第四十話 昔話と魔王の影
「……よし、送信っと」
亜希はソファに座り、少し震えが落ち着いた指でスマートフォンの画面をタップした。
時刻は午後六時。ガールズバーの出勤時間まであと二時間。
自分の不安を落ち着かせた後、店長とキャストたちのグループチャットに、次の点についてメッセージで共有した。
『自分が無事であること』
『出勤は予定通りだが、護衛として信頼できる知人を連れていく予定であること』
キッチンでコーヒーを淹れていた洋市が、マグカップを二つ持ってリビングに戻ってきた。
最初の一杯は、洋市、亜希ともにブラックだったが、亜希からミルクと砂糖を入れて欲しいと要望を受け、二杯目以降はカフェオレを亜希に提供している。
洋市も塩顔に少し疲れを滲ませているが、その立ち振る舞いは、あくまで冷静なフリーランスのそれを意識していた。
もっとも、フリーランスという人種に会ったことがない亜希には、それがカッコいいかどうかなど、分かるはずもないのだが。
洋市はメッセージの内容が気になり、亜希に簡潔に質問した。
「亜希さん、職場の皆さんは何て?」
「店長も他の子も『アキちゃんが無事でよかった!』って言ってくれてます。ただ……護衛の人って誰?って聞かれてて。まさか彼氏なんて嘘でも言えないし、今回の件もあるのでどう説明すれば……」
亜希としては、元カレに襲われておいて、その対策として新しい彼氏を作るというのは、どうにも尻軽に思えて嫌だった。
しかし、家族など身内以外でボディガードを頼むのであれば、相応の実績や信用がいる。
この点について、亜希は自身と洋市の関係をどう説明すべきか悩んでいた。
「確かに『ゴブリンのコスプレをしてストーカーを撃退した隣人です』とバカ正直に言えば、誤解されたあげく警察を呼ばれるか、ちょっと古いですが電波な人間だと思われますかね。ただ、SNSのゴブリンマンのバズの影響自体はまだ残っているはずです。……それならいっそ、私が『そういう仕事(案件)を抱えていた可哀想な人』ということにしましょうか」
洋市はコーヒーをフー、フーと冷まして一口飲み、スラスラと設定を構築していく。
「事件の夜、私はとある新キャラクターのPR案件で、あのコスプレをして撮影の準備をしていました。そこで偶然、亜希さんがストーカーに襲われているのを発見し、咄嗟に助けに入った。しかし、警察沙汰になったことでPR案件はおじゃんになり、私は大損害を被った……。今はただの人の良い隣人として、責任を感じて護衛を申し出ている。綺麗にまとめればこんな感じでしょうか」
「えっ、でもそれだと洋市さんが……」
「同情はされた側の身を助けます。怪しい人間だと思われるより、ちょっと不運で気の毒なフリーランスだと思われた方が、店側も私を受け入れやすくなるような気はしますが」
「すみません、色々と気を遣っていただいて……隣に住んでいることはどう説明しますか?」
「これは私の人間としての顔が割れてしまえば、どうせ誰かにはバレるでしょう。ですから、配信はネットで行う予定でスタンバイしていて、そこで騒音が隣の部屋から聞こえたからDVに気付いた、と説明すれば、一応理屈は通るでしょう。別に犯罪のアリバイ作りってわけじゃありませんし、そこまで細かく詮索されるとは思いません」
「……分かりました。とりあえずメッセージ打ってみますね」
亜希はグループチャットでの反応について予測できず、まずは洋市の筋書き通りにメッセージを打ち込んだ。
するとすぐに「めっちゃ可哀想」「あのコスプレ案件だったの!?」「わざわざ助けてくれた隣の人良い人すぎる!」と、見事なまでに同情と好感触の返信があった。
ただし、男性の店長だけは少し反応が鈍く、一度会って話したいということだった。
『……キャストが面識が浅い男と一緒にいれば、そりゃあ不安になるか』
洋市は、概ね想定通りの反応だと納得しながら、さらに情報の深掘りへと移った。
「亜希さん。少し嫌なことを聞くかもしれませんが、翔という男について、改めて詳しく教えてもらえませんか? そもそも、なぜあそこまであなたに執着しているのか」
亜希は少しだけ視線を落とし、マグカップを両手で包み込みながら話し始めた。
翔とは、半年ほど前に、客として店に来た時に知り合った。
最初は羽振りが良く、優しくて紳士的な良客で、悩み相談に乗ってもらっているうちに恋仲になったそうだ。
そもそも、亜希がガールズバーで働き始めたのは、決して華やかな夜の世界に憧れていたからではない。
亜希はもともと、事務や経理を専門とするビジネス系の専門学校に通っていた。
日商簿記などの必要な資格も真面目に取得したが、いざ就職活動の段になると、経理職の正社員求人はどこも「実務経験必須」の壁が立ちはだかった。
未経験の専門学生を、ただちに正社員として雇ってくれる人的余裕のある企業は、人口30万人前後の地方都市である須田市であっても意外と少なかった。
首都圏への引っ越しは、専門学校を卒業したばかりの亜希には経済的に厳しく、非正規雇用の事務職などを転々とするしかなかったのだ。
加えて、亜希の実家は須田市の中でも田舎にあり、せめて少しでも有利な条件で就職するため、オフィス街近辺に引っ越すことを決断した。
そのような環境で、奨学金の返済や日々の生活に追われる中、手っ取り早く稼げる手段として選んだのが現在のガールズバーだった。
「将来に希望が持てなくて、ずっとこのまま夜の仕事を続けるのかなって不安だった時期に、翔が現れたんです」
ガールズバーで勤務する前、亜希は学生時代にお付き合いしていた男性がいたが、子供っぽくてすぐ別れてしまったという。
だからこそ、20代前半の亜希にとって、仕事の愚痴や将来の不安を否定せずに聞いてくれる、大人の余裕を持った翔の存在はとても大きく見えた。
手に入らない「安定」を、彼に重ねてしまったのかもしれない。
そうして大人の男が見せる優しさにほだされ、ほどなく交際が始まった。
だが、交際を始めて数ヶ月で態度は豹変し、極度の束縛、時にDVが始まったのだという。
別れを切り出すとモノに当たり散らし、家族への被害も匂わせるようになった。
だからといって許すと、これまでと変わらず暴力を振るう。
典型的といえば典型的なモラハラ気質だった。
「最初は、暴力をふるった後で急に優しくなったり、家から出て行ったかと思えば泣きながら戻ってきて謝ってきたりしてて。あんまり家族に恵まれていないって話も聞いたし、私が知る限り借金みたいなことはしてなかったから、私と一緒にいれば変わってくれるかな……なんて思っちゃって。今思えば、そんな態度だったから、あの人私に執着したのかもって」
洋市は、過去の依頼でDV加害者の行動サイクルをまとめた記事を執筆したことがある。
すべてがそうとは限らないが、多くのケースでは、次の3サイクルを繰り返すのだという。
ささいなことで加害者が言葉・態度を威圧的にする「蓄積期」。
ストレスが限界に達して暴力をふるう「爆発期」。
感情の爆発後に加害者が反省し、急に優しくなる「開放期(ハネムーン期)」。
このサイクルが繰り返されると、DV被害者は精神的に追い詰められ、やがては逃げることをあきらめてしまうという。
しかし、普段と違う様子の亜希を見た、エミというキャストが店長に相談したところ、彼女が逃げるのを手伝ってくれたそうだ。
「店長やエミちゃんには本当に感謝してるんです。昔、二人も似たようなケースで悩んでいて、そのときと同じ対策を立ててくれたんです」
亜希は、いつもと同じように翔と過ごしている最中、彼がイライラしてモノに当たり始めたタイミングで動いた。
悟られないよう「トイレに行く」とだけ伝えて立ち上がり、その足で玄関の鍵をこっそりと開けてから、トイレに駆け込んで内鍵をかけたのだ。
「そこで震えながら110番に電話して、小声で今の住所だけを警察に伝えました。すぐに翔が不審に思ってドアを叩き始めたので、スマホは通話状態のままポケットに突っ込んで……あとはずっと立てこもってました」
そうすることで、外で翔がドアを蹴り上げたり、暴言を吐いたりしている証拠の音声を、警察にリアルタイムで聞かせ続けたのだという。
万一に備え、店長とエミの二人も近くで待機していた。
パトカーのサイレンが家の近くで聞こえたとき、亜希は安心して大声で泣きそうになった。
「あらかじめ玄関の鍵を開けておいたから、警察の人たちがすぐに踏み込んでくれました。家具や壁に傷が付いていたから、現行犯みたいな形で翔を引き離してくれて……それで私は一時期、実家に籠っていたんです」
実家に戻った後、亜希の母は彼女に謝ったという。
『奨学金なんか借りさせたから』と、お金がない中で進学させたことを悔やんでいたそうだ。
「でも、母には感謝してるんです。ウチは片親だったけど、母が一生懸命働いてくれたから、専門学校も卒業できたんです。就職先が思うように決まらなかったのが誤算でしたけど、このバーの皆さんは本当によくしてくれて……引っ越し先も探してくれたし、休んでいるのにその間の応援金も包んでくれて……」
思わず涙ぐむ亜希だったが、そこで嫌なことを思い出したのか、再び顔を青くして話を続ける。
「その後、翔は警察と私に近づかない約束をして、それを聞いてからこのアパートにひっそりと引っ越したんです。でも、変装して店の近くにいて、どこかで私の後をつけていたみたいで……事件の夜、突然現れてからは、洋市さんもご存じの、通りです……」
洋市は、亜希に許可を取ってメッセージを見せてもらい、店長や他のキャスト目線での翔の情報を集めた。
店側の視点から見ても、翔は「金払いは良いが、裏で何をしているか分からない悪そうな男」だったらしい。
最近は亜希の件が表面化したことにより、店からも出禁を食らっていたという。
「お話を伺うだけだと、自己愛が強く、執着心の塊のような男ですね……。それがもし、人間の枠を超える力を手に入れていたとしたら、非常に厄介ですね」
洋市の言葉に、亜希がブルッと身を震わせた。
あるいは。
洋市は、この時点で、もう一つの恐ろしい可能性について思考を巡らせていた。
その執着や怒りは、もともと彼自身が持っていたものだけだったのだろうか。
それとも、死闘の森でノアから聞いたような、エルフたちを狂暴化させた『魔王の呪い』のような何かが、ある時期を境に、彼の負の感情を意図的に膨らませたのだろうか。
もし後者だとしたら、今、亜希を狙っているのはただのストーカーではない。
理性を失った、あるいはかろうじて理性をとどめている“魔物”かもしれない。
しかし、これ以上亜希を不安にさせないよう、洋市はそれらの懸念を胸の奥にしまい込み、まずはボディガードとしての役割に集中することにした。
「店長さんの方針は?どんな感じになるんですか?出勤させるっていったって、人前で勤務するのは危ないような気がするんですが」
「えっと……今日はあえてカウンターの目立つポジションに立たせるって話です。スタッフもお客さんも多い場所にいれば、いくらあいつが見境のない逃亡犯でも、迂闊には手を出せないだろうって」
「うーん、理にかなっているとは思います、暗がりや一人になる状況が一番危険でしょうから」
そこまで話したところで、ふと洋市は“護衛時間”について思い出した。
「そういえば、私が亜希さんを護衛するのって、今日の夜八時の出勤までなんですよね。護衛時間は延長ってことでいいですか?」
「延長!延長でお願いします!!」
亜希は食い気味で洋市に賛成する。
すると、洋市の頭にアナウンスの声が流れる。
> クエスト【契約・隣人の盾】継続中
> 受託条件:倉橋亜希の身辺警護(48時間継続)→(期限なし)
同じタイミングで、亜希のスマホにも通知が来る。
亜希は反射的にスマホの画面を確認した。
▶新機能「召喚」が追加されました!
▶召喚対象:ヨウイチ
「んなっ!?」
「どうしました」
「な、なんかアプリに新機能が……洋市さんを召喚?できるらしいですけど、意味がまったく分かりませんね」
「……こういうところは本当に反応が早いけど、どういう仕組みなのかまったく分からん」
とはいえ、クエストの継続は確定した。
ここで洋市は、新機能の確認の前に、店内外での対応を打ち合わせる。
「……亜希さんがお店の中にいるなら、道中と店の外周は、私が【隠形】のスキルを使って不審者がいないか索敵しましょう。何かあれば、すぐにゴブリンの姿で制圧します」
洋市の提案に、亜希は少しだけ安心したように頷いた。
お互いの役割と方針が明確に定まり、少しだけリビングの空気が弛緩した、その時だった。
――バチッ。
静電気のような音とともに、突然部屋の照明が落ちた。
窓の外、夕暮れの薄暗さだけが部屋を支配し、冷蔵庫のモーター音すら消えた。




