も無いのに。
…キビシュの威光か。少し意外。
子供を捨て駒に使う様な連中かと思っていたけど…
私は建物の傍らに積まれた廃材の隙間に身体を滑り込ませ、壁に耳をつけた。
薄いベニヤ板で補強されただけの壁。物音や声はよく通る。
…早くペトラ兄の手伝いが出来る様に…
…私、正教国の文字で…
…俺なんて、帝国文字で…
…凄いな、チャプラ姉の店で働けるかも…
…チャプラ姉ちゃん、大好き……
一…二…三…四……やはり大人は居ない。子供達だけ。
先程の男の子が弟妹達を抱き上げているのだろう。次はボクもボクも…と、幼子のねだる声が耳に残る。
仲の良い家族。ハッキリとした情景が頭の中に浮かぶ。
……ああ…、良いなぁ……
突然、私の直ぐ側から子供の声が聴こえた。
…え!?…なに?
咄嗟に武器を構え、周囲を見渡す。
気配を探るが何も感じない。誰かに見られている様子も無い。
その時、私の頬を水が伝い、ナイフを持つ手の上に落ちた。
手に溢れた水滴を見て、思わず目を見開いた。
「…涙?私の…?」
ずっと乾いていた感覚。疾うの昔に無くしたモノ。
蓋がズレて、厳重に仕舞い込んでいた地獄が漏れ出てきた。
血塊の様な甘い記憶と、糖蜜の様な苦い記憶。
オマリーに拾われるよりも、ずっと昔。
幼い頃に見た筈の実母の記憶。
オネエチャンに拾われた記憶。
共に生きて支え合い、そして…死んだ孤児達との温かい記憶。
あばら屋の孤児達を見て、聴いて、私の中の蓋が開いた。
◆
私は、産みの親の顔を思い出せない。
物心付いた後も、確かに傍に居た筈なのに。
母は娼婦だった。
路上ではなく、自分のあばら屋で客の相手をする部屋持ち娼婦。
一晩中稼ぎ、昼日中を寝て過ごす。
日が昇っている間、幼かった私は人通りの多い道端に転がされて、空の皿と一緒に置いていかれた。
憐れんだ人達によって、時々、私の皿に黒パンの欠片や腐った野菜くずが放り込まれた。
初めは泣いていた…のだと思う。多分。いつから泣く事を止めたのか……覚えていない。
泣いても無駄。水の無駄。
生きる為に覚えた筈の赤子時代の泣き方を、生きる為に忘れた。
夕方になると母が目を覚ます。
道端から私を回収して、私の皿に残っていたパン屑や野菜を、そこに集る虫と一緒に私の口の中に押し込んだ。
そして、その皿で濁った水を汲んで、私の口に押し当てて流し込んだ。これが私の一日の食事のすべて。
彼女は、私が死なない程度に食べさせてくれた。良い母だった…のだろう。
名前を聴いた覚えがない。顔も思い出せない…のだけどね。
母が連れてくる男は毎日変わった。どれが私の父かは…判らない。
そもそも父というのが、男というものが何なのか…まだ理解らなかったのだけど。
男達は、よく私を殴った。
視線を向ければ、殴る。
声を出せば、殴る。
髪を掴んで、殴る。
叩くと鳴る玩具だとでも思っているのか。
楽しそうに、笑いながら、何度も何度も…。
時折、固い物を投げ付けてきた。
頭を押さえて蹲る私を見下ろしながら、大声で話し掛けてきた。
頭がガンガンと痛んだ。胸が苦しくなった。吐き気がした。
…あれは私を罵っていたのだと、敵意を向けていたのだと、今なら理解る。
母は…、ただ眺めているだけだった。
表情は…思い出せない。
「なぜ…こ………すてないんだ!?」
何度か繰り返された男の言葉。
「こいつ…これ……かねづる…のよ……」
その度に繰り返された母の言葉。
意味は理解らなかった。
でも、嫌な感じのする言葉だとは理解った。
いつしか私は、男の来る時間は隠れる様になった。
裂けた壁板の隙間。小さな穴に身体をねじ込み、壁の内側に潜り込んで。
年の割には身体が小さく、痩せていたから簡単に出来た。
建物の柱に、加工してない丸太をそのまま使っている掘っ立て小屋だったお陰で、幼子一人が隠れられる程度の隙間はあった。
イタチやハクビシンが運び込んだ木屑や藁の山を布団にして、私は息を潜めた。
意識を鎮め、音を消して、気配を断った。
男にも、母にも見つからない様に。死体の様に動かずに。
母は…私が見当たらない事に、無関心だった。
私は夜が過ぎるのを待った。棚裏に隠れている油虫の様な気持ちで。
男が帰る音が聞こえたら、母に気付かれない様に気を付けながら、静かに穴から這い出す。
それを毎日繰り返した。
いつしか、私の寝床は壁裏になった。
ある日の朝、壁の穴から這い出ると、外の景色が様変わりしていた。
その景色の『美しさ』を見て、初めて私の世界に『色』が着いた気がした。




