第四十五話 ゴブリン、初めての死闘
「全力でやります。場合によっては蛇にもなります。亜希さんは木村さんを連れて、一歩でも遠くへ逃げてください」
洋市の言葉に、亜希は一瞬戸惑いを見せた。
一歩でも遠くへと言われても、ここは一般家庭向けの建売住宅とは違い、多くの部屋がある広い豪邸だ。
どの方向へ逃げれば安全なのか、判断がつかない。
その戸惑いを察した洋市は、まず亜希が逃げるための“隙”を作ることにした。
【身体強化】を最大限に引き出した両足で床を蹴り、弾丸のような速度で魔物の正面へと肉薄する。
そのまま両腕で巨体を押し込み、背後の壁へと激しく叩きつけた。
「早く!!」
力一杯、魔物を壁に押さえつけながら怒鳴る。
ハッとした亜希は、過去に一度だけこの家を訪れた記憶を頼りに、自分から見て右側にあるドア――おそらく玄関へと続く廊下――を目指して、木村を連れて走り出した。
男性に比べればか弱い身体で、木村の身体を必死に支えながら、ドアの向こうへと進んでいく。
獲物を逃がすまいと、魔物が暴れる。
ドス黒い闇のオーラがさらに膨張し、抗う力が爆発的に跳ね上がった。
ゴブリンの筋力をもってしても押さえきれず、洋市はついに力任せに前方へと振り払われた。
体勢を立て直す間もなく、魔物が襲いかかってくる。
――魔物の突進。
そこに踏み込み、がら空きの胴体に右膝蹴りを叩き込む。
怯んだ隙に、顎を狙って左肘打ち。
躱された、視界がブレる、強烈な頭突きをモロに食らった。
脳が揺れる、だが、のけぞる勢いをそのまま利用し、左足の天頂蹴りを放つ。
魔物の顎を完璧に打ち抜いた。巨体が浮く。
下から追いかけるように跳躍し、両手で組んだハンマーナックルを脳天に振り下ろす。
ドスゥッと音を立てて、床に叩きつけられる魔物。
すかさずマウントを取り、拳を振り上げ――魔物が強引に立ち上がる。
その口の奥が異常な熱を帯び、赤く発光した。
炎のブレス。
至近距離でモロに浴びる、緑の皮膚が焼ける、熱い!
顔を庇い、火の粉を払おうとした一瞬の隙、魔物の重い連撃が顔面と腹部に突き刺さる。
意識が飛びかける、くらっとしているところに、魔物が全力の体当たり。
両腕で受け止める、ギリギリで堪え、その勢いを殺さず魔物の腰を深く掴む。
後方へ反り投げる、バックドロップ。
床材が砕け散る、体勢を立て直し、爪に【風刃】を纏わせて太い首を刈る。
浅い。十分な裂傷に至らない。
直後、みぞおちに強烈なカウンターキックを食らい、洋市は数メートル吹き飛ばされた。
床を滑り、両手両足でブレーキをかける。
洋市も魔物も、互いに荒い息を吐きながら睨み合った。
『……決め手に欠けるな』
ゲームとプロレス観戦の知識を総動員しているせいか、それとも翔自身の知能が大幅に退化しているせいなのか、格闘戦の技術は洋市が上とみられた。
しかし、相手は魔王の力で異常なタフネスを得ている。
洋市は折に触れて【毒爪】のスキルも急所に打ち込んでいたつもりだが、やはり爬虫類に特化した毒だからか、哺乳類型の魔物には目立った弱体化が見られない。
互いに隙を窺う膠着状態の中、洋市は、かつてライターとして執筆した一本のネット記事の記憶を引っ張り出していた。
蛇の締め付けは、獲物の呼吸を止めるのではなく、心臓への血流を強烈な圧力によってせき止め、早期に心停止に至らしめるという極めて合理的な殺戮手段である。
『……このままコイツを活かしておけば、必ず亜希さんたちに危害を加える。なら、証拠を残さないために、陰蛇になって喰ってしまえばいいのでは?』
この時点において、それは合理的な判断の一つではあった。
だが、洋市の心の中にわずかなブレーキがかかる。
相手は醜悪な魔物に成り果てているとはいえ、元々は同じ人間である翔だ。
それを丸呑みにして消化するという行為は、いよいよ自分が人間から完全に逸脱してしまうことを意味するのではないか。
最近、自分の「人間味」が擦り減ってきている自覚もある。
その躊躇を読み取ったかのように、頭の中に声が響いた。
【ソイツハ モウ 殺サナイト 止マラナイ】
魔王の干渉。
だが、その話は、おそらく嘘ではない。
迷っている暇はない。
亜希を守るためには、ここで確実に仕留めるしかない。
洋市は覚悟を決め、蛇への変身に必要な数秒の隙を作るため、再びラッシュを仕掛けた。
――低い姿勢からのタックル。
躱される、そのまま地面を転がり、【風刃】で相手の足首を刈る。
バランスを崩した魔物の顔面に、起き上がりざまの蹴り上げ。
怒りに任せて振り回してくる豪腕をダッキングで潜り抜け、背後を取る。
相手の右腕を自分の左脇に抱え込み、左足を相手の左足に絡める。
そのまま上半身を捻り上げ、コブラツイストの体勢で完全にロックする!
「ガァァァッ……!!」
暴れる魔物の顔面を左手で下へ強く押さえつけ、動きを完全に封じる。
そして、空いた右手で己の胸の紋章に触れた。
> 変化:陰蛇
イメージするのは、魔物の巨体を完全に飲み込める、相手の二倍のサイズの威容。
魔力をごっそりと消費し、洋市の身体が黒い大蛇へと変貌していく。
コブラツイストの体勢からそのまま大蛇の太い胴体が魔物に巻き付き、強烈な圧力で締め上げた。
メキッ、バキボキィッと、血流どころか全身の骨も悲鳴を上げるように鈍い音が響き渡る。
心臓への血流を完全に遮断された魔物は、一瞬にして全身の力を失い、ぐったりと垂れ下がった。
『よし、完全に落ちた』
洋市は締め付けを解き、魔物を床に転がした。
あとはこのまま大きく顎を外し、頭から丸呑みにするだけだ。
だが、いざ捕食しようとしたその瞬間、洋市の脳裏を不安がよぎった。
『亜希さんと木村さんは、無事に外へ出られただろうか?』
洋市が大蛇の頭を少し持ち上げ、ドアの方へと視線を向けた、ほんのわずかな油断。
その隙を突くように、完全に力尽きたと思われていた魔物の身体が、青・白・黒のマーブル状の空間に引きずり込まれ――。
『しまった!』
洋市が油断に気付いた直後、魔物の姿は歪みの中へと完全にワープして消え去った。
逃がした。
洋市が己の油断を呪い、ゴブリンの姿に戻ろうとしたその時。
「キャアアアアアアアアアアアッ!!!」
玄関へと続くドアの向こう、家のどこかから、鼓膜を劈くような亜希の悲鳴が轟いた。




