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ガラスの境界  作者: 染井 綾
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第三章 空との距離

 メールのやり取りは何回だったか、どんな内容だったか、相手はどんな顔をしてその文章を打ったのか、どのような感情をそこに込めたのか、どのようなことを伝えたかったのか。短い文に込められた、彼女の欠片をあらゆる角度から知ろうとした。どこかに彼女の気持ちが込められているのではないか、どこかに彼女はキーワードを込めて、何かを伝えようとしているのではないか。不確かなその気持ちが俺を画面に夢中にさせていた。何がこんなにも気がかりで、どんなものを期待しているのかなんて自分には到底わからなかったが、彼女は俺の中で特別な存在であり、彼女の中で俺は特別な存在でありたかった。

 彼女との数回のメールのやり取りは全て記憶した、記憶したと言うより、記憶してしまうまで何度も読み返した。仕事中も電車の中でも移動中でも、どこかに彼女の存在と彼女からのメッセージが頭のどこかに付いてまわっていた。まるで恋でもしているかのようだった。片思いのようだった。彼女と付き合う前もこんな感じだったのだろうか。当時の俺はまだ幼く、こんな感情を恋と呼び、この感情を愛おしく思っていたのだろうか。

 帰省までの仕事の進捗は、驚くほどに順調だった。何が俺を突き動かしたのではない。仕事とプライベートをここまで離して考えることができるとは思っていなかった。少なからず影響が出る予定だった。いや、少なからず影響は出ていたと思う。だが、思ったより影響がないことに驚いている。もしかすると、俺は彼女のことがそんなに好きではないのかもしれない。仕事と恋愛、どちらが大事と言う話ではないが、相互の影響は少なからずあると思っている。それがないが故に、自分の気持ちに自信が持てなくなってしまった。

 仕事が長引いてしまったら、帰省の話はなくなっていた。そのような話ならもしかすると、帰れなくなってしまうのではないかと言う不安もあった。やってみると、意外と仕事は順調に進み、難なく休みをもらうことができた。誤算が良い方に働いた。おかげで準備の時間も想像以上に確保できたし、連絡も取りやすかった。

 生まれた地に向かうまで、何を考えどうしようとしていたのか。考えているようで考えていなかった。少し考えてもそれ以上の否定、その後の行動への不信感が募ってしまう。俺はこれから彼女とどうしたいのか。これからと言うより、今どうしたいのか。離れていても彼女として対応することも充分に可能だったにも関わらず、俺は友人として、恋人のような特別な対応をしない方を選んだ。いや、選んだと言うより踏み込むことが怖かったのかもしれない。踏み込んだら決定的な決断を選ばなければいけなくなってしまう。その責任を俺自身が負わなければいけないことを気付いてしまった。そうするのが怖かった。自分の判断に自信を持てなかった。言い訳は簡単だった。理由探しも簡単だった。ここまですらすらと出てきてしまうほどに、俺は弱かった。彼女はこんな弱い俺でもよかったのだろうか。彼女の側にいることのできていた俺は、もう少し強くいられていたのだろうか。

 次第に窓の外に映る景色は、見慣れたものに、懐かしいものになっていった。コンクリートやビルによって染められていたグレーの景色は消えていき、目に優しい緑が増えていった。そして、人それぞれの車の色が点々と単色の道路を色付けていた。景色が見慣れたものになるたびに、懐かしさは増し、それに比例するかのように心のざわめきが募っていた。まるで、初デート前のように、喧嘩の後の通学路のように。

 飛行機の時間も新幹線の時間も電車の時間も彼女に伝えておいた。そこに淡い期待と、微かな下心を乗せて。来ないかもしれない。もう、会ってくれないかもしれない。そんな思いばかりが頭をよぎる。ずいぶんと弱くなってしまった。心の弱さとは不安からくるものなのか、寂しさからくるものなのか。何もわからないが、何かが弱くしていった。

 故郷の駅はこんなにも古かったのか、こんなにも人が少なかったのか、こんなにも小さかったのか。思うことはたくさんある。こんなことは思わなくても気にしなくても考えなくても良いが、何かの不安を隠すために、他の何かを考えなくても良くなるように、駅の細部にまで目を向けてしまう自分がいた。

 着いてしまったからには、家に向かわなければならない。重い脚を動かし、改札へ向かった。そこに人が居るのかどうかはわからなかった。駅員ですら居るのかわからない。一歩、また一歩と近づくに連れて、俺の心臓は時が進んでいることを、改札に近づいていることを訴えていた。

 もし居たら何を話そう。もし居なかったら何て連絡しよう。もし居たらどんな顔で会おう。もし居なかったら、いつ会ってくれるだろうか。そんなことを交互に考え、俺が俺自身の精神を消耗していた。そのことは、誰に言われるでもなく明らかだった。自分が一番よくわかる。

 改札に人影があった。あれは誰だろうか。もしかして迎えに来てくれたのだろうか。次第に近付く俺を真っ直ぐ見つめているようだった。俺を待ってくれていたようだった。

 「おかえり」

 愛おしい声が俺の鼓膜を震わせた。聞きたかったあの声。俺に向かって発して欲しかったあの声。俺にだけ向けて欲しかったその笑顔。「ただいま」と告げる俺のその表情は、どんなものだったか。ちゃんと笑えていたのだろうか。ちゃんと届いていたのだろうか。彼女が向けてくれたすべてに対して、俺はそれ以上のものを返せていたのだろうか。ありがとう、ごめんね、寂しかった、会いたかった、全ての意味を込めた「ただいま」だった。彼女はどれほどの気持ちを込めて「おかえり」と声を掛けたのか。どれほど前から待ってくれていたのか。複雑ないろんな感情を込めて、発してくれたのだと思うと、何もかもを知ってしまいたくなってしまった。全てが俺の妄想で、俺だけの勘違いかもしれないが、それでもよかった。こうして受け入れてくれることが何よりも嬉しく、何よりも視界に捉えておきたいものだった。

 どんな話をしようかだなんて、やはり俺の中では答が出ていなかった。答を出す以前に考えてすらいなかったのかもしれない。近くに居てあげられた時は、どんな話をしていたのだろうか。仕事の話だったのか、自分の話だったのか、話を聞いてあげていたのか。思い出そうとすると、焦りばかりが募り、思い出すのに時間を要してしまった。その間も、隣でそっと待っていてくれている彼女に気付くと、居心地の良さを実感するばかりだった。

 「最近、仕事は忙しいの」

 必死に考えて出した言葉がこれだった。もっと言うべきことはあったはずだった。会いたかった気持ちを伝えたり、今まで恋人のような連絡を取ることができなかったことの言い訳をしたり。話すべきことはたくさんあっても、話せるようなことは数が少なかった。恋人というエリアに入ることに戸惑いを覚えてしまったからなのだろう。今まで避けてきた環境に踏み入れることの怯えは、何か新しいことを始めるものより強かった。

 「今まで通りだよ。職場が変わったりもしてないからね。あ、でも新しい仕事を任せてもらえるようになったよ」

 彼女はいつも通りだった。いつも通りであり、以前のままだった。何も変わらずにそこに俺の居場所を作ってくれていた。苦し紛れに振った仕事の話であっても、新しい仕事の話を何の躊躇いも、何の文句もなく話してくれていた。そこから彼女が伝えようとしている感情の欠片を見つけることはできなかったが、彼女は俺に何かを伝えようとしていたのだろうか。彼女の仕事環境は特に変わった様子はなかったが、期待されているのも変わらないようで、つまりは変わらず忙しいようだ。

 カップルらしからぬ会話を彼女はどう感じているのか。彼女も触れないでいた方が良いとも思っているのか。それとも、何も考えていないのか。これが、もしかすると以前と同じ空気感なのかもしれない。人の思い込みで、実際にそうでないことも勘違いしてしまうことがある。その現象が起こってしまっているだけなのかもしれない。

 駅から家までの距離は、そう近くはない。わざわざ迎えに来てくれた彼女の優しさが、いまさらながらに身に染みる。彼女の感情や気持ちの読み取りが上手くいかなくなって、物理的距離に反して俺の手に届くことはない気がしてならなかった。近くにいた時は、あんなにも気持ちを感じ取ることができたのに。どうしてあんなにわかっていたのだろうか。どうしてあんなにわかった気になれていたのだろうか。近くにいた時にわかっていたと思っていた彼女の感情は、どれほど上手にくみ取って、どれほど上手にサポートしてあげられていたのだろうか。

 駅から家までの道のりは何となく、近況報告で終わってしまった。そんなに長く離れていたわけでもないのに、お互いの生活状況を事細かに話していた。都会は緑がなくて、グレーばっかりの景色だとか、あんなに人が多いのに人と人が知り合いでない方が圧倒的に多いだとか、家は思ったより小さいが一人で暮らすには住みにくくない広さだとか、お風呂が狭いとなかなか疲れが取れないとか、そんなことを話しているうちに色んなことを聞いて欲しくなってしまった。都会では無口であんまり話さない生活をしていたのに、こんなにおしゃべりな自分のギャップに自分自身が驚いていた。どんなにどうでもいいことを話したところで、彼女は笑顔で聞いてくれていた。結局、彼女の話を聞いたのは最初だけだった。全て話し終る頃には、もう家の近くまで辿り着いていた。

「あっちは、大変なんだね。でも、楽しそうでよかった」

そう言う彼女は笑っていた。俺に向けて笑っていた。

「う、うん」

返事をするだけで精一杯だった。だが、それだけで終わってしまってはいけない気がした。

「迎えに来てくれてありがとう。しばらくこっちに居るから」

メールでも伝えたことなのに、また強調するように口にしてしまった。彼女は「うん」と返し「おばさんによろしくね」と付け加えた。お互いに帰ると言っても道路を挟んだ向こう側に帰るだけだ。

家に着くと家族は温かく迎えてくれ、夕飯が用意されていた。都会に住んでいて、ありがたいことに食べるものには困らなかったが、そこにこだわることもなかった。母親の料理は喉に通りやすく、俺の身体には何の抵抗もなかった。こればきっと幼いころから食べ慣れているからなのだろう。好き嫌いがないと言うと嘘になってしまうが、嫌いなものは大人になるにつれて少なくなった。久しぶりに家族で囲む食卓の温かさと、食事の美味しさは一度離れてみないとありがたさも温かさもわからない。

俺の部屋は家を出る前のままだった。何も変わっていない。そんなに離れていないのにとてつもなく懐かしく感じてしまっていた。机の引き出しを開けた時の懐かしさ。居心地がいいと言った方がいいかもしれない。ここに俺の居場所があるとわかっていても、近くにないのはとてつもない寂しさをどこかに感じてしまう。どこに何を入れておいたかなんて、忘れているはずもないのに、確認しておきたくなった。

どのくらいの時間、その行動を続けていたのだろう。机から始まり、押し入れも何もかも開けていたかもしれない。自分の気が赴くままに手を動かしていた。窓の方から、コンコンと何かがぶつかった音が鳴った。そっとカーテンを開けると、彼女がすっかり部屋着に着替えてしまって、窓の外でニコニコしていた。そして、窓を開けて彼女を入れようとすると「こっち」と言ったように俺を手招きし、外に連れ出した。あの時と同じように。

あの時は外に出るにはこっそり窓から出ていたが、今では体の大きさ的にもう不可能なことが多い。この歳になった今では夜、陽が見えなくなってから外に出ていても親から心配される必要がない。そのことも含めて、堂々と扉から出るのは大人になった気分だった。

部屋着の彼女は駅で会った時より、砕けていたように思えた。外向きの雰囲気ではなかったからだろう。外に出ると、自然とあの頃座ったのと同じ場所に座った。あの時は大人になったら空に近づけると思っていたし、もっと空が近くなると思っていた。だが、今となっては空も空に浮かぶ星も手が届かないものと知ってしまって、距離なんてファンタジーなことは考えなくなってしまった。むしろあの頃より何倍も遠く感じてしまっている。いつからこんなに遠くなってしまっていたのだろう。

隣にいる彼女も、いつの間にか遠くに感じてしまっていた。今、隣で座っているように見えて、本当に隣に座っているのか疑問に思ってしまう。あの日を再現するかのように、お互いに何も口にせず空を見上げていた。何も言葉を交わしていなかった。それでも当時の俺たちはコミュニケーションが取れていたような気がしていた。今の俺はそんな気持ちがなくなってしまったのだろうか。この瞬間、コミュニケーショが取れているような気が俺にはしなかった。そこに彼女が座っているのも本当にこれが現実なのか、俺が描いている夢ではないのかと、疑ってしまうほどに。

 静かに手を伸ばすと、彼女の髪に触れた。そこに彼女は存在していた。俺が触れると彼女は驚いていた。それを見て、反射的に手を引き、謝ってしまった。何か悪いことをしてしまったような気がした。彼女に触れることに、こんな勇気が必要だっただろうか。何もかもが俺の中で動いてしまった。何もかもをあの鉄の箱が連れて行ってしまった。全てをそこにぶつけることで、少しだけ気が紛れたような気がした。少なからず自分のせいではないと思い込ませるのに、精一杯だった。彼女のためではない、俺のためにそうしていた。そんなことはわかっていたことなのだが、彼女よりも自分を優先してしまっていた。そのことに気付かないふりをしていた。頭の片隅にある気持ちに気付かないふりをして、さらにその上に見えないように蓋をしてしまった。

 俺が反射的に謝ったら、余計に困った顔をしていた。何を伝えたかったのか、何をしたかったのか、触れてからそこに彼女が実在したら何をしたかったのか、実在しなかったらどうしていたのか、後先考えずに手を伸ばしていた。困惑して、パニックで、何を話せばいいのかなんて何もわからなくて、そんな俺は一体どんな顔をしていたのだろう。

 「今日の月は丸くないね」

 彼女の方が俺より何倍も大人に見えた。先ほどまで俺に向けられていた驚いた表情なんか、どこかへ消え去り、空を見上げる横顔だけが俺の視界に広がっていた。彼女もあの日を覚えていてくれていたのだろうか。今、思い出してくれたのだろうか。俺と同じように、懐かしい気持ちに浸っているのだろうか。

 「虹もないね」

 そう伝えたいと思った。その言葉なら彼女に投げかけられると思い、口にした。彼女は微笑んでくれた。その微笑みが同じ記憶を、同じ思い出を共有できた合図のようで嬉しかった。俺の中で何回も反芻したこの記憶を、隣でこうして再確認したようで。記憶のアルバムの同じページが共有されているようで。学校で先生がその日の授業のページ数を指定し俺たちが言われるがまま、そのページを開いていた学生時代のように、お互いの思い出の同じものがあるページを開いたのがわかった。

 「でも、きれいだよ」

 今日の空は、お世辞にも綺麗とは言えなかった。雲がまばらに空を覆っていて、その隙間から見える月や星を確認するのが精一杯だった。

彼女の感性はとても女性らしかった。男らしい性格とは正反対だ。決断力もあり、肝も据わっていて、何より人を動かす力がある。彼女の感性は女性そのものだったが、彼女の表向きの顔はとても男らしかった。俺はそんな彼女に惹かれ、今も惹かれ続けている。

 「雲ばっかりだよ」

 俺の性格はきっと女の子らしいかもしれない。いろいろと余計なことまで心配してしまう。何もかも余計なものを付加価値として無駄に付け加えてしまう。でも、感性はきっと男なのだろう。見たものしか信じられず、奥行きを考えられず、深さなんてもっての外。毎回、彼女に言われて、説明されて気づかされたり、考えさせられたりすることが多い。

 「どんな空を見るかが大事なんじゃなくて、誰と見るかも大事なの」

 ほら、またこうして彼女に女性の感性を教えられる。そうか、気持ちの問題なのか。確かにそうかもしれないが、楽しいとは思えても、きれいと表現するのは俺の現実的な脳には、到底考えられるものじゃないほどに難しかった。こういうものは、一生考えても、何度教えられても身に着くものではないと知っている。だが、こうした話もまた楽しく感じてしまう。この空気感がたまらなく好きなのだ。

 「綺麗かどうかはわからないけど、俺は楽しいよ」

 普段、こんなことを言う人だっただろうか。もっと遠回しの表現をしていたのだろうか。今は隣に存在している彼女に、俺自身の気持ちを伝えたかった。無駄な装飾や回り道をする意味を感じられなかった。むしろそれにより、受け取り方の婉曲が起きることをひどく恐れて、怯えていた。どんな言葉も、今なら素直に伝えるべきだと思ってしまう。どんな恥ずかしい言葉でも言えてしまいそうな気がする。言えるなら今、言わなければいけない気がする。

 「都会の方がよかったりするのかな」

 彼女は俺の顔を見ようとせず、真っ直ぐに空を見上げていた。どんな表情を隠しているのだろう。どんな感情を込めた声色を隠しているのだろう。その声から溢れている、隠しきれない感情は不安だった。溢れた感情の中で、俺がくみ取れた感情は不安だけだった。どんな言葉を期待しているとか、どんな言葉なら彼女が傷つくことがないなど考えても、余計に彼女を不安にさせてしまうと思った。

 「俺は早く戻って来たい」

 素直な気持ちだった。彼女が喜ぶとか、彼女の不安を拭い去るとか考えて発することなんてできずに、俺の気持ちを素直に話すことを選んだ。考慮していないのではなく、彼女は俺の気持ちを包み隠さず話せる相手だからだ。彼女もまた俺に対してそうであって欲しい。そういう存在でありたい。

 「よかった。都会の方が住み易そうだから。それと」

 そこで少し彼女の言葉が詰まった。何か言葉をかけた方がいいのか、彼女が口を開くのを待っていた方がいいのか。考えるまでもなかった。おそらく気持ちと言葉が一致しているか確認しているのだ。言うか戸惑っているのではなく、どのような言葉で伝えればいいのか、考えているのだ。彼女が続きを話さずに終わる、と言う結末はきっとない。それなのに俺が途中で言葉を挟んでしまって、言わなくなる結末の方がお互いに望まない結末になってしまう。

待っていると、彼女の答えはすぐに出た。

「気持ち的にも遠くに行っちゃった気がして」

 気持ちの遠さなんてこれ以上離れたくなかった。離れて欲しくなかった。これ以上離れると、修復する術を俺は知らない。今でさえ、修復する術がなかなかわかっていないのにも関わらず、これ以上になってしまうと、俺には手に負えなくなってしまう。

 「たまに、電話してもいいかな。忙しかったら出なくていいから」

 都会で借りている家を出た時より、心の余裕ができた気がした。一歩引いて、彼女に入っていきやすい、彼女が受け取りやすい言葉を選ぶ余裕ができている。

 「もちろん。その方が嬉しい。離れてから知ったけど、メールって何か苦手かもしれない。こう、文字だけで硬い気がするの」

 今まで俺が感じていた距離感は何だったのだろう。と心の中に落ちてきた。こうして話している間、あっという間に以前のような空気感を取り戻すことができた。空気感をどう変えるかなんて、どうやって以前のように戻しかなんて全くわからないが、俺と彼女の間にはこんな空気が一番似合っていると感覚的に思った。言葉に表すのは難しい。

 その後の時間はあっと言う間だった。空を見上げながら、時々言葉を交わした。特に内容があったわけでも、筋が通った話でもない。思いついたことを思いついたままに話した。それはこれからの大切なことだったり、これからに全く関係ないようなどうでもいい話だったり、忘れることのできない懐かしい思い出だったり、とても記憶に残らないようなどうでもいい話だったり、様々だった。会話が続くこともなく、途切れることもなかった。


 家に着いたのは何時ごろだったのだろうか。すっかり家庭の温かさも消え、俺の足音だけが家中に響いていた。彼女が帰った家もきっとみんな寝ていて、俺と同じようなことになっているのだろう。

 家に帰り、ベッドに身を投げ入れると突然、瞼が重くなり、寝るまでに時間を要すことはなかった。安心して寝られるのはいつ以来なのだろうか。仕事をすることなくゆっくり過ごせたからなのだとうか。移動に疲れてしまったからなのだろうか。住み慣れた家で、寝慣れたベッドだからなのだろうか。彼女との意思疎通ができて安心できたからなのだろうか。考える間もなく眠気に身を任せ、朝を迎えるまではまるで一瞬のようだった。

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