第四話
亜希、つまり襲われていた女性が震える手で110番し、電話越しに助けを訴えている間、洋市は暴漢の身体を取り押さえながら隙をうかがっていた。
単純に、現在の状況で警察官がこの部屋になだれ込んだとき、自分の存在について詳しく調べられることが容易に想像できたからだ。
窓から逃げよう。
洋市はそう決意していた。
問題はタイミングである。
自分が彼女の目線に入っている限り、実況中継的に自分の所在について報告されるのは容易に想像できる話だ。
『あっ、今私を助けてくれた人が窓から逃げていきました!』などと言われると、ローラー作戦で捕まってしまうかもしれない。
かといって、電話が終わってから雑談を始めてしまった場合、『怖いからここにいて欲しい』とか何とか言われて、警察が来るまで待つことになるだろう。
今は大人しいこの暴漢が息を吹き返し、女性を襲うことになるかもしれない。
洋市の考えがまとまらないまま、結局亜希は電話を切ってしまった。
「警察はなんて?」
フリーランスとして取材をやっていた性質が災いしたのか、状況を整理したかったのか、あるいは無言の間がつらかったのか、結局、洋市は亜希に話しかけてしまった。
「あの……すぐこちらに向かってくれるそうです。それで、その……ごめんなさい、犯人を取り押さえているなら、そのままでいて欲しいって」
洋市は困ったが、逆にコミュニケーションをとれるならチャンスだと思い直した。
「実は、私もこれから次の撮影が控えていて、すぐに現場に向かわないとならないんです。ロープか何かあれば、縛っておけるんですが、何かありませんか?」
「あ、あの、すみません。やっぱり怖いので、そのままの姿でいいので、一緒にいてもらえませんか?」
質問を要望で返されてしまったことで、いよいよ洋市はこの姿のまま、警察に出頭するのを覚悟した。
ここで逃げて、包丁を握っていた男性が女性を刺したなんてニュースになったら、逆に自分が犯人だと疑われるかもしれないと考えを改めはじめていた。
しかしどうする?
特殊メイクと説明するのは構わないのだが、外してくれといわれても自力で耳は外せない。
苦し紛れに洋市は亜希に言った。
「でも、逆にこんな姿の奴が部屋にいるのは、かえってあなたの立場を悪くするかもしれません。ご自身で捕まえたことにした方がよいのでは?」
「大丈夫です!あなたがしてくださったことを、きちんと警察の方にご説明します!お礼も言わず申し訳ありません!本当にありがとうございます!」
少し女性のテンションが上がっていると洋市は気付いた。
おそらく作り笑いだろうが、こわばりながらも笑顔を作っているので、本来は明るい人、または客商売をしている人なのかもしれないと判断した。
「すみません、自己紹介もまだで。私は……」
「いえ、大丈夫です。どのみち警察が来たら色々話すでしょうし、とにかく今は待ちましょう」
あやうく自己紹介するような空気になり、洋市は亜希が話し出すのを止めた。
隣に住んでいるなんて、とてもじゃないが話せる状況ではないと思ったのだ。
その後、取り留めのない会話もなく、サイレンの音が遠くから聞こえてきたため、洋市はいったん逃げるのをあきらめた。
『もうどうにでもなれだ』
涙で汚れたみっともない顔の男を取り押さえたまま、洋市は亜希が玄関の扉を開けるのを見ていた。
「いやー、それにしても恐ろしく精巧なメイクですね……。先ほど鑑識にも立ち会ってもらいましたけど、これ、本当に境目が見えない。皮膚そのものを移植したみたいだ」
警察署の取調室で洋市を担当した刑事は、不審者を見る目というよりは、半ば呆れ、半ば感心したような表情で洋市を見ていた。
洋市は内心の焦りを沈黙で塗りつぶし、フリーランスとして培った丁寧な物腰で応じる。
「恐縮です。……ただ、先ほども申し上げた通り、これは医療用の特殊な接着剤を使用しておりまして。専用の溶剤を使わずに無理に剥がそうとすると、皮膚を傷めてしまうんです。なにぶん、高額なプロジェクトのテスト中なもので……」
洋市が提示した「運転免許証」と、目の前の緑色の怪物の顔。
どう見ても同一人物には思えないのだが、警察側にも決め手となる根拠があった。
かつて、洋市はスピード違反で警察のお世話になったことがあり、指紋を提出した過去がある。
そのデータとの照合で、なんとこのゴブリンの指紋は一致していたのだった!
声紋はともかく、骨格は運転免許証の写真と一致しているらしく、こうして何とか洋市は不審者と判断されずに済んだのである。
「浅井さん、あなた一応フリーランスのライター?ブロガー?って話ですが、このメイク……自力でやったなら相当なもんですよ。まあ……今回は指紋も一致したし、被害者の女性も命の恩人だって泣いて感謝してる。だから今回は“正当な理由のある不法侵入”として処理します。ただ、次は……いや、次はもうないようにしてくださいよ。羊のパジャマで窓から入ってくるゴブリンなんて、心臓に悪い」
「そうしたいところです。……あの、一つお願いが。この姿でタクシーを拾うわけにもいかず、また近所の方にこの姿を見られるのも不都合がありまして。……自宅の近くまで、警察車両で送っていただけないでしょうか?」
洋市はあえて「仕事上の機密」を匂わせるように、申し訳なさそうな顔を作った。
(それがゴブリンの顔でどう映ったかは定かではないが)
刑事は溜息をつき、パトカーの手配を指示した。
「まあ、犯人の男は洋市さんを見たショックで『化け物に食われる!』ってパニック起こしてますからね。事件の早期解決にご協力いただけましたし、事情も分かりましたから、今回は対応させていただきます」
この国の警察は、意外と現場の判断に柔軟なところがあるようだ。
とにかく、最悪の事態は免れたのだと洋市は胸をなでおろした。
もっとも、パトカーが自宅に近づくにつれ、現実的な問題が頭に浮かんでくる。
隣人(亜希)が帰宅すれば、窓ガラスの件を含め、説明責任が生じるのは明白である。
さらに、いつまでもこの姿で居続けるのは難しいため、早急に変身を解かなければならない。
だが、その具体的な方法は依然として分からないまま。
そんなことを考えながら、洋市が警察車両の中で揺られていたところ、不意に頭の中に声が響いた。
>【クエスト:近隣住民の救出】を完了。
> 報酬:人間形態維持+240分。
> ボーナス:勇気の欠片(小)。
> 現在のレベル:ゴブリン・スカウト Lv.2
> 備考:ステータス表示は胸の紋章をタッチして閲覧可
『これは、あのときの無機質な声じゃない?ステータスって何だ?自分の状態が確認できる?』
さらなる摩訶不思議な要素が出てきたな。
そう思いながら、洋市は今後のことをもう一度、疲れた頭で考え始めた。




