第五章アイスクリーム
いつの間にか眠りに就いてしまった俺を起こしたのは、太陽の光でも、目覚まし時計でもなく、リビングから漂う美味しそうな朝食の匂いだった。家に着いてそのまま眠りに就いてしまったのだろう。着替えすら済んでいない姿が目の前にはあった。外向きの服はとても息苦しい。昨晩はそれさえも考えられない状況にあったのだと思うと、またその世界に引きずり込まれそうな気がして、唐突に考えることを意図的に遮断した。
リビングへ向かうと、母親は着替えていない姿の俺を見て、風呂場へ催促した。怒ることも呆れることもなく、先に風呂に入るように催促しただけだった。風呂に入っている間も、何かを考えてしまいそうな脳を止めることで精一杯だった。何も考えないと言うのはなかなか難しいものがあった。それであっても、何も考えないということを考えている方が幾分か楽な気がした。
身体の汚れを洗い流し、リビングに身体を向かわせると美味しそうな匂いは次第に強くなった。それほど長い間実家を離れたわけではないのに、とても懐かしいような感覚が俺の中を駆け巡っていた。この感覚は何なのだろうか。その思考を遮るように母親が話しかけてきた。その会話は自然なもので、まるで毎日俺がここで朝ごはんを食べているかのような口振りだった。
朝食を食べながら、異世界に戻らなければいけない時間が近づいていることに気が付いた。刻々と近付いているその時間が、以前より怖くも嫌でもなくなっている自分がいて、まるであの時とは別人になってしまったのではないかと不確かな事実に不安を抱えていた。電車の時間を調べて、今日中には実家を出る準備をしようと思い立ち、携帯を目にすると、昨日から携帯を見ていないことをメールの着信時間が知らせていた。昨日の夜、それもそれほど遅くない時間に彼女から連絡が着ていた。朝食を食べながらだったので、開くのは食べ終わってからにすることにした。開いてからすぐに返信をしたい。そう思ってしまうのは目に見えていたので、目の前にある食事を先に済ませることにした。
ごちそうさまと言う言葉は。作ってくれた人に言うのか、食べ物に対して言うのか、ここまで食べ物を育てたり加工したりしてくれたりする農家や工場の人に言うのか。どれが正しいのかは、この歳になってもわからないままだ。とりあえず、今は朝食を作ってくれている母親に「ごちそうさま」と告げた。食器を台所に持っていく。後片付けを全て済ましたことを確認すると、することもないので部屋に戻った。
部屋に向かいながら、携帯で彼女からのメールを確認した。内容は何の取り留めもなく「飲み会、楽しんでる?」と言う一文だけだった。急ぎの内容ではなく安心した。昨日返信していないことを先に謝るべきか、それとも昨日の飲み会の内容を軽く話すべきなのか。
歩きながら画面を睨みながら、部屋に入った。考えつつベッドに向かうと、窓からコンコンと何かがぶつかる音がした。いきなり鳴った音に驚きつつ、窓に目を向けると、そこには画面越しに繋がっているはずの彼女がいた。きっと今、俺は可笑しな表情をしている。驚いたような、嬉しいような、悲しいような、安心したような顔。それを鏡で観なくてもわかるのは、彼女がそこで笑っているからだ。人の顔を見て、楽しそうに笑っている。まるで小学生みたいだ。もしかしたらそれ以下かもしれない。
人の顔で笑っている彼女をそのまま笑わせておくのは癪で、すぐに窓に近づき勢いよく窓を開けた。
「どうしたんだよ、急に」
不機嫌を装い、彼女に感情を悟られないように話しかける。あくまでも不機嫌を装う。これは何のためでもない、ただ自分を守るためだ。俺のプライドがそうさせているだけで、そうすることに特に意味はないのかもしれない。
「昨日メールしたのに返ってこないし、ちょっと気になったから来たのに。むしろお礼を言って欲しいくらいだよ」
彼女は拗ねた顔をして、冗談半分でそう話してくれた。ひとりの時間がありがたいことになくなった。ひとりでいると、昨晩のようにいろいろと答えの無い思考を繰り返してしまう。確証はないけど、きっとそうだ。昨日、お酒を飲み過ぎて酔ったからではないと思っている。そんな風に思えてしまうのも、そんなこと考えたくないと思っている自分の弱さを痛感してしまう。嫌なことで知る自分ほど、真実味を帯びているものはない。自分が目を逸らしていたからこそ、こうして目の前に提示されると嫌になり、その中で僅かながらの光を探し求めてしまう。限りなく微かな光でさえも、まるで太陽のように大きく見えてしまう。大きく見えるのではない。大きくあってほしいと言う願望がそうさせているのだろう。少なくとも俺の場合はそうであり、他人がそうなのかはわからない。これから知りたくもないし、知る必要性もない。
今の俺にとって、その微かな光は彼女なのかもしれない。昨晩も今朝もそう思っていなかったのに、今になってそう思えてしまった。目の前に自然に振る舞っている彼女は、何か察してそうしているのか、何も考えずにそうしているのか。答えはわからない。その真相はいずれ、遠い未来で知ることができるのだろうか。その真実を俺は知りたいのだろうか。彼女の笑顔は自然であってほしい。いや、自然に違いないのだ。
「ねぇ、今日暇だったりしない? 買い物しに行こうよ」
無邪気な笑顔と言うのか、人の顔を見て楽しんでいる笑顔と言うのか、どちらにせよ楽しそうな顔を崩すことなく彼女は提案してきた。買い物に行くのに否定はなかった。今日は特に用事もなかった上に、お土産を買って帰らなければいけないと思っていたからだ。お土産と言っても、会社に人数分と余分に少し買っていくだけでよい。それ以外の人と繋がりがないから、お土産の必要性も渡す相手も思い浮かぶ人も居ない。あとは、自分が欲しいもの買い物をしたりするのだろう。ほとんどの時間を彼女のウィンドウショッピングの時間に費やされるのは、言わなくてもわかるし、それが苦痛でないが故に文句を言うほどでもない。
買い物に行くための準備は十分とかからないので、そのまま彼女には待ってもらった。母親に車の使用許可を取ろうとしたが、彼女が彼女の車で行くと言ったので、外出する旨だけ母親に伝え、家を後にした。
彼女の車に乗るのは、そう違和感を覚えなかった。こうして彼女の横に座ることに、懐かしさを覚えた。この前だって、隣で歩いた。この地から出る時は隣に座っていた。そこにあったその存在はいつも物理的距離より、はるか遠くに感じていた。今こうして隣に座っている彼女が隣に居ると感じられるのは、どんな心境の変化なのだろうか。どのような方向への変化かはわからないが、彼女の存在を彼女の中に認識できるほど、俺の心境が変化したことは確かなのだろう。
彼女に行き先を尋ねると、少し離れた大きいショッピングモールまで向かうそうだ。都会で住むようになってから、ショッピングモールに行かなくても間隔を空けずに店が立ち並んでいる。その光景はまるで、押し込められているようだった。部屋の押し入れに入れられている段ボールの山を思い浮かべてしまう。箱の中は種類毎にわけられ、ひとつひとつが己の色や匂いを持っていた。それと同じように、都会の店も押し込まれているが、店ひとつひとつの主張は確かにそこにあった。
そこにあると頭では理解しているもの。そしてそこに本当に存在しているもの。なぜか突然に確かめてみたくなった。本当に触れられるのか、触れていいのか。俺が何を考えているかわからない。どのような感情が、どのような思考が俺に働きかけてそうさせたのか、覚えているようで、自覚しているようで、どこかぼんやりとしてしまっている。視界の片隅に見える俺の腕は彼女を求めているのか、彼女の存在を求めているのか。何を求めてその手を伸ばしているのか、確かな答えはどこにも存在していなかった。彼女に触れた先に答えがあるのかもしれないが、その時に出た答えは本当に自分が求めている答えなのか。様々なことを考えてしまう。
俺の手は、彼女の首に触れた。白くて、透き通っている彼女の肌はそこに存在した。彼女は俺が触れたことに一瞬、驚いた顔をした。ほんの一瞬だけだった。その瞬間が過ぎ去ると、笑顔に戻った。驚き混じりの笑顔。お互いに何も言わなかったが、お互いに何か感じるものがあり、俺はどこか寂しさを覚えた。懐かしいような、寂しいような。
彼女に触れた手は二の腕から、頬に伸びていた。きっと薄くだが化粧もしているのだろう。素肌でも綺麗な彼女の肌。薄くでも化粧をしているのは、勿体ないと思っている。以前、伝えたこともあったが「女の身だしなみ」と言って彼女が化粧をやめることはなかったが、それ以来、化粧をする頻度が減ったような気がした。俺の気のせいかもしれないし、希望に彼女が応えてくれたのかもしれない。はたまた、そんな願いが叶ってほしいと言う俺の脳が、そう錯覚させているのかもしれない。
都会の女の人は、化粧をしている。彼女が化粧をしているのかしていないのか、ほとんど曖昧なくらい薄く色付けるのに対して、都会の人は派手に化粧をしている。高校生ですらしている人もいるし、中学生で既に化粧をしている人がいると言う話もどこかで耳にした。化粧で蓋をしている都会の人は、誰もがみんな綺麗だ。綺麗になるために化粧をしていると言ってしまえば、確かにそうなのかもしれない。綺麗にならないのならば、化粧をする意味がなくなってしまう。世の中の人はこんなにも綺麗なのか、と錯覚してしまうほど、綺麗に蓋をしている。本当のことは知りたくないと思ってしまうほど。中身がどんなものであろうと自分に合うような上品な蓋を選んで、自分がなりたい理想の蓋を選んで、綺麗にそれを被せることができる。それがとても上手い。少しお酒が入ったくらいでは、その蓋は開けられないだろう。
そんな人たちばかり見ていると、今日の薄い化粧を施している彼女の顔は、何も載せていないも同然だった。その壊れそうな、すぐ傷ついてしまいそうなものを包み隠さずさらけ出している。今までどれほど傷ついてきて、どれほど守られてきたのか。考えてしまうが、考えたくない。今も昔もこれからも守っていくのは俺でありたかったし、もし彼女を傷つけてしまうのが俺自身の存在であるのならば、今すぐ消え去りたいと思ってしまう。
彼女の頬に触れた俺の手は、行き先に迷っていた。今、俺は彼女をどんな目で、どんな表情でみつめているのだろうか。彼女の目に映る自分を見ても、判断できなかった。この表情を、この行動をどのように感じているのか知りたい。言葉ではなく、感覚として。彼女が怖がっていたり恐れていたり、マイナスの感情が芽生えてしまっているのならば、今すぐこの手を離して、冗談を言って笑顔を、楽しい雰囲気を再現し、作りだして見せるし、もしこの手に愛情だったり、安心だったり、プラスの感情を芽生えさせることができたのならば、俺の我儘でもう少しだけ、あとすこしだけこうさせていて欲しかった。あと数分、数秒、一瞬だけでも。
この数秒間で彼女は何を考えたのか、どのような感情をいだいたのか、どうしたかったのかはわからないが、柔らかく温かい手が俺の手の上に添えられた。まるで、それを待っていたかのように、彼女の頬から離れることのなかった俺の手が、ゆっくりと離れていった。俺のこの手に何が込められているのか、俺さえもわかっていないのに、彼女は何かを察してくれたのだろうか。言葉にならない感情が俺の中を巡っている。何を伝えれば、この気持ちはすっきりするのだろうか。どのような言葉を当てはめれば、この気持ちが差異なく彼女の心に伝わってくれるのだろうか。
俺自身でもどんな顔をしていたのかだなんて、わかりもしなかった。彼女の瞳に映る俺を見ようとすると、どうしてもモヤがかかったかのように、掴みどころがなく、見えそうで見えない。自分の表情を確認したいと言う気持ちがあるわけではない。どちらかと言うと確認しなくてもいいものだと思っているが、自分の表情から自分の感情が少しでもわかるのではないかと、微かな興味と不確かなものを確かなものにしたい気持ちが、心の奥底から湧き上がっている。
確認する前に彼女の視線が俺から離れていき、身体は後ろに引っ張られた。彼女の発信はいつも急だ。何かに急ぐ必要もないのに、彼女の見た目とは裏腹に運転は少し荒々しい。少しと言うのは、荒々しいにも関わらず安全は確保されているので、多少いい加減なところがあっても、隣に大人しく座って居ようと思える程度だからだ。
目的地に着くまで、彼女は実に自然体だった。まるでさっきの出来事なんてなかったかのように自然に話しかけてくれ、いつも通りの運転だった。これが俺の彼女なのだ。
俺が少し取り乱した程度では動揺せず、いつも通り接してくれる。そうしてくれているうちに、俺の中でずれた思考のパズルが少しずつ戻っていく。彼女はそれをひたすら隣で待っていてくれている。いつも通りにして。俺にいつもと違うことを案じさせるだけで、指摘も焦りもしない。きっとこうしている間にも俺の中でずれた何かが戻っていっているのだろう。少しずつ、微かに。完全に戻るのにはどれくらいの時間を要するのか、自分でもわからない。そして、きちんとパズルがしっかりはまった頃には、きちんとはまったことなんて気づきもしない。また、次に外れた頃に思い出すのだ。これがただの円を描いているだけなのか、螺旋階段としてきちんと成長できているのかは誰にもわからない。
何気ない会話の中で、彼女が音楽をかけ始めた。彼女が好きなアーティストの曲だ。俺の車ではほとんどかけることのない曲。この曲を聴くと、彼女と居ることを改めて実感できるし、彼女のことを思い出す。
友達が聴いていたとしても、この曲は俺の中で彼女のものであった。その子が好きなアーティストは、彼女と一緒のアーティストと言う認識になるのだ。歌詞なんてろくに覚えてもいなくて、音程なんてもっと覚えていないけれど、こうして久しぶりに聴くと懐かしさがこみあげて来る。故郷に帰るのとはまた違った懐かしさだ。
目的地に着くや否や、彼女のはしゃぎ具合と言ったらまるで子供のようだった。仕事が休みであればいつでも来ることができるにも関わらず、こうして楽しんでくれているのは、少なからず俺と一緒であるからだと思いたい。その楽しさの一因に、自分の存在が含まれていて欲しい。俺のこの願いは高望みなのだろうか。
俺のお土産等の買い物は後回しにして、彼女の買い物から始めることにした。あんなに楽しそうにしていると、どこまでも我儘を聞いてあげたくなってしまう。甘やかし過ぎなのだろうか。誰かに沿う注意されても、引き止められても俺はこうしてしまうと思う。彼女の楽しそうで幸せそうな顔を見るとどうしてもそうしてしまう。
買い物に付き合っていると言いつつも、俺の買い物も同時にしてくれている。こんな服を着て欲しいとか、あの服買い替えてこっちにしなよ、とか彼女を中心に買い物は進められていたが俺は楽しかった。俺の意志なんて関係なくなるほど楽しさが俺にも伝染していた。こんな彼女の言動は、俺が彼女を特別な存在にしようとした内のひとつでもある。自分が楽しむことで周囲を巻き込んで楽しむことができることは一種の才能であり、誰にでもできる事ではないと思っている。もし、これがいろんな人に普通に備わっているとしても、彼女を選びたいし、彼女を選んでいると思う。それ以外の彼女を生成している要素を見ていても、彼女は俺の側に居て欲しい人であり、彼女の側に居たいと思ってしまう人だ。
ただひとつ、彼女の意見で理解し難い部分がある。彼女は「好きな人が幸せならば、自分の側に居なくても良い。自分と一緒であることが彼の幸せであるのなら、それは何にも代えがたい己の幸せである」と言う。自分の幸せを赤の他人に重ねることは、どれほどの心持ちが必要なのか。ましてや、好意を持っている人がその対象と言うのは、難しいことのように思える。俺は好きな人の側に居たくて、俺の側に居て幸せでないと感じていても幸せにしてあげたい、これからそうすると考えてしまう。比較すればするほど、心の成熟度は彼女の方が断然上手のようだ。俺から見ても、第三者から見てもきっとそうだろう。
久しぶりの買い物はとても充実していた。特別なことは何もしていないがとても楽しく、とても充実していた。あっちに行ったり、こっちに行ったりと忙しそうな彼女の後姿を追って、少し離れると気にかけて振り向いてくれる彼女の笑顔が可愛らしく思えた。この笑顔にいつも幸せを感じていた。幸せを感じ、愛おしく思えるようになった今、こうして一緒に居たいと言う言葉を彼女に投げかけるだけで、もしかしたら毎日この笑顔を見ることができるかもしれないという欲が生まれてしまう。世の中の男性は自分の想い人にこのような感情を抱き、結婚と呼ばれている道を選んでいるのだろう。
あっちこっちとはしゃいだ彼女は充分疲れた様子だが、まだ元気が残っているかのように元気が残っている様子だった。俺はずっと彼女と、父親と娘の様に買い物をしていたのにも関わらず、彼女の方が元気で、俺の方が疲れてしまっている。これではまるで、本当の父親と娘のようだ。それでも可愛くて最後まで付き合ってしまうのも、そのイメージをより一層、彷彿とさせる。娘のようだと思えば思うほど、そうであればよかったかもしれないという微かな思いが心の隅に募っている。ありえないこととわかりながら、異次元の可能性に幸せを感じている。娘のような可愛さと俺の疲れが相まって、アイスクリームでも買って少し休憩をすることにした。
アイスクリームを食べる頃には、ほとんどの買い物は済んでいた。俺のお土産の買い物も彼女の服の買い物も。まだ足りないものは、俺の服だと言われた。都会ではそんなに私服に困ってない。どこも出かけることもなければ、おしゃれして誰かと会うわけでもない。それでも彼女は必要だと言った。あの服を捨てて、こっちの服にしよう。と何着も勧めてきたが、何となく話を流していた。俺には新調するつもりがないのだ。彼女の押しに負けたのも半分だが、決め手は彼女の一言だった。
「私がそっちに行ったときに、綺麗な恰好でデートしたいじゃん」
少し不貞腐れた彼女の顔で、デートの言葉を重ねられ、俺の心はもう既にその言葉によって、彼女に差し出されていた。但し付けとして、彼女が勧めている全ての服を買うわけにもいかないので、数着に抑えてもらうことにした。
彼女自身のものを悩みつつ、俺のものも考えることができるのは器用だと思えてしまう。女の人は誰しもこんなに器用にいろんなことを考えているのだろうか。女の人の思考も複雑で分かり難そうだが、女心はもっとわからない。男同士の感情ですらわからないものがあるのに、女の人の感情や考えていることとなると、余計にわからなくなる。とてつもなくややこしく、それを考慮して生活することは今以上に負荷が重すぎる。
それにも関わらず、俺は彼女に惹かれてしまう。彼女と一緒に居たいと思ってしまう。そんなややこしい負荷さえも取っ払ってしまうほどに、俺の心の中に占めている彼女の割合が多いのか、それとも本能的に異性に対してそのような感情が沸くようにしているのか。渦中にいる俺には正常で、冷静な判断を下すことは容易いことではなかった。容易いことではないが故に、判断を下すことを諦めた。この問題下に居ない人間であっても、僻みや妬みと言ったさまざまな感情が影響することは考えるまでもないかもしれない。
彼女の笑顔は、誰にも渡したくなくて、ずっと俺の隣に居て欲しいほど愛おしく感じてしまうほどで、このまま電車に乗って、飛行機に乗って、孤独な俺の側に居て欲しいと思わせていた。そんなことを今すぐに叶えることができないことは明らかで、そう簡単に実現させられることではないことはわかりきっているにも関わらず、たらればばかり繰り返してしまう。今はもうお互いの生活リズムが出来上がってしまっているのだ。
彼女はアイスクリームをどんな子供よりも美味しそうに食べている。いつまでたってもいい意味で子供なのだ。彼女が食べ終えるのを待ってから、再び買い物に出かけた。さっきは彼女がする彼女への買い物だったが、今度は彼女がする俺への買い物だ。家の近くには何があるとか、どんな部屋に住んでいるとか、都会の人はどうとか、いろんなことを聞きながら彼女は服を選んでいた。俺が住んでいる空っぽな街に彼女はどんな色を付けて、どんな理想を描いているのだろうか。そんなにいいものではないよ、と声を掛けてみても、耳を傾けることなく楽しそうに彼女の想像が盛り上がる一方だった。
灰色の景色にどんな色を付けて、どんな鮮やかな街を思い描いているのだろうか。その景色の中にいる俺と彼女はどれほど溶け込めているのだろうか。俺だけ浮いてしまっているのではないのだろうか。彼女が洋服を選んでいる姿は、その差を埋めてくれているような気がした。俺が都会に住むよりも、彼女が都会に住んでしまった方が、何十倍も今を楽しんでくれると思う。俺が都会に行ったことに何の意味があるのだろうか。
何件も店を周り、やっと決めた彼女は、いつも以上に、自分の買い物以上に満足そうな表情を浮かべていた。「絶対着てね」と何度も念を押されたが、残念ながら彼女がこんなに一生懸命時間をかけて、悩んで選んでくれたものを箪笥の肥やしにするほど、俺の彼女に対する気持ちは小さいものではない。
たくさん買い物し過ぎたこともあり、帰りがすっかり遅くなってしまった。夕飯は適当に済ませることにした。どちらかの家で食べる選択肢もあったが家に帰るまで距離もあったので、二人だけ外で済ませてしまうことにした。帰りの運転もあるのでお酒は飲まずご飯だけ食べ、多少のお酒を買い車に向かった。
交代で運転することが暗黙のルールになっているので、帰りは俺が運転した。隣で話す彼女に「飲みたかったら先にお酒飲んでいいよ」と促すと、肯定も否定もせず袋の中から何かを探していた。袋の中は確か、缶チューハイと少しのつまみ、あと少し彼女が何か入れていたかもしれない。
探していた何かを見つけた彼女は、袋を元の位置に戻していた。彼女の手元から聞こえた音は缶を開ける音と、炭酸が抜けたプシュという音だった。彼女はお酒があまり強くない。同様に俺も。けれど、お互いにお酒は好きなので、毎日ちょっとずついろんなお酒を飲んで楽しんでいた時期もあった。そのようなことをしていたのは、そう遠くない過去のはずなのに懐かしいもののように思えてしまっている。都会に居る間は、独りで飲むことはほとんどなくなった。最初の数日は飲んでいたが、二人で楽しく飲むことを知ってしまった俺には、孤独を感じるものでしかなかった。
缶を開けてから車内に沈黙が続き、エンジン音だけが響いていた。お互いに何を考えているのかはわからないが、それもまた居心地が悪いものではなかった。赤信号で車を止め、ふと彼女の様子を見ると、手に持っていたのは缶チューハイではなく、炭酸の缶ジュースだった。
「先に飲んでるのかと思った」
そう言いながら、彼女の手から缶ジュースを取り、一口もらうと何もなかったかのように彼女の手に戻した。
「お酒だと酔っちゃうよ」
それもそうか、と言葉にせず納得していた。信号が青になり、取り留めない話をしながら家に戻っていった。




