第七十三話 残像と呪詛
※字下げを実行しました。
洋市と挨拶を交わして、亜希は自分の部屋へと戻ってきた。
玄関の鍵を閉め、チェーンロックをかけ、入念に戸締りを確認する。
レースカーテンを閉めつつ、ストーカーらしき人物の存在がないかどうか確かめた後は、ベッドルームやトイレなど気になる場所を一通り確認していった。
いつでも洋市を呼べるように、スマホを握りしめて。
『……やっぱり、洋市さんには素直に事情を話したほうがいいのかな……』
亜希は、翔が目の前で死んだ今でも、翔の存在をどこかで恐怖している。
異世界では、疲れや非日常感からぐっすり眠れていたが、自分の部屋にいると、どうしても包丁を握りしめた翔の残像が見えてしまう。
もっと昔の、トイレに閉じこもって助けを待っていた瞬間も頭に浮かぶ。
目から涙がこぼれる。
『……ちくしょう、こんなことで!こんなことで負けるな!』
何とか自分を保とうと、強気な言葉を自分にかける。
深呼吸して、呼吸を整えて、給湯器の電源を入れてから浴室へ向かう。
蛇口をひねり、勢いよくあふれ出す温かいシャワーを全身で浴びる。
「大丈夫、大丈夫、まだ生きてる」
お湯が頭から肩、肩から胸、胸から腰、腰から足へと流れていく感覚。
大好きなシャワータイム。
この瞬間は、亜希も不安をかき消すことができていた。
風呂から上がると、亜希はノアの精霊水によるお湯浴びを思い出していた。
シャワーとはまた違うのだが、青空の下、暖かい雨が降る中で、身体や頭を洗うのは初めての体験だった。
水道のカルキ臭がゼロだったのはもちろんのこと、そのまま飲めるレベルで澄んだお湯を贅沢に使えたのは、亜希にとっては忘れられない思い出になった。
異世界の思い出に浸っている間は、須田で経験したつらい思い出をかき消すことができる。
「給料入ったし、魔石を売ったお金もあるから、シャワーヘッド変えてみようかな」
美容への投資に心を膨らませつつ、ドライヤーを使って髪を乾かす。
少しまったりしたところでソファに寝ころび、いつものようにスマホをいじる。
亜希の家にはパソコンがないため、基本的に情報収集はSNS頼りである。
タイムライン型SNSの『Talker』と、縦型動画配信アプリの『TukTuk』を交互に起動させ、自分なりに気になる情報を追いかける。
やはり亜希も、洋市と同様『ゴブリンマン』関連の情報は追いたかった。
色々と検索ワードを変えてみるが、最近の投稿ではネガティブな誹謗中傷さえも見当たらない。
世間の関心が、他の出来事に移っているのを確認した後、亜希は以前から気になっていたアカウントのプロフィールページを開く。
タイムラインの最上部には、数日前に更新された、彼女の最新ポストがある。
亜希の指が止まる。
──────────
@Mina_GBS
結局、みんな私のことなんて何とも思ってない。
だから、私も私のことなんて何とも思わない。
私ごと、みんなこの世界から消してやる。
──────────
「ミナちゃん……」
そこにあったのは、呪詛。
嫉妬や憎しみとは根本的に違う、澄み切った悪意。
かつて、亜希が洋市に助けられて間もない頃、SNS上で『亜希が男を部屋に連れ込んだ』と投稿したアカウント。
本人に直接確認はしていないが、おそらく、キャバクラから流れてきたというキャスト・ミナのものだと亜希は推測していた。
亜希とミナは、お店でそれほど接点がない方だった。
しかし、同じ日にカウンターに入れば、それなりにサポートし合う雰囲気ではあった。
ただ、ミナはずっとジャージ姿だった。
亜希はミナのルックスについて、決してプロポーションが悪いとは思わなかった。
スレンダーボディは、どちらかというとふくよかな亜希から見て魅力的だった。
しかし、キャバクラ勤務経験のあるミナに、事務員上がりの自分が服装についてアドバイスするのも違うかな、と思い、それはそれとして気にせず働いていた。
その後、亜希は翔から励まされたことをきっかけに、徐々にチアガール姿に馴染んでいき、指名をもらう日も増えていた。
そんなタイミングで、亜希が元カレに襲われ、それを洋市が助けた。
よくあるといえばよくある不運と、それを一気に覆すキャッチーな幸運のコントラストは、ガールズバーで影が薄いミナのプライドを傷つけたのかもしれなかった。
結局、亜希はミナのチアガール姿を見ることがないまま、アルトヤ界と現代日本を行き来するため、シフトを減らすことになった。
亜希が洋市と一緒にアルトヤ界で冒険を始めてから、およそ一週間が経過したことになる。
木・金・土といった、お店が忙しい時期に休みを入れることになり、直近の彼女の様子はいよいよ分からなくなっていた。
もっと話しておきたい。
誤解を解きたい。
そんな気持ちを抱きながら、アカウントを確認した亜希。
しかし、出てきたのはあまりにも不穏で鬱々とした、世界に対する呪いのようなつぶやきだった。
『……シフトってどうなってるんだろう』
亜希はいったんSNSを閉じ、メッセージアプリを起動する。
スタッフやキャストの情報交換用グループを開き、投稿内容をさかのぼって他キャストの出勤情報をチェックする。
『ミナちゃん、最近は週一なんだ。しかも、最近のシフトもすっぽかした……?』
グループのチャット履歴を見ると、他のキャストたちのコメントは、怒りでも不満でもない、どこか冷ややかなものだった。
──────────
また飛んだの?
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シフト外れてると思って動かないと
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店長かわいそう、休み一日削って内勤入るの?
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『ミナ』という名前さえ、チャット内で呼ばれない状況。
そのくらい、存在感が消え失せていた。
もっとも、これは亜希の勤務先が厳しい環境だから、というわけではない。
亜希が勤務するガールズバー『Cheers!』は、須田市の繁華街の中では人気店の一つであるが、店長も含めてキャスト同士の人間関係は良好である。
ドロドロとした人間関係が連想される夜の街においては、どちらかというと珍しい傾向にあるのかもしれない。
理由の一つに、お店のインセンティブ(歩合)のカウント方式があげられる。
Cheers!では、キャスト自身が顧客管理(営業)するのを認めている。
お店で本指名が入った場合、その数だけをカウントして純粋に手当てがつく仕組みだ。
その他、ドリンク代、フード代にもインセンティブが付くものの、基本的に店側がフリー客に特定のキャストをアテンドすることはない。
加えて、指名された誰かのヘルプについた場合は、ドリンク代の一部がヘルプバックされる。
総じてキャスト全員が稼ぎやすい仕組みになっており、自分に指名客がいない状況で接客しているときや、ヘルプとして回っているときでも、チームプレイである程度の実入りが期待できる。
やや特殊なルールである分、客の奪い合いをする“競争”よりも、お店全体を盛り上げる“協奏”が得意なキャストが長く残るのである。
だからこそ、長く競争の世界で生きてきたミナにとって、Cheers!は動きにくかったのかもしれない。
キャストの輪に馴染めず、どこか自分を殺して勤務していたミナの孤立は、むしろ目立ちやすかった。
『……ただのサボリ目的じゃないと思う、ミナちゃん、どこにいるんだろう……』
あいにく、亜希はミナがどこに住んでいるのか知らない。
ただ、明日の夜八時から出勤を控えている。
『店長かエミちゃんに、ミナちゃんのこと、聞いてみようかな』
亜希がそう決意してメッセージアプリを閉じた時、時刻は午後六時を少し過ぎていた。
手元のスマホの画面が短く点灯し、洋市からのメッセージが表示される。
『これから砦に向かいます。冷蔵庫にビールがあるので、飲みたかったら飲んでください』
こういうところだ。
言葉にこそできないが、亜希は洋市が信頼できる理由について、再確認することができた。
すぐに指を動かし、返信のテキストを打ち込む。
『分かりました!早く帰って来てくださいね!』
送信ボタンをタップした後、亜希はつい本音が出てしまったことを恥ずかしがるのだった。
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