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ガラスの境界  作者: 染井 綾
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第七章守りたいもの

 充実感と疲労感から、昨晩は思考を巡らせながら眠りに就いてしまった。寝る前も起きてからも、同じ映像が脳内で再生されている。きっといつまでも再生されてしまうのだろう。きっといつまで経っても、違う人を好きになっても、彼女のあのシーンは俺の中で永遠に特別なものであると思う。彼女のことが特別だからそう思うのではなく、そのシーンとの出会いは綺麗な自然の風景を目の当たりにしたときのようであり、そのシーンを思い出すときは映画の好きなシーンを思い出すことのようだ。

 着々と家を出る時間が迫ってきていた。部屋中に響く時計の音が、現実に俺を引き戻している。時計の音に急かされるように、俺は部屋を後にして、リビングに向かった。そこには当たり前のように、朝食が用意してあった。こうして、栄養バランスを考えてもらった生活をすることも、何かの度に挨拶を交わすことも、もうなくなってしまう。先日までの日常に戻るだけなのに、それがどこか寂しいものに思えてしまっている。

 朝食を済ませて、部屋に戻り忘れ物がないか確認しつつ、家を出る準備を始めた。ここへ来るときより、荷物の量を増やしてしまったことに微かな後悔をしている。これが普通なのだろうか。ずっとこの地で育っていて、帰省と言うものに無縁だった俺は、どっちが普通なのかを知る術がなかった。これから、こうして帰る度に持ち物が増えて帰るのかもしれないと思うと、不思議な感覚だった。この地へ引っ越しをすることではなく、一時帰宅として、次回のことを考えてしまっていた。まだ、この生活に慣れていない。

 忘れ物も確認し、荷物を持って玄関で靴を履いていると、後ろから母親が話しかけてきた。お昼用にお弁当を作ってくれ、俺に持たせてくれたのだ。照れくさくも、心の底から嬉しさが込み上げてきた。お弁当を食べるのは高校生以来だと思う。もしかしたら、高校生のときはそれほど食べていなかったかもしれない。反抗期で嫌がっていたような記憶がある。自分に都合の悪い記憶は薄くなってしまっている。

喜びにより、緩む顔の筋肉を母親に悟られてはいけないと思い、どうにか隠しているが、隠しきれていないことが自分でもわかる。その表情のまま、ありがとうと伝えると、母は自慢気で嬉しそうに笑っていた。その顔をみたのはいつ以来だったか。いつからか、しっかりと母親の顔を見なくなってしまっていたことに、今やっと気が付いた。そのまま家を出ようと思っていたが、少しばかり後悔を残してしまいそうで気がかりになってしまった。履きかけた靴を脱ぎ、もう一度家に入った。

母親は俺の行動を見て、不思議そうな顔をしていた。こんなことを面と向かって話すのはなぜか、くすぐったく思えてしまい、母親の隣を通るときに、父親に挨拶し忘れたと伝えると「部屋に居る」と嬉しそうな声で教えてくれた。きっと、さっきの笑顔に上乗せして、嬉しそうな顔をしているのだろう。そのことさえも分かってしまうほど、嬉しそうな声だった。大人になるにつれて、何となく会話をしなくなった父と息子のことを密かに気にかけてくれていたのだろう。この歳になって、和解と言うほどのことでもないが、再び話すようになってくれたことが、母の声を明るくしていた。

父親の部屋を俺が自らの意志で開けるのは、何年ぶりなのだろうか。そういえば、いつから扉を開けなくなったのだろうか。小さなころは毎日のように開けていた。むしろ閉ざされているイメージがなかった。家の中でも、父親の後を追いかけていた。夕飯を食べ終わると、自分の部屋に行く父親の後を追い、一緒に部屋に入って行っていた。中でたくさん話をして、たくさん本を読んだり、一緒にゲームをしたりしていた。

 その時の扉は自動ドアのように重さを感じさせなかったが、今目の前にあるこの扉は鉄のように重く硬いものに感じられる。ノックをしても向こう側に届くかわからないと思い込んでしまう。部屋の前で、一呼吸置いた。緊張でもなければ、不安でもない。強いていうのであれば、戸惑いかもしれない。帰ると告げるだけ。最低限の目標。ただ、帰る前に一言添えることが、こんなにも難しいことだなんて思っても居なかった。子供のころは何でも話していた。話さなくていいことも、何でも事細かにはなしていたのに。

扉をノックすると、中から微かに声が聞こえた気がした。もしかしたら、気のせいかもしれない。俺の中の願望が、そうして欲しいと言う気持ちが、声が聞こえたように思い込ませてしまっているのかもしれない。それで返事がなくても扉を開いていいのは、家族だからなのかもしれない。

扉を開けると、中で窓の方に背を向け、椅子に深く腰をかけて、本を読んでいた。何の本かは確認できなかったが、俺が小さい頃もそうしていた。子供のころの俺は、その隣で漫画を読んでいた。そうして少しずつ、あの頃の記憶を奥底から引き出す。そして、今見ている映像と重ねてみる。

俺の父親はこんなにも痩せ細っていなかった。俺の父親はこんなに背中が曲がっていなかった。俺の父親はこんなに顔や手に皺が多くなかった。俺の父親はこんなに白髪が多くなかった。

そうして、違いをひとつひとつ確かめていた。いつの間にか老いてしまった父親から目が離せなかった。部屋に入ってきた俺を一瞬見ると、本に目を戻していた。こうして、俺の言葉をゆっくり待っているのだ。家族ならではの雰囲気や理解なのだろうか。暗黙のルールなのではなく、そうしてくれているのだとわかる。

 もう東京に帰ることだけ伝えた。反応を期待してはいなかった。ただ、伝えて帰るつもりだった。じゃあ、とさよならを告げようとする前に父親の口が開いた。

 「少し時間はあるか」

 机の上に置いてあった栞を本に挟みながら、話しかけてきた。

 「うん。まだ少しくらいなら余裕がある」

 早めに出ようとしていたこともあり、時間には余裕があった。俺のその言葉を聞くとゆっくりと手をつき、立ち上がった。そのまま本棚に直進し、何かを探していた。本棚を左から右へ、手で確認しながら、何かを探していた。ゆっくり探す姿を見ていることしかできなかった。その手が止まったのは、ほかの本とは変わらぬ、ただ一冊の本だった。その本を手に俺の元へ歩いてきた。俺は普段本を読むことがない。本への知識や流行は全く知らない。

 父親はその本を俺に差し出した。その本は、名前も聞いたことない本であった。有名な本なのか、父親の趣味なのか。

 「暇だったら読んでみるといい」

 差し出された本を拒否する意味もなかった。そして、少なからず俺はこの本に興味を抱いてしまった。小さなころ、いつまでも父親の後ろを歩いていたし、父親の姿を追いかけていた。今の俺はそうなのだろうか。それを否定してしまうと、今の自分も過去の自分も否定してしまうことになる。と言うことは、今でも父親を追っているのだ。

 本を手に、感謝の言葉とまた来ると言う言葉を残し、父親に背を向けた。俺のその背中に「おう」と言う小さな返事と「無理しすぎるなよ」と言う言葉を投げかけてくれた。不覚にもその言葉によって、俺の目には涙が浮かんでしまった。子供が父親を感動させて泣かせる話はよくあることだが、逆に父親が子供を感動させることはあまり聞いたことがない。だが、感動させられてしまった。

 部屋を出るときの扉は、入ったときとは別物のようだった。子供のころほど軽くはないが、入ってきたときほど重いものでもなかった。次に帰ってきたときも、今日のように重いと感じてしまうのだろうか。そして、帰るときは少しでも軽くなっているのだろうか。そうして、次第に軽くなっていくことに淡い期待を抱いてしまう。

 父親の部屋を後にし、玄関に向かい歩き出す前に、そっと涙を拭った。母親に気付かれたくないからだ。こんな歳にもなって泣いていると思われたくなかった。もし、俺がひとりで居たら、流れる涙を止めることはなく、声を上げることもなく静かに泣き続けていただろう。父親の言葉がとても嬉しくて。

 玄関に行く途中で、母親が俺の足音に反応して、リビングから出てきた。俺の手に持っている本を見るなり、楽しそうな顔になっていた。母親はこれが何のことかわかっているのだろうか。知らないのは俺だけなのだろうか。困った顔をしていると、それに気付いた母親が少し話をしてくれた。

 「お父さんね、最近ずっと本読んでるの。ゲームとかしなくなったのは確か、あなたが高校生くらいのころからだったかしら。それで、一冊読み終わる度にこれはどうだって話をしてくれるんだけど、気に入った本があると、いつもあなたの名前を出すのよ。あいつが読んでも面白いって言うかなって。小さな頃みたいに、一緒に楽しみたかったんだと思うのよ。きっと何冊も何十冊もある中から選んでくれたのよ。だから」

 母親のその後の言葉は言わずともわかる。読んであげてみて欲しい。もし、苦手な本であっても。父親が一生懸命選んだ本だから。

 「うん。わかってる。どれだけかかっても読んでみるよ」

その事実を聞いて、さっき拭って隠した涙が再び現れてきそうになっていた。俺が見なくなった日から今日まで、父親は俺を見てくれていた。俺が見ていても、見ていなくても、父親は見ていてくれていた。さっき部屋で見た父親の姿が脳裏に焼き付いて離れなかった。 この本を見る度に思い出すのだろう。父親の後姿と、母親の笑顔、それに加えて母親のこの言葉は、読む前のこの本に込められてしまった。先入観なしに本を読むことなんて難しいと思うが、この本は違う意味での先入観ができてしまった。

玄関に向かい、バッグの中に丁寧に本を仕舞った。すぐ出せる位置に。いつでも読めるように。改めて靴を履き、母親に別れを告げようと思い、向き直した。なぜか顔を向けて言わなければいけないと思ってしまった。次に帰って来ることができるのはいつかわからないし、この本のこともあり、なぜかそうしていた。俺がさようならを告げる直前で、俺より少し早く、母親の口が開いた。

「いってらっしゃい」

 家族のあたたかさを感じてしまった。母親は偉大だと思った。偉大でないことがなかったが、今回ばかりは敵わないと思ってしまった。俺より一枚ではない、何枚も上手な母親は息子の俺が言えたことではないが、良い女だと思う。その人を嫁にもらった父親は幸運だと思うが、父親もそれに見合うほど良い男だ。きっと付き合ったころから、お似合いのカップルであり、周囲からもそう言われていたのだろう。

 ふと、その姿に俺と彼女を重ねてしまっていた。俺たちはこんな関係になることができるのだろうか。何年経っても何十年経っても、喧嘩をしても子供ができても、子供が巣立っても、このように寄り添っていけるのだろうか。その答えが今すぐに出ることがないのはわかりきっているのだが、考えてしまう。

気付かぬ間に目に涙を浮かべてしまっていた。母親にそのことを知られるのは、この歳にもなって恥ずかしく思えてしまう。きっと母親も気付いてくれているが、気付かないふりをしてくれているのだろう。

「いってきます」

さようならと言いかけた俺の口は、母親の一言により、いってきますに変わっていた。それを聞いた母親も、満足そうな顔で俺を見送っていた。玄関を開け、外にでるまで振り返ることはしなかった。こんな頼りない顔を見せるわけにはいかないと思ってしまった。子供のころはあんなに素直に泣いて、何度も慰めてもらっていたのに、見栄を張るように涙は見せられなくなってしまった。

外にはもう既に友達の車が待ち構えていた。運転席から、軽く手を挙げてにこやかに挨拶をしてきた。いつ見ても陽気なやつだ。そして、そんなやつにこんな顔を見せてしまった。ダメと言うほどのことではないが、どことなく気まずくなってしまった。運転席に座りながら、面白いものでも見たような顔をしていた。後ろ座席に荷物を置き、助手席に座ると「別れが寂しくなったか」と楽しそうに聞いてきた。「そんなんじゃねぇよ」と返すと、視界の端にニヤリと笑みがこぼれているのがわかった。

詳しいことは何も聞かずに、車を発進してくれた。こいつのいいところは、踏み込んでいいところと踏み込まずにいてくれるところの境目がしっかりしていることだ。それの証拠に発進してしばらくすると、彼女のことについて聞いてきた。

「可愛い彼女にはちゃんと会ってえたか」

「もちろん、せっかく来たのに会わずに帰るなんて考えられないね。お前と会ってて彼女と会ってない方がおかしいね」

「大親友に向かってそんな言い方かよ。遠回りしまくって電車乗らせねぇぞ」

「俺の大親友はすごく優しい人だからそんなことしないんだけどな」

 駅に着くまでの間、そんな冗談交じりの会話ばかりしていた。常に笑いながら駅まで行けたのは、多少なりとも気遣いがあってのことだったのだろうか。兎にも角にも、さっきの涙はどこかへ飛んで、すっかり笑顔で元通りに戻ってしまっていた。

 

 駅に着くといつも通りの静けさだった。誰も居なくて、自然の音だけが耳に届いた。前回、こうしてここから出発しようとしたときと、同じ場所だとは思えないほどの静けさだ。立ち尽くしていると、後ろから声をかけられた。

 「寂しいか」

 「んなことねぇよ。」

 思わず出た強がりだった。寂しくないわけがない。ここに戻ってから、短い間にいろんなことがあった。あの都会の灰色の地では起こりえなかった。これほどまで多方面に感情が動かされることばかりだった。この地に舞い戻って来たら一体、何が起こったのだろうか。どんな些細なことですら、悲しんだり感動したり楽しんだりしていた。引っ越しの前は、毎日がこんな感じだったのだろうか。それが日常だったのだろうか。今となってはどのようなものだったのかすっかり忘れてしまった。

 現実は常に冷静で、時の流れは時に残酷に感じてしまう。時の流れに感情や優しさがないことは充分わかりきっていることであり、あるとすら思っていないが、あまりにも冷酷すぎた。俺の気持ちも、彼女の気持ちも、両親の気持ちも、会わなくなった友達の気持ちも、全く知らないどこかにいる誰かの些細な気持ちも、誰にも影響されることなく同じだけ流れていく。そのことが当たり前であるのだが、とても残酷で、とても冷酷である。

 電車も同様にして、残酷に時の流れを伝えるように駅にやってくる。空気を切って、独特の音を奏でながら、何もかもを巻き込むようにやってくる。俺はそれに従うしかないのだ。逆らうことも影響を与えることもままならない。どうにかしようとしても無駄な足掻きであって、そうしてみても何も変えることができない。わかっていることであっても、この状況下に置かれる度に自分に襲いかかる虚無感は、避けることも受け止めることもできない。その虚無感に対して立ち尽くすことしかできない。

 何の抵抗もなく、俺はまたしても電車に乗り込んだ。少し前のあの日と同じように乗り込んだ。状況は少しでも変わっているのだろうか。変えることができたのだろうか。きっとそれがわかるためには、もう少しばかり時間が必要だと思うが、答えを追い求めてしまう。

 四度目のこの道筋、二度目のこのルートにも少しばかり慣れてきていた。早くも慣れてしまっていた。道筋やルートに慣れたと言うより、こうしていつもより大きい荷物を持って、ひとりでの移動になれたのかもしれない。短いとは言い難いこの距離を、なんとなく時間を潰しながら過ごしていけるようになった。

 この成長は少なくとも悲しい成長に思えてしまう。この距離がいつか当たり前になってしまうのではいかと、さらなる悲しみを覚えてしまった。前回と違うことと言えば、電波が届く範囲のうちは、いろんな人と連絡を取っていたことだ。前回はそんな余裕がなかった。

 連絡を返している間は、一人で居る感覚はなかった。返事をしてから、また返信が届くまで、ひとりであることを思い知らされる。隣に居る人はただの他人で、知り合いではない。近くに人がいるにも関わらず、俺はひとりでいる。現実の差違が微かに俺の感情を動かしている。動かされた感情は行き場を失い、行き場を探すために、また自ら感情を動かすことしか出来なくなってしまう。

 都会の何もない家に着くころには、体力的疲労より精神的疲労が勝っていた。

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