第九十二話 人生は誤解だらけ
午後七時十五分。
すっかり日の落ちた須田市の街を、洋市の所有する軽自動車が走っている。
誰もが知っていて、どこを走っても違和感がない銀色のエクステリアは、さながら商用車のようであった。
その車内には、付き合って年数を重ねたカップルが醸し出すような、どこか緩やかな空気が流れている。
助手席では、亜希が手鏡を開き、器用に化粧の仕上げをしている。
信号待ちでの停車中はアイライン、走り出せばファンデーション。
タイミングに応じて手際よく化粧を顔に馴染ませる技術に、運転席の洋市は感嘆する。
「……電車なんかでもそうですけど、揺れる車内で化粧ができるって、改めてすごい技術ですね。手元が狂ったりしないんですか?」
「……ごめんなさい、なんか恥ずかしいですね。いや、普段はしないんですよ!今回はちょっと時間を節約したくて……さすがにバスではやらないです」
パタン、とコンパクトを閉じて亜希が申し訳なさそうに笑う。
その笑顔を見て、洋市はビール煮の話題に切り替えることにした。
「それにしても、さっきのビール煮は本当に美味しかった。初めて食べましたよ。あんな本格的な料理、家で作れるんですね」
「えっ嬉しい!メッチャ簡単ですよ!実は炊飯器でも作れるんです!」
意外と料理に強い亜希を見て、この人と結婚する男性は幸せになるだろうと、どこか他人事のように思う洋市であった。
他愛のない会話を交わしながら、車は次第に繁華街へと入る。
一方通行が入り組む道を、スマホのナビに従って慎重に進むと、亜希の職場であるガールズバー『Cheers!』が入ったビルが見えてきた。
現段階では、異世界の怪異が飛び出してくることも、魔王の煽りが邪魔立てしてくることもない。
ビル近くにある有料駐車場に車を止め、二人は歩き出した。
亜希の案内に従い、洋市が店舗のバックヤードへ足を踏み入れると、二人の姿を見るや店長が迎え入れてくれた。
「アキちゃん、それに浅井さんも! 今日もわざわざすいませんね」
店長は洋市に向けて、一般的な社会人としての、ごくありふれた挨拶を交わす。
しかしながら、洋市の仕事の都合を気遣うその姿勢からは、彼が優良店を切り盛りする手腕と人柄の良さが滲み出ていた。
挨拶を終えると、店長は少しだけ表情を曇らせ、亜希の前で少し重そうに口を開く。
「実はさ、亜希ちゃんにちょっと伝えておきたいことがあって……ミナちゃんのことなんだけど」
「……ミナ、ちゃん、ですか?」
ミナの名前に、洋市と亜希の身体がピクリと反応する。
おそらく、異世界で洋市と死闘を繰り広げたであろう“地雷系女子”だ。
「ミナちゃんなんだけど……当分、シフトから抜けることになってね」
店長はふう、と大きくため息をついて、事情を亜希に説明する。
「メッセージ確認してると思うけど、あの子シフトすっぽかして、結局俺がカウンターに入ったんだよ。久しぶりに接客やったら緊張するね……って違うわ。それでさすがに連絡ないの心配になってマンションまで行ったらさ、チャイム鳴らしても反応ないの。一応、マンションの管理会社にも電話してみたんだけど、AI音声だから対応してくれてるかどうかは分かんない」
すでにその頃から、ミナは異世界にいた可能性がある。
洋市と亜希は、また隠し事が増えてしまったと、二人で顔を見合わせる。
その様子を、店長は少し好意的に受け取った。
「アキちゃんよかったねえ、その人は大丈夫だと思うよ。浅井さん、アキちゃんはいい子だから大切にしてあげてくださいね」
少し誤解が生まれていると思った洋市がそれを解こうとするが、亜希は肘を使って洋市を小突き、戸惑う洋市の代わりに答える。
「今日もボディガードお願いしようと思ってるんです!」
いや、俺いったん帰って仕事するつもりなんだけど、と思う洋市。
困った顔をする洋市に、亜希はわざとらしく上目遣いでお願いするような顔を作るが、目の奥は真剣だ。
ちらりと事務所内の時計を見ると、もう午後七時四十五分。
亜希の意図が見えない中で、一応店長に確認する形で帰ろうとする。
「いや、私がまたタダでドリンク飲ませてもらうわけには……」
洋市の遠慮を見透かしたように、店長は首を横に振った。
「浅井さんがアキちゃんの恩人だってことは、キャストのみんなが知ってます。だから浅井さんがいても誰も気にしませんよ」
洋市も食い下がる。
「いや……しかし、同じ客がずっと同じ席にいるのも……」
亜希が二人の会話に割り込む。
「指名客ってことにすればいいじゃないですか!そしたら私も、ヘルプしてくれた人にもバック入りますよね!」
「いや亜希さん、だってそしたらお金が発生するから……」
「キャバクラじゃないんですから!ソフトドリンクだけならそんなに高くないですよ!」
以前、ドリンク代が高いから自分の給料から引いてくれ、と言っていた優しさはどこへ行ってしまったのか。
「あの、別にフリーランスがみんな稼げてるわけじゃ……」
洋市は一瞬、女性と距離を縮めるのも考えものだな、と思いつつ、亜希に切ない自分の懐事情を説明しようとする。
二人の痴話喧嘩をどこか微笑ましく見た店長が提案する。
「ウチは大丈夫ですよ。基本的にキャストの恋愛沙汰に口を出す子はいませんから」
うーん、と唸る洋市。
何とか誤解を解きたいし、締切が近いので仕事もしたいが、今は詳細を説明している時間はなさそうだ。
苦肉の策で、タブレットで仕事をしようと思ったが、現代日本で鞄以外の場所からタブレットを取り出すのは危険だと判断した。
煮え切らない洋市の様子に、亜希は斬新な提案をする。
「……じゃあ、ゴブリンのコスプレして集客してくれませんか?」
「は?」
素っ頓狂な提案に、洋市は思わず小声で反論する。
「亜希さん亜希さん!何を言ってるんですか!?他の人にバレたら……」
洋市が冷や汗をかいていると、店長が手を叩いて喜んだ。
「アキちゃん、それいいよ!今トレンドだしね。いや、実は浅井さんに見せようと思ってたものがあって……」
店長は少し興奮気味に自身のスマホを取り出し、タイムライン型SNS『Talker』の画面を開いて二人に見せた。
そこに映っていたのは、駐輪場の前、ゴブリンの姿をした洋市が、鞭を持った亜希を力強く抱きしめている画像・動画が添付された投稿だった。
すでにもの凄い勢いで拡散されており、いいね、コメント、リポストの数もえげつない。
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@yoshi_hana_1219
ゴブリンと女の子の純愛マジで癒される
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@rennai_komachi
待ってwww
鞭持ってるのに抱きしめられてるって
どういう関係なのwwwwww
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@xuhgkdoels2429
まだハロウィン前だぞwww
落ち着けwww
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「……そうなるだろうけれども……」
SNSで大バズりしている自分たちの姿を突きつけられ、半ば想像していたとはいえ、洋市は言葉を失っていた。
しかし、亜希はすでに確認していた様子で、洋市に向かってニンマリと笑う。
『ゴブリンが現代にいても、違和感がない理由を作るつもりなんだ、亜希さんは』
ここでようやく、洋市は亜希の提案の意図を理解したのだった。
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