第六章涙の輝き
家に着き、荷物を置くと、お酒とつまみが入った袋だけ持って、すぐに外に出た。彼女の家に向かって歩いた。きっと、彼女も家を出たら、俺の家に向かって歩いてくるだろうから、どこかで出会うと思っていた。彼女の家まで歩いたが、そこに彼女の姿はなかった。あんなに買ったのだから、時間がかかってしまうのは予想がついていたのに、なぜかもうそこで待ってくれている気がして、そこに居ないことはこれからもう来ないのではないかと不安になってしまった。この先どれだけ待ってもここに現れてくれないように思えてしまう。挙句の果てには、この世界は誰も居ないのかもしれないと思ってしまう。振り返って、家へ戻ったとしても誰も居なくなってしまっているのではないかと思ってしまう。
手の力が少しずつ抜けていることが、頭の隅で感じられていたが力を入れることができずにいた。もう少しで手に持っているビニール袋が落ちてしまうところで、目の前の家の玄関が開いた。そこで再び手に力が入り、ビニール袋を落とすことはなかった。彼女を見つけると、なぜそんなことを考えてしまったのかと少し反省したが、きっと疲れているのだと思うことにした。
彼女とこうして外で飲むのはいつ振りだろうか。さっき買ったかわいい部屋着を身に纏い出てきた彼女は、とても自慢気な顔であった。一緒に買って、持っていることなんてわかっていた。彼女がそうする可能性は充分にあった。少なからず、服を買う場面で彼女が着ている姿を想像したにも関わらず、実際に来た姿は想像以上であったことは言うまでもない。俺が贔屓目で見ているのを差し引いても可愛いと思ってしまうだろう。買い被り過ぎなのだろうか。俺にはそう見える。
遠くなった空はいくつもの光を放っていた。数を数えることすら諦めてしまうほどだ。大きいものから小さいものまで、星座のこととかそこに重ねられて語られている神話のこととか、俺も彼女も知らない。過去に一度覚えようとしたものの、興味が無いものは何回やっても成長することはなかったので、お互いの感覚に任せて話すことの方が多い。あの星が一番明るいとか、ちょっと暗いけどあそこにも星があるとか、そんな話になってしまう。
体内にアルコールを入れると、微かにだが空が近くなったような気がした。それでも子供のころのような近さは感じることができなかった。手を伸ばしても、あのときほど近く感じることができなかった。
「空、遠くなった?」
何でそんなことを聞いたのか、どんな答えが欲しかったのかはわからないが、彼女に投げかけてみたくなった。
「どうだろう。今は空より隣の距離の方が遠く感じるかも」
そう話す彼女の横顔を見ることはできなかった。声が震えていた。泣いているのだろうか。その時俺はどう対応すればいいのだろうか。こんなに近くにいるのに、距離を感じてしまっていることは、今日一日感じられなかった。言われてから気付いたのだ。幸せにすると言いながら、出来てない自分がいる。幸せにしようと思っていても、出来ていない。
肩が当たりそうなくらい近くにいるのにも関わらず、涙さえ拭ってあげられていない俺の存在は、彼女の人生でプラスに働いているのだろうか。一緒に居ることがマイナスになっていないのだろうか。この気持ちが彼女の言っていた、相手の幸せを想う気持ちなのだろうか。微かにそのような気がするが、どこか違ってしまうような気がした、やっと隣に居ることができるのに、彼女に触れられる距離に居てあげられるのに、このように思わせてしまうのは不本意でしかならない。今となっては物理的距離が近いこの時間は、彼女に幸せを感じていて欲しかった。それがただ、俺の我儘であるとしても、そうであって欲しかった。
動かない身体に何度も脳から指示を出た。手を伸ばし彼女に触れろと。今回は意図を持って触れた。彼女の頬に伝うその涙を手で拭う。それで泣き止むとは思っていないが。そうしてあげることで、少しは現状打破できるのではないかと思った。何か突破口が見つかるような気がした。実際に見つけられたのかはわからない。
「俺は今隣にいるよ。ちゃんといる。今だけじゃなくて、いつもいる」
彼女は空を見上げたままだったが、俺は彼女の横顔を真っ直ぐ見つめた。彼女が泣き止むことはなかったが、俺が涙を拭うこともなかった。それは諦めたからでも、彼女が俺の言葉で泣き止むと思ったからでもない。彼女の涙がどの星より輝いて見えたから。その輝きをずっと見ていたかったから。今、夜空に輝いている星たちが可哀想なほどに、彼女の涙も横顔も綺麗で美しかった。その涙が多少なりとも俺が関係していると思うと、どこか心が痛く、どこか愛おしく感じてしまった。
流れる涙が、重力に逆らうことなく時の流れを刻むと、彼女の手が動いた。涙を拭こうとしているのだ。どんな星よりも美しい涙を彼女は拭おうとしている。俺は反射的にその手を握ってしまった。突然のことで、彼女は目を丸くして俺の方を見た。俺が止めたせいか、溢れ出ている涙が、少し収まっていた。それはどこか寂しくもあり、その反面で泣き止んでくれたことに嬉しくもあった。
手を取り、彼女の動きを止めてしまった俺に、彼女は理由を望んだ目を、表情をしていた。どうして、なんで、どうしたの、なにがあったの。どんな言葉をかけたいのかはわからないが、理由を尋ねる表情に上手く言葉を見つけることができず、思わず目を逸らしてしまった。彼女の頬から一粒の涙が、一粒の結晶が零れ落ちた。視界の端でそれを感じ取ると、それをきっかけに自分の気持ちを彼女に話そうと思った。少し、ほんの少し考えて、俺の心に浮かび上がった感情を言葉にできるだけ荒く拙い言葉を溢した。少しばかりぎこちなくも、それが俺のできる精一杯の表現だった。
楽しかった一日、いつまでも見ていたい彼女の笑顔、子供らしいのにいつまでも大人なこと、そんな彼女が俺は愛おしく思えてしまうこと、それに加えて彼女の涙がどんな星たちよりも綺麗で美しく思えたこと。そこから始まり、胸の内に秘めていた俺の感情は止まることなく溢れて来るばかりだった。次第に自分でも気付いていない俺の気持ちを彼女と同じタイミングで知る。とめどなく溢れる気持ちに言葉を選ぶ余裕がなく、次第に言葉は荒削りでまるで小さな子がやっと話しているようだった。
すべてを話し終えると、彼女は突然と笑いだした。まるで、流行のギャグにはまっている女子高生のように、下品な言葉を覚えたての小学生のように。彼女が笑っている間、俺は戸惑うことしかできなかった。一緒に笑うほどなぜ彼女がこんなにも笑っているのかがわからなかったし、止めようにも止め方がわからず、先ほどとは一転した彼女の表情を見ているだけしかできなかった。
少し落ち着きを戻し、缶チューハイを一口飲むとすべてが収まっていた。笑いすぎて乱れた呼吸を戻し終ると、彼女は俺がしたように、彼女の中の俺について話してくれた。
地元に帰ってきてくれることがとても嬉しかったこと、何日も前から着るものや行くところを考えていたこと、いつでも俺のことを考えてしまうこと、それほど俺の存在は彼女の中で大きいこと、都会に行ってしまってなかなか連絡が取れず不安だったこと、実は友達に俺と別れて付き合ってくれと言われていること。
彼女の言葉は俺とは正反対に、元々文章を考えていたかのように綺麗だった。俺の拙い言葉と彼女の綺麗な言葉は、小学生の作文とベテラン作家ほどの差があった。それでも彼女の言葉は彼女自身の感情であり、彼女自身の本当の考えであることは信じて疑わない。疑う意味を見出すことができない。
自分の気持ちくらい相手がわかってくれているだろうとどこか怠慢になっていて、いざ蓋を開けてみると何も伝わっていないことを突きつけられてしまった。隠していたわけではないのだけれど、隠していたわけではないからこそ伝わっていると思っている。彼女の言葉を聞く前はわかりきってはいると思うが、と言う前提で自分の気持ちを彼女に伝えていたが、彼女の話を聞くと知らないことばかりだった。仕事のことや、付き合って欲しいと言われていることは知らないも同然だったが、連絡が取れずに不安だったことや、彼女の中での俺の存在の大きさは俺の予想をはるかに超えていた。
そこから、お互いの懐かしい話しや少し離れていた間のことを話した。思わずどうでもいいことまで話してしまったが、それはそこまで彼女に伝えることで、より分かり合えるような気がしたから。そこまでしないと、わかって欲しい部分も伝えきれてない気がしてしまったから。自分の心をさらけ出した後だったので、何を話すのにも自然と恥ずかしさはなくなっていた。
少しずつ減っていく缶チューハイが無くなるまでの時間はあっと言う間に思えた。飲み終わる頃にはお互いにほろ酔いになっていたと思う。いつでも会える距離に居た頃には、二人の時間がこんなにも特別だと思うことができなかった。付き合いたての頃も、友達の延長であって、これと言って特別な時間だとは思わなかった。本当は思っていたのかもしれないが、おそらく言い聞かせてそう思わせていただけで、ただの友達に過ぎなかった。
「都会はこんなに星は見えないよ」
「じゃあ、何が見えるの」
「部屋の明かりかな」
俺の言葉越しに彼女はどんな都会を想像しているのだろうか。きらきら輝いているように見えているのだろうか。俺が見ている景色は、それほど輝いていない。綺麗でもない。灰色の景色でしかなかった。俺からしてみると灰色の景色であっても、彼女にとっては灰色のキャンバスでしかない。彼女の持ち合わせている感情や感性で、キャンバスは綺麗な絵になっている。いつの間にか一瞬で。何に対しても色付けるのが上手い。昔からそうで、それが彼女の魅力のひとつでもあった。
話が途切れると、何となく空を見上げた。ここに帰ってきた日に見た夜空はとてもきれいだったのに、今はそれほど綺麗に感じることが出来なくなってしまった。綺麗なものを見たあとは、どこか霞んだものを感じてしまう。星が可哀想と言ってしまうのは、独りよがりなのだろうか。まるで世界が自分を中心にして回っているかのように思えてしまう。普段は一切そのようなことを思っていないし、思うこともない。だが、今この瞬間だけ、彼女がこうして改めて美しいと実感できたから、今だけ。
この世に写真では映し出すことができない美しさを見出してしまった。見つけてしまった。今まで美しいと思っていたものに、更なる美しさを発掘した。この美しさは誰かに伝わるものなのだろうか。俺一人の感覚なのだろうか。誰かにわかって欲しい、知ってほしいと言う感情はない。教えるほど、輝いていないものだと思っていないからだ。彼女の表面に見える美しさは彼女のほんの一部でしかなかった。たった一部が溢れだしているだけなのだ。彼女の小さい身体に収まらない程の美しさをどう表現したらいいのだろうか。彼女にとって特別な存在になって、やっと見つけることのできた、彼女の美しさと尊さ。この美しさは失われるべきではない。俺が触れて変えてしまってはいけない。
美しさが損なわれないように、守ってあげられる自信が唐突に薄れていった。俺がこれほどまで美しいものの扱い方を身に付けているとは、到底思うことができなかった。だが、手放したくない。子供のような我儘であることは理解している。それでも、彼女の美しさを一番近くで見ていたかった。見させて欲しかった。
いつの間にか月の位置も星の位置も移動していた。星が移動してしまっているのかなんてわからないが、月が移動したのだから、きっと星も移動してしまったのだろう、という安易な憶測に過ぎない。何十個もある星々の配置なの覚えてはいない。ただ、星とは言えない程大きく輝き、街灯がない地に明かりをくれるその月の存在は、誰の目にも星とは違うものとして捉えることができた。
それほどまで長く二人で居たのにも関わらず、中身が液体から空気になった缶はたった二本だった。お互いの間に二本。俺たちにはそれで充分だった。お互い余計な背伸びもしないで、できる範囲で最大限楽しんできた。これからもそうしていきたい。
ずっと空を見ながら話しているのも悪くはなかったが、近場を散歩しようと提案した。こんな田舎道が明るくないことは確かだが、そんな道ですら一緒に歩きたいと思った。俺が立ち上がるのに続いて彼女も立ち上がろうとしたが、一瞬考えて飲み乾した缶チューハイに手を伸ばしていた。「すぐ戻って来るからそのままでいい」と声をかけると、彼女は少し戸惑って俺の言ったことに従うことにしたようだった。
こんな田舎でこんな夜、この周辺のことも嫌と言う程知っているが、治安の良さは言うまでもない。ゴミをそこら辺に置いておくようなことはほとんど見ることがない。帰って来てからきちんと片づければ、少しの間だけであれば大丈夫なのは言わずとも知れている。
散歩と言ってもどこに行こうと目的があるわけではない。ただなんとなく、隣を歩いて欲しかった。俺の前ではなく、隣を同じ歩幅で。行先は俺が決めることができるが、歩幅も歩調も彼女に合わせる。彼女のリズムにそって、俺の足の赴くままに散歩をする。
きっと、近場を一周して戻って来るだけだろう。過去に彼女と何回かこうして散歩をしたことがあった。それはデートと呼んでいいものではないかもしれないが、お互いに昼間は時間が合わなくて、それでも会いたいときにはこうしていた。少なくとも二人でいる時間を作っていた。俺なりの心遣いだったのだが、彼女は感じ取ってくれていたのだろうか。言わなければわからないが、言うのが恥ずかしいこともたくさんある。
これからひとつずつ少しずつ微かにでも伝えていき、ちゃんと話せる日はやって来るのだろうか。想像できない未来がいくつも広がっているように思えた。自分が想像できないものもたくさんあるように思えた。そんなことを考えているだが、今はまだ先が見えずに、未来のことを考えることが不安に思えてしまう。暗く、何も照らされていない道を歩くかのように。
結局、歩いた道はいつも通りで、ただの散歩になってしまった。酔いを醒ますのにも、雰囲気を一変させるにもちょうど良かった。どこかいつもとは違った雰囲気だったものが、吹っ切れたような気がした。と言いつつも完全に戻ることはもうできない。だが、あくまでも良い意味での変化だ。今までにこのような変化はなかったと思う。あったとしても、気付くことのできないほどの微かな変化だったのだろう。
元の位置に戻ると再び座ることなく、お互いの家に帰った。微かにお互いの体温を確かめ、名残惜しそうに、だが何も言葉にすることはなく帰って行った。帰りたくないのはお互い同じ気持であったと思うし、それ故にお互いの体温を確かめたのだと思う。少しでも長く一緒に居たくなる。だから俺は振り返らずに家に入った。
彼女は振り返ったのだろうか。どう思ったのだろうか。彼女の後姿を想像する。もし振り返ったとしたらどんな表情をしているのか、想像してみた。悲しそうな顔、楽しかった顔、満足そうな顔、いろんな表情を想像してみても、そこから帰りたくなくなってしまうのは、確信を持つことができた。
家に帰ると、突然と疲れが身体を襲ってきた。久しぶりに一日動き回ったからだろう。決して嫌な疲れではなかった。むしろ充実感が溢れていた。このような疲れは長いこと感じていなかった。このような疲労であれば、毎日でもいいのではないかと思ってしまう。だが、このような日常が続いてしまえば新たな欲が生まれてしまうのだろう。結局はないものねだりなのだ。たまにこのようなことがあるからこそ、今日のような新たな発見が、新たな進展があるのだと思うことにした。
今日一日を静かになぞった。朝、このベッドで起きてから、こうして今、このベッドに戻って来るまで。行動をなぞり、感情をなぞり、風景をなぞり、彼女の今日一日の表情を静を丁寧になぞった。
合間に思い出すのは彼女の綺麗すぎるほどの涙だった。誰もあれほど綺麗な涙を流すことはできないだろう。なによりも美しく、なによりも儚く、なによりも愛おしい。あのまま残しておきたい気持ちもあったが、無くなってしまうものだからこそ、これほどまでに美しく感じることができるのかもしれない。わかっていながら、それでも取っておきたかった。切り取っておきたかった。そうして少しばかり綻んでしまってもなお、彼女から溢れ出た涙は美しいことに間違いないと思ってしまうから。
何回もあの映像を脳内で再生する度に、少しずつ劣化していってしまうような感覚もあった。少しずつ本来の姿から変貌していくようで、微かに自分で自分の記憶をすり替えてしまっているようで、例えるならばテープに録画した映画のようだった。それでも、それでもいい。何度だってあの涙を、それに負けている星々を脳裏で再生していた。かすれて映像が不鮮明になっていってしまうのがわかっていても、何回も繰り返すことを止めることが難しく、止めることができずにいた。
何回再生したころだろうか。いつの間にか眠りに就いてしまっていた。とても安らかに眠れていた。どこか落ち着きがなかったことを、その時初めて気付かされた。だからと言って過去を悔もうと思わない。ただ、今の幸せを噛み締めているのだ。過去と今、嫌だったことすべてが清算されてしまうほどに、幸せを感じている。




