第九話
“パキラ”の揺らぎを抜けた瞬間、鼻腔を突いたのは嗅ぎ慣れた柔軟剤の香りだった。
帰ってきた、そう思い安心したのも束の間、洋市は部屋に誰かの影があるのに気付いた。
『……誰だ?』
ただの人間であった頃の洋市なら、心臓が飛び上がらんばかりに驚いていただろう。
おそらく、冷静にこの状況を判断する余裕などなかった。
しかし、ゴブリン的な思考・嗜好にやや毒され始めた洋市の精神は、相手が自分に物理的・人的な脅威をもたらすかどうかで評価するようになっていた。
その結果、この黒い影、おそらく人間が、自分に何らかの脅威を与える可能性は低いと直感的に判断した。
逆光の月明かりの中、リビングの床に、一人の女性が背筋を伸ばして正座していた。
馴染みはないが、どこか見覚えのあるシルエット。
ああ、隣の人だ。
洋市はそう理解したが、当然ながら洋市は彼女の“亜希”という名前も知らない状況である。
さらに、良いことか悪いことか、洋市の隠密スキルは彼女に自分の存在を気付かせていない。
『これは、何食わぬ顔で玄関から入り直した方がいいな。』
玄関の方を向いている隣人を横目に見ながら、洋市は開けっ放しのドアから仕事部屋兼寝室に入り、極力音を立てないよう着替えを持ち出すことにした。
夜目のおかげで、どこにどんな服があるのか、電気を点けることなく確認できるからだ。
遠目に正座しているシルエットを見る限り、まだ自分の存在には気付いていない。
ポロシャツにカーゴパンツという、40代でも無難であろうファッションを選び、洋市は部屋から玄関へと移動しようと決意した。
すると、唐突にシルエットは立ち上がり、何かを探し始めた。
その方向から、おそらく電気を点けようとしていることに洋市は気付いた。
なぜなら部屋は隣と同じレイアウトだからだ!
きっと、トイレに行きたくて電気を点けたのだろう。
いや、そうじゃなくて、このままだと自分の姿がバレてしまう!
しかし、気付いたときにはもう遅い。
結局、シルエットはリビングの電気を点け、とうとうゴブリン姿の、血シミが残るパジャマを着た40代男性が丸見えになってしまった。
洋市は、隣人の女性と目が合った。
「ひっ」
女性は、自分がこれから殺されるのではないかという恐怖を、声を押し殺しながらもあらわにした。
その驚きようを見て、洋市は人間の姿に戻るのを忘れていたことに気付いた。
お互い、この状況で何をいうべきか悩んでいる。
とりあえず、口火を切ったのは洋市だった。
「ええと……お隣の方ですよね」
「あ、はい!その説はありがとうございました!」
「ここって、私の部屋で間違いないですよね?」
「は、はい……すみません」
鈴を転がしたような声で、亜希は洋市に謝罪した。
ただ、洋市は部屋で正座しているのを見かけているため、泥棒目的で入ったとは考えていなかった。
その状況を知っていること、そしてどちらかというと自分が現状について説明した方がよさそうなルックスをしていることなどから、いったん洋市は亜希に質問を試みた。
「あの、どうしてここに?鍵が開いていましたか?」
「はい、あの時のお礼を言うつもりで、チャイムを鳴らしたんですがお返事がなかったので、お礼の品をドアノブにかけようとしたらドアが開いていて……誰もいらっしゃらないようだったので、内側から鍵をかけて、その、ど、泥棒が入ってこないように見張っていました!」
ああこの人、今言い訳考えたな。
洋市はそう思ったが、この人はどこか憎めなさがあるとも感じた。
ざっと部屋を見渡す限り、本当に物色のあとがない。
「し、失礼かと思ったんですが、そちらの部屋を見させてもらったとき、姿がいらっしゃらなかったので!その、普段、窓から出入りしてたりするんですか?」
「いやそんなことはない」
思わずツッコんでしまったが、この点に関しては洋市が分が悪い。
先ほどまで異世界にいたのだから。
“姿がいらっしゃらなかったので”って、よほどテンパってるなこの人。
洋市はそう思いつつも、なかなか上手い言い訳がまとまらない。
説得するならこのタイミングなのに。
お互いに後ろめたさを感じながら、苦し紛れに会話を続ける。
「おそらく、こんな格好をしているから、夜だと目立たなかったんでしょう。私も疲れて寝ていましたし、部屋も別に整頓されていないし」
「ああそうですか!……い、いえ、そんなことは、キレイなお部屋ですよ!リビングも生活感がないし」
「大丈夫ですよ、男の一人暮らしですから、自分の部屋以外には極力モノを置かないようにしているだけなんで」
何だかどんどん話が本題から逸れている気がする。
ここは年長者として話を切り出していくか、と洋市が思ったとき、唐突に亜希は自己紹介と当然の質問をした。
「……私は倉橋亜希といいます。お隣に住んでいて、ガールズバーで働いています。前にやっつけてもらったあの男は元カレで、もともとはお客さんだったから対応に困ってて……その、いつもその格好なんですか?」
「……昨日の今日で取れるメイクじゃないみたいなんですよ。だから、もう少し時間がかかるんです」
我ながら非常にいい嘘がつけた。
洋市は自分の口から出た誤魔化しに満足しつつ、この際だから警戒心を持っていないうちに自己紹介しようという判断に至った。
「私は浅井洋市といいます。主にブロガーとして生計を立てています。取材も含めライターとしても活動しています。それで、本当はどうしてこの部屋にいたんですか?」
洋市は、単なる善意からこの部屋に亜希が入ったのではないと思っていた。
たとえ玄関ドアの鍵がかかっていなかったとしても、それを理由に無断で部屋に入るというのは、常識の範疇から外れている。
「……嘘、ですよね。それがメイクだっていうの」
「……は?」
「だって、全然メイク、はがれてないじゃないですか。私、仕事柄コスプレすることも多いんですけど、どんなに頑張ってもメイクって崩れちゃうんですよ。でも、その格好、着替えても一日経ってもそのままって、明らかにおかしいです。それに、お部屋の中にもメイクグッズが全然ない」
バレてる!
洋市の頭に一瞬『殺すか』という考えがよぎり、すぐに打ち消す。
何を考えているんだ、俺は!
亜希は続ける。
「ごめんなさい!別にその姿が変だとか、差別してるつもりじゃないんです。私が知らない病気とかあると思うから。ただ、あのとき助けてくれたことにお礼を言いたかったのと、その、お願いしたいことがあって」
ああ、病気だと思ってるんだ。
その辺は純朴なんだろうか、と洋市は目の前の女性を見直した。
「お願いって?」
「ぼ、ボディガードになって欲しいんです!私の!」
「いや別に、私は武術の心得もないし、頼りないと思いますよ」
「もう見た目だけで誰も寄ってきませんよ!それに、知ってます?これ」
そう言って、亜希は自分がやっているSNSを見せ、トレンドになっているワードを洋市に見せる。
ニュース、フィードには、自分の姿こそ写っていないものの、以前の事件に関する投稿が爆発的に増殖していた。
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本日のニュース
正義のゴブリン、コスプレ姿で暴漢から女性を助ける
須田市で大捕物、異世界から「ゴブリンマン」参上
窓を割って女性宅へ侵入、犯人ではなく「救世主」
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ゴブリンのコスプレして人助けってマ?
超ヤバいんだけどコレwww
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須田市のゴブリン、いいゴブリン
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久々に色々と香ばしい案件
ネタじゃないの?
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須田市でゴブリン姿の怪人が捕まったってホント?
⤵
違ぇよカス。
ゴブリンが人助けしたんだって。
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うっわー。
めっちゃ拡散されてる。




