第四十六話 断ち切る刃
時間を数分ほど遡る。
「早く!!」
洋市の叫び声に背中を押され、亜希は痛みに呻く木村の肩を担ぎながら、自分から見て右側にあるドアへと飛び込んだ。
そこは、玄関ホールへと続いていた。
「木村さん、もう少しです! 外へ出ましょう!」
後ろから聞こえてくる激しい破壊音と震動に怯えながら、亜希は重い玄関の扉に手をかけた。
ガチャガチャとノブを回し、力一杯押し込む。
しかし、どう頑張ってもドアは微動だにしない。
鍵が開かないというより、扉の向こう側がコンクリートの壁で完全に塞がれているような、不自然で絶望的な手応えだった。
「……開かない。ダメ!」
亜希は青ざめた。
オカルトやホラーには決して詳しくない亜希だったが、おそらくこの家自体が異常な空間に閉じ込められているのかもしれないと考えた。
リビングでは、洋市と魔物が死闘を繰り広げている。
おそらく洋市は勝てるだろうと亜希は踏んでいたが、万一魔物が逃げ出して自分たちを人質にとるようなことがあってはならないと、少しでも距離をとろうと考えていた。
『どこか、他に外へ繋がる場所は……!』
パニックになりかける頭で、亜希は過去の記憶を必死に手繰り寄せた。
付き合っていた頃、翔からこの無駄に広い実家の案内を受けた時を思い出そうとする。
地下室の存在など聞いたこともなかったが、ふと、ある言葉を思い出した。
『ウチ、無駄にデカいから、ガレージと部屋がくっついてるんだよね』
「……ガレージ。そうだ、泊まった部屋……!」
亜希は、玄関から入ってすぐのところに、ガレージ直結の部屋があることを思い出した。
暗闇をスマホで照らしながら、玄関ホール左手にあるドアを開け、ゲストルームに入る。
そこには、一般的な住居には不釣り合いな、重厚なコンクリート製のドアがあった。
体当たりするようにしてドアを押し開けると、冷たい空気が流れ込んできた。
亜希は木村を連れて、家と直結した巨大なガレージ内に入り込む。
シャッターは閉まっており、やはり外の光は差し込んでいない。
しかし、亜希のスマホが照らす光は、ガレージの床にある異常を捉えた。
コンクリートの床に、何か重いものを引きずったような、赤黒い汚れの跡が真っ直ぐに伸びている。
その跡は、床に設置された金属製のハッチへと続いていた。
「地下室……きっとここだ……」
亜希は戸惑いと恐怖を感じつつも、迷っている暇はなかった。
木村にスマホで地面を照らしてもらいながら、亜希は重い金属のハッチを開ける。
暗闇の中に、急なハシゴが現れた。
片腕を負傷している木村を下から支えるようにして、二人は慎重に地下へと降りていく。
地下空間は、思わず鼻を覆いたくなるほどの悪臭に満ちていた。
染み付いてしまった人間の体臭、むせ返るようなアンモニアの臭い、そして魚の腐ったような生臭さ。
これが、翔の父親の土木会社がヤクザのシノギとして使っていたという「拷問部屋」の臭いなのか。
それにしては、臭いがまだ新しい気がする。
吐き気をこらえ、スマホのライトを頼りに進むと、鉄格子のついた小部屋の奥から、微かな声が聞こえた。
「……パパ……ママ……」
暗闇の中で震える、幼い少女のすすり泣く声。
木村が弾かれたように顔を上げ、鉄格子へとすがりついた。
「麻実! 麻実か!? 大丈夫か、パパだ! 今すぐ助けるからな!」
「パパ……? パパぁっ……!」
部屋の特定に成功し、亜希が扉の鍵を壊す方法を探そうとした、その時だった。
亜希たちのすぐ背後の空間に、青、白、黒のマーブル状の光が生まれ、ぐにゃりと歪んだ。
そこから、手足の骨があらぬ方向へ曲がり、ドス黒いオーラを纏ってボロボロになった魔物(翔)が、這いずるようにして吐き出された。
「キャアアアアアアアアアアアッ!!!」
あまりの恐怖に、亜希の喉から鼓膜を劈くような悲鳴が轟いた。
洋市が負けたのか?
いや、あのワープだ。
洋市の猛攻から逃れるために、ここへ転移してきたのだ。
亜希はそう思うしかなかった。
亜希は震える手でスマホの画面を叩き、再び【召喚】ボタンを押した。
だが、画面には残酷なエラーメッセージが表示される。
▶※本機能は1日(24時間)に1回のみ使用可能です。次に使用できるのは23時間45分後です。
「う、嘘でしょ……!」
頼みの綱が絶たれた。
木村も必死に周囲を見回して武器を探すが、地下室には鉄パイプ一本すら落ちていない。
「ア……キ……」
魔物は、口から血と涎を垂らしながら、亜希を睨みつけた。
「アノ、緑ノ……邪魔、シヤガッテ……。オ前ヲ……俺ノ中ニ……!」
殺意を剥き出しにして這い寄ってくる魔物。
だが、あと数歩のところで、魔物は突然頭を抱えて苦しみ出した。
「ガァァッ! 違ウ……俺ハ、俺ハ、アキヲ……愛……!」
魔王に支配されかけた意識の中で、まだ人間としての、翔自身の良心の残滓が、亜希への攻撃をギリギリのところで押しとどめているようだった。
その姿を見た亜希の脳裏に、洋市との雑談で聞いた「DV加害者の行動サイクル」の知識がよぎる。
爆発の後のハネムーン期。
相手が弱みを見せ、優しくなり、同情を誘うタイミング。
今なら、言葉が通じるかもしれない。
亜希は、翔の記憶が少しだけ戻ったらしき、目の前の魔物に話しかける。
「……翔。お願い、思い出して。私たちが初めてこの家に来たとき、お父さんと向き合う覚悟ができたって言ってくれたじゃない」
亜希は必死に、人の心を取り戻させようと語りかけた。
「ウルセェ……親父ナンカ……!アノクソ親父モ、母サンヲ毎日殴ッテタ!俺ハ母サンにツネラレタ!蹴ラレタ!ソシテ男ト逃ゲタ!見捨テラレタンダ、俺ハ!」
翔の口から漏れ出したのは、彼の不幸な出自だった。
支配的で暴力的な父親。
逆らえずに殴られ続け、翔を傷つけた後で逃げた母親。
愛情に飢え、どうやって人と関係を築けばいいか分からない。
「暴力と恐怖」でしか、他者を繋ぎ止める術を学習できなかった悲惨な環境。
それでも、亜希と翔との間には、ともに優しい時間を紡いだ思い出があった。
亜希がガールズバーで働き始めた頃は、露出度の高いチアガールの衣装を着ることに抵抗があり、ジャージで接客をしていた時期があった。
そのことをお客さんにいじられたり、ジャージの下のプロポーションを揶揄されたりして、男性客と話すことに対してまったく慣れなかった。
勤務三日目で、店長に『自分は向いていないから辞めたい』と伝えようとした際、紳士的に声をかけてくれたのが翔だった。
「ジャージ着てるんだ、バックヤードの人なの?」
「奨学金の返済頑張ってるんだ、大変だね」
そんなささいな自己紹介から始まったコミュニケーション。
翔は、定期的にお店に顔を出し、少しずつ亜希との距離を縮めていった。
「俺がドリンク頼めばさ、それだけアキちゃんにバックが付くんだよね」
「まずはさ、露出が少なめのコスチュームから始めて慣れてみたら?アキちゃん目当てで来る客はきっといると思うよ」
「やっぱり似合うよね、そのコスチューム、スタイルいいもんアキちゃんは」
「このカクテル美味しいね!アキちゃんそっちの才能もあるんじゃない?」
だんだんと自分の接客に自信がついた亜希は、次第に翔の優しさと気遣いに惹かれ、仕事のことを相談するようになった。
あの頃の翔は、危うさこそあれ、真人間になろうとしていた時期だったのではないだろうか。
そんなことを亜希が回想する中、翔の様子が変化した。
「俺ニハ……分カンネェンダヨ……。ドウヤッテ愛セバイイカ……。アキ、オ前ダケダ……俺ヲ、見捨テナカッタノハ……」
苦しそうに涙を流し、獣の姿でうずくまる翔。
その哀れな姿に、亜希の心の中に、かつて彼を愛していた頃の『私が分かってあげなきゃ』という危険な同情心が、わずかに芽生えてしまった。
「……翔」
亜希は無意識のうちに、翔へと一歩、また一歩と近づいていく。
木村が「ダメだ亜希ちゃん!」と止める声も耳に入らない。
あと一歩半。
手を伸ばせば、翔の獣の毛皮に触れられる距離まで密着した、その時。
翔の涙声が、ピタリと止んだ。
「――馬鹿ガ、食ワレロ」
人間の声帯を使った悍ましい嘲笑とともに、翔の腹の口が、亜希の頭部を丸呑みにすべく限界まで開き、牙を剥いて飛びかかってきた。
同情を誘う涙は、魔物が翔の記憶を利用して仕掛けた卑劣な罠だったのだ。
『あ――』
亜希が死を覚悟し、目を閉じた瞬間。
「亜希さん、伏せて!!」
地下室の入口から、ハシゴを飛び降りて一直線に走る緑色の影。
大蛇からゴブリンへと変身して駆けつけた洋市だった。
間に合わないと判断した洋市は、空中で右腕を大きく薙ぎ払う。
爪に極限まで込められた【風刃】の魔力が、真空の刃となって真っ直ぐに翔の首元へと放たれた。
ズバァァァッ!!
何の抵抗も許さず、風の刃が魔物の太い首を完全に切断する。
ゴトッ……と、醜悪な魔物の頭部が床に転がり、ドス黒いオーラが霧散していった。
亜希は腰から砕け落ち、ガタガタと震えながら、ゆっくりと洋市を見上げた。
息を切らしたゴブリンの洋市の頭の中に、システムのアナウンスが冷徹に響き渡る。
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魔物「マッドハイエナ(変異体)」を討伐
ゴブリンスカウト Lv.35にアップ
スキル【毒爪】がLv.7にアップ
スキル【風刃】がLv.7にアップ
スキル【身体強化】がLv.5にアップ
【勇気の欠片(中)獲得】 → 【勇気の欠片(小)】は継続保持
【スキル解説(中)獲得】 → 獲得にともない【スキル解説(小)】は削除
持ち物「毒魔法」が魔法【毒魔法】に変化
クエスト【契約・隣人の盾】継続中
継続期限なし
危機対象の排除に伴い、人間形態維持ボーナス+1,000分+α
人間形態維持時間の全回復
分数調整 3000 / 3000分
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それは、魔物の脅威と亜希の過去を、一人のゴブリン(フリーランス)が断ち切った瞬間であった。




