第四十一話 気丈の代償
停電に見舞われた洋市の部屋は、しん、と静まり返っていた。
何気なく耳が拾っている機械音、例えば換気扇の音や冷蔵庫のモーター音、パソコンの冷却ファンの音などが一度に消え、現代人である洋市と亜希は言い知れぬ不安を感じていた。
もっとも、それはアルトヤ界という異世界で、命の危機にさらされた経験が影響を及ぼしているのかもしれなかった。
洋市が警戒心を絶やさず、意識を研ぎ澄ましていると、玄関の方から妙にひんやりとした、奇妙な空気が漂ってくるのを感じた。
「亜希さん、玄関から何かを感じます。ゴブリンへの変身の許可をお願いします」
「えっ?あっ、はい、お願いします」
一瞬、亜希は『自分のタイミングで勝手に変身すればいいのに』と思ったが、少し考えて護衛対象である自分に判断を仰いだのだと理解した。
了解を得た洋市は右手で胸の紋章に触れ、紫色の光に包まれた後、亜希も見慣れたゴブリンの姿になり、聞き慣れたアナウンスを聞く。
> 人間形態維持:解除
> 残り時間:1360分
休憩の間にパジャマを脱ぎ、ワークシャツとスラックスに着替えていた洋市だったが、ゴブリンの身体に現代の衣服は難なくフィットする。
もっとも、見た目は違和感どころか、一般人にとっては恐怖しかないだろうが。
洋市が素早く玄関へ移動すると、ドア前には新たな“揺らぎ”が生じていた。
しかし、洋市が足を踏み出そうとすると、揺らぎは蜃気楼のように輪郭を崩し、ふっ、と雲散してしまった。
直後、リビングの方でチカチカと蛍光灯が瞬き、部屋の明かりが元通りに点灯した。
『……消えた?』
洋市は警戒を解かず、周囲を見回した。
異界への新たな入口だったのか、それとも魔法などによる干渉だったのかは分からない。
しかし、異常がこの部屋に起きたことだけは事実だった。
『まさか、停電も?』
洋市は、変身を解くのも忘れて、すぐにデスクのスマートフォンを手に取り情報収集を始めた。
「亜希さん、今のはアパートだけの停電じゃなかったようです。SNSの情報によると、須田市の一部地域で局地的な停電が多発しているみたいですね」
「えっ……」
亜希も慌てて自分のスマホを取り出し、ニュースアプリや交通情報を確認する。
「本当だ……。洋市さん、お店がある繁華街のエリアも、さっき一瞬停電したみたいです。今はもう復旧してるみたいですけど……」
須田市内で多発する変死体、留置場からの脱走、そして局地的な停電。
偶然で片付けるには、あまりにも不穏なピースが揃いすぎている。
フリーランスとして数々の炎上案件やトラブルを見てきた洋市の直感が、けたたましく警鐘を鳴らしていた。
「……亜希さん。少し得体の知れない不安を感じます。例の変死体の件もありますし、翔という男がどういう手段に出るか分からない以上、今日はこのまま部屋に鍵をかけて、休んだ方がいいんじゃないですか?」
洋市は極めて真っ当な提案をした。
しかし、亜希はスマホの画面を強く握りしめ、ふるふると首を横に振った。
「ダメです。お店には『出勤する』って連絡しちゃいましたし、私が休んだら、今日出勤している他の子たちや店長に迷惑がかかります。もし、私を狙ってあいつがお店に来たら……私がいなかったら、怒って誰かを傷つけるかもしれない」
自分の恐怖よりも、恩人である店長や仲間たちへの責任感を優先する。
その頑なな瞳を見て、洋市は若いのに根性あるなと感心しつつ、護衛の難易度が上がることを想定して覚悟を決めた。
「分かりました。……では、予定通りお店へ向かいましょう」
午後七時十分。
須田市の繁華街にある雑居ビルの三階。
変身を解いた洋市と、緊張の面持ちを隠せない亜希は、ガールズバー『Cheers!(チアーズ)』のバックヤード(事務所)に足を踏み入れた。
『Cheers!』はその名の通り、キャスト全員がスポーティなチアガールのユニフォームを身に纏って接客を行う、カジュアルで明るいコンセプトのガールズバーだった。
亜希によると、露出が苦手な人の場合、ユニフォームの代わりにジャージを着て接客することもできるらしく、亜希も働き始めた頃はジャージを着てカウンターの隅でひっそりと接客していたこともあったようだ。
『繁華街でジャージって、意外とニーズがあるのか?』
そんなことを思い出しながら事務所の中に入ると、ツインテールの少女が亜希の下に駆けてきた。
「アキちゃん! よかった、怪我とかしてない!?」
事務所に入るなり、亜希に抱きついてきたのは、彼女の逃走を手助けしたという同僚キャストのエミだった。
オレンジ色を基調としたチアの衣装がよく似合う、活発そうな女性だ。
「エミちゃん!ごめんね、色々と心配かけて」
互いにハグをしながら、エミは亜希の震える背中をさすっていた。
その奥から、黒いシャツを着た恰幅の良い男性――店長が、難しい顔をして現れた。
「無事で何よりだよ、アキちゃん。……で、そちらが例の?」
「はい。隣に住んでいる浅井洋市さんです。事件の時も助けてくれて、今日もボディーガードとして付き添ってくれました」
「浅井です。この度は亜希さんの件でご心配をおかけしております」
洋市は営業用の名刺を差し出しながら、人畜無害なフリーランスの笑みを浮かべたつもりで自己紹介をした。
事前に打ち合わせた「不運なコスプレ案件の被害者」という設定も功を奏し、店長とエミからは明確な同情と感謝の目を向けられた。
「浅井さん、本当にありがとうございます。それで、今日の警護についてなんですが……」
店長が腕を組んで切り出した。
「私は道中や、お店の外周を見回って不審者がいないか警戒しようと考えていました。亜希さんに何かあれば、すぐに飛び込めるように」
洋市の提案に、店長は首を横に振った。
「いえ、浅井さんにはむしろ、店舗内で『客』として過ごしていただきたいんです。外をウロウロされると逆に警察に怪しまれるかもしれませんし、何よりアキちゃんのすぐ目の届くところにいてくれた方が、本人も安心でしょう」
「……なるほど。ですが、私はあまりお酒に強くなくてですね。長時間の滞在となると……」
「大丈夫です。ソフトドリンクやモクテルもありますから、それを飲みながら、不自然にならないように店内を見張っていてください。お代はもちろんいただきません」
店長の心ある提案に、洋市もそれ以上断る理由はなかったが、長居する上でドリンク代がタダというのが少し気になった。
「さすがにお代をいただかないのは心苦しいです。タダで居座るのも申し訳ないので、せめてドリンク代は自腹で払わせてください」
すると、それを聞いていた亜希が焦って止める。
「ダメですよ洋市さん! キャバクラほどじゃないですけど、ガールズバーのドリンク代だって馬鹿にならないんですよ! 店長、やっぱり今日の分は私の給料から引いてください!」
亜希が洋市を遠慮なく注意する様子を見て、店長は警戒度を下げた。
また、飲み屋の相場についてよく知らない様子にも、変に擦れてないと好感を持った。
「大丈夫だよ、お客さん一人が飲むソフトドリンクの杯数なんて知れてるし、しょっちゅう飲んでいればトイレも近くなるだろうからね。ここはウチが持つから、浅井さんもどうぞご遠慮なく」
大人の配慮を受け、洋市としてもこれ以上食い下がるのは良くないと判断し、次回プライベートで飲みにいけばいいかと納得した。
午後八時。
亜希の接客シフトが始まるタイミングで、洋市は正面入口から入店し、客を装って入口から見て一番奥のカウンター席に腰を下ろした。
まだ早い時間帯のため、客の入りはまばらだ。
店内は、入り口から見て左手側に長いカウンターが伸びており、その内側には色とりどりのお酒の瓶が並んだ棚と、ドリンクや軽食を用意できる簡易キッチンが併設されている。
提供されるフードメニューは、ピザやホットドッグ、フライドポテト、ポップコーンなど、アメリカンダイナーを意識した手軽なものが多い。
ただ、よくメニューを見ると、写真はないがおにぎり、お茶漬けも食べられるようで、そこは日本人の味覚に配慮しているのかと感心した。
『これでカレーがあれば完璧……おっと』
「洋市さん、こちらモクテルのシンデレラです。何かあればすぐ言ってくださいね」
チアガール姿に着替えた亜希が、少し照れくさそうにグラスをコトッと置いた。
「ありがとうございます」
洋市は一声かけて軽く会釈し、ストローでハイグラスに入ったトロピカルな液体を吸う。
『美味しいな、パインとオレンジと……ちょっぴりレモンかな?柑橘系は苦手だけど、これなら飲めるな』
口の中で酸味と甘味のハーモニーを楽しみつつ、静かに店内の観察を始めた。
さらに一時間が経過した午後九時頃になると、やや出来上がり気味のお客さんも入ってきて、なかなかにこのお店は盛況のようだ。
『……だんだん混んできたな』
時間が経つにつれて、常連客や二次会のグループなどが来店し、店内は徐々に賑わいを見せ始めた。
チアガールのコスプレをしたキャストたちは、コンセプト通り元気いっぱいの声で客を盛り上げ、カウンター越しに乾杯を繰り返している。
そんな明るい喧騒の中にあって、洋市だけが冷徹な視線を入り口に向け続けていた。
手元のスマホには、亜希から共有された「翔」の画像が表示されている。
少し長めの髪、整っているがどこか神経質そうな顔立ち。
そして色白の肌。
『……俺が殴ったときは、もっと肌の色が浅黒かった気がするんだが』
写真を見て抱いた違和感について、洋市は『最近になって変装目的で日焼けでもしたのか』と推測した。
ただ、現在店内にいる客の中に、不自然に日焼けしているような雰囲気の者はおらず、顔立ちや体型も翔とは違うように思える。
それでも、翔と似た特徴を持つ者がいないか、静かにチェックを続けていた。
飲み屋独特の喧騒こそあるが、場が乱されることもなく、平穏な時間が過ぎていく。
亜希も徐々に緊張が解けたのか、常連客らしき人物を相手に自然な笑顔を見せるようになっていた。
『……今日のところは、何事もなく終わるだろうか』
洋市がそう思った、まさにその時だった。
時刻は午前零時。
日付が変わった瞬間――バツンッ! という破裂音と共に、店内の照明が完全に落ちた。
「えっ!?」
「きゃっ! 停電?」
BGMが消え、天井のファン音も止まる。
客とキャストのざわめきが暗闇に広がる中、洋市は全身の毛が逆立つような感覚に襲われた。
『……なんだ、この空気は』
ゴブリンに変身していなくても分かる。
店内の空気が、物理的に温度を下げたかのように凍りついている。
それでいて、全身がピリピリと張り詰める。
その空気は、どこか、かつて死闘の森の夜で感じたような恐怖を思い起こさせた。
「亜希さん!動かないで!」
洋市は暗闇の中で叫んだ後、亜希のもとへ駆け寄り、カウンター越しに手を伸ばそうとした。
しかし、その手は虚しく宙を切る。
およそ十数秒後。
チカチカと照明が瞬き、パッと店内に明かりが戻った。
「あー、びっくりしたー」
「ブレーカー落ちたのかな?」
客たちが安堵の声を漏らす中、洋市は目を見開き、愕然として立ち尽くした。
つい十数秒前まで、カウンターの向こう側で笑っていたはずの亜希の姿が。
忽然と、消え失せていた。




