第四十二話 狂気の家
チカチカと照明が瞬き、パッと店内に明かりが戻った直後。
カウンターの向こう側から亜希の姿が忽然と消え失せたのを確認した洋市は、すぐさま座っていたカウンターチェアから立ち上がり、バックヤードへと向かった。
「店長! 亜希さんはそちらにいませんか!?」
事務所で事務作業をしていた店長は、洋市のただならぬ剣幕に目を丸くした。
「えっ!?いや、さっきまでカウンターに……停電の間に外に出たってことですか?」
「分かりません。ただ、停電する直前、亜希さんは馴染み客らしき男性と話し込んでいました。その直後、声も出さずにいなくなってしまって……」
洋市の報告を聞いた店長は、眉をひそめて首を傾げた。
「馴染みの客……?どんな感じの人でした?」
「ブラウンのくたびれたスーツを着た、親子くらい歳が違いそうな方でした」
「……木村さんかな、アキちゃんが最近よく話していた常連客っていうと、その人しか考えられないですが……。でも、あの人、先月関西に転勤になって、この前ウチで送別会をやったばかりだし、そうそうウチには来られないと思うんですが」
「お金はかかりますが、新幹線を使えば、来られないことはないんじゃないですか?」
「それが、車じゃないとアクセスできないくらい山奥らしいんです。本人は左遷されたなんて言ってましたけど、島でもないのに僻地手当が出るとかで、結構張り切ってましたよ」
「じゃあ、わざわざ須田のガールズバーにやって来るのも変ですか……」
「変とまでは言い切れませんけど、正直そこまでキャスト推しって感じじゃなかったし……連れ出すような強引なことはしない人だと思うんですけど」
木村と思しき人物の人となりを共有したところで、洋市は舌打ちしたい気持ちを抑え、思考を高速で回転させる。
『……何が起こってるのかは分からないが、一瞬でカウンター越しの人間を音もなく連れ去るなんて、普通の人間にはまず難しい。十中八九、この世界の理にはない方法を使っていると考えた方が自然だろうな』
洋市は、このままここにいても埒が明かないと判断した。
「このまま店にいても居場所が分かりません。連れ去られたのだとしても、このわずかな時間で遠くに行くのは難しいはずです。私が外を探します」
「待ってください浅井さん。もし、万が一あのストーカーの仕業だとしたら……」
店長はデスクの引き出しを乱暴に開け、裏紙に素早くメモを書き込んで洋市に手渡した。
「奴の実家の住所です。申し訳ないですが詳しい位置はスマホで調べてください。警察にも伝えてありますが、あいつは今、実家暮らしのはずです。何かあればすぐに連絡を……!」
「ありがとうございます、行ってきます!」
洋市はメモをスラックスのポケットに突っ込み、事務所を飛び出した。
雑居ビルを出て、人目のつかない裏路地へと駆け込む。
洋市は一切の躊躇なく、胸の紋章に右手を当てた。
> 人間形態維持:停止
> 残り時間:1060分
紫の光とともに、洋市の身体は緑色のゴブリンへと変化する。
同時に、スキル【隠形】を発動させ、その身を夜の闇へと完全に同化させた。
『まずはこのビルの中だ』
飲み屋が密集するビル内で、すべての店舗をしらみつぶしに探すのは不可能だ。
だが、他の客の目がある店内で暴力を振るったり、亜希を隠したりするのは考えにくい。
洋市は非常口の階段、屋上、そして各階の物置など、人気のないスペースを高速で動き回りながら探した。
しかし、どこにも亜希の痕跡はおろか、魔力や“揺らぎ”のような違和感もない。
『もう外に出たのか?』
洋市はビルの外へ飛び出し、夜の街の影に溶け込みながら繁華街を駆け抜けた。
ゴブリンの【身体強化】による跳躍力で看板から看板へと飛び移り、上空から街を見下ろして不審な人影を探す。
だが、ここで問題に直面した。
洋市は、須田市のこのエリアにおける「土地勘」に乏しかった。
入り組んだ路地、無数に停まっている車、行き交う酔客たち。
行き当たりばったりの捜索では、砂漠から一粒の砂金を探すようなものである。
『落ち着け。ただの拉致じゃない。あれがウチの玄関に出たような“揺らぎ”を利用した空間移動だとしたら、目的の場所は限られているはずだ。亜希さんの自宅か……翔の実家か!』
洋市はポケットから店長のメモを取り出し、暗闇でも見える【夜目】のスキルで住所を確認する。
山裾の高級住宅街だ。
洋市は壁を蹴り、一直線に翔の自宅へと向かって夜の闇を駆け抜けた。
停電になる前、亜希は久しぶりに会った常連の木村と話していた。
最初は楽しく話せていたが、次第に顔が曇っていく様子を見て、亜希は少し不安を感じていた。
「……木村さん? どうしたんですか、そんなに困った顔をして」
カウンター越しに、亜希は馴染みの常連客を心配していた。
彼はグラスを見つめたまま、何か言いたげに口をもごもごさせている。
その様子に違和感を覚えた亜希が、もう少し詳しい事情を聞こうと身を乗り出した瞬間だった。
――バツンッ!
ブレーカーが落ちた時のような激しい音とともに、店内の明かりがすべて消えた。
暗闇に包まれた瞬間、亜希の全身を、ぞわりと総毛立つような冷気が撫でた。
それは、死闘の森でオオカミたちに遭遇した時のような恐怖とはまた違う、ひどく不快で、吐き気を催すほどの濃密な「悪意」を纏う空気に感じられた。
「えっ……きゃっ!」
視界がぐにゃりと歪み、足元の床が抜けたような強烈な浮遊感に襲われる。
次に亜希が目を開けた時、彼女の目に飛び込んできたのは、ガールズバーのカウンターの景色ではなかった。
『……ここ、どこ……?』
薄暗い間接照明。
無垢材の高級なフローリング。
そして、足の踏み場もないほどに散乱したゴミや酒の空き瓶。
亜希には、この部屋に見覚えがあった。
付き合いたての頃に一度だけ連れてこられたことがある、翔の実家の部屋だ。
翔の父親は、須田市でも手広く土木工事を手掛ける会社の社長であり、家は豪邸と呼んで差し支えないほど豪華なものだった。
ただ、その土木会社はヤクザとの繋がりや不法投棄など、後ろ暗い仕事をしているという黒い噂が絶えず、亜希も直感的に『関わってはいけない家だ』と感じたのを覚えている。
実家に亜希を連れてきた翔は、彼女を気遣うような言葉をかけていた。
「俺はこの家が本当に大嫌いだったんだ。親父もな。でも、亜希が来てくれたおかげで親と向き合う覚悟ができそうだよ。本当にありがとう」
当時は、そんな殊勝な言葉を口にする翔が、まともな人間なのだと信じて疑わなかった。
彼を支えようとすら思っていた。
だが、あの凄惨な暴力とストーカー被害を経験した今の亜希には、もう恐怖と嫌悪が入り混じった感情しかない。
『翔の、部屋……。私と別れてから、実家で軟禁状態だったって聞いたけど……』
部屋の荒れ具合は異常だった。
壁には無数の穴が開き、高価なオーディオセットは見る影もなく破壊されている。
まるで、猛獣を無理やり閉じ込めていた檻のようだ。
亜希は恐怖でガタガタと震える身体を両腕でおさえるように抱きしめ、息を殺して周囲を見回した。
部屋の中には誰もいない。
窓の外からは車の音一つ聞こえず、不気味なほどの静寂が家全体を包み込んでいる。
警戒心はすでに限界を超えていた。
しかし、洋市がそばにいない今、頼れるのは自分だけだ。
『とにかく、ここから出ないと、きっと殺される……!』
亜希は、この場にはふさわしくないコスチュームのスニーカーを履いたまま、床のゴミやプラスチック片を避けるようにして立ち上がり、そっと部屋のドアノブに手をかけた。
鍵は開いている。ゆっくりとドアを開け、薄暗い廊下へと足を踏み出そうとした。
その瞬間。
「――ヒィィィィィィァァッ!!」
廊下の先、一階の吹き抜けの方から、グラインダーで金属を削ったときに出る音のような、おぞましい断末魔の悲鳴が響き渡った。




