第三話
洋市が壁に耳をそばだてていた頃、その部屋では刃傷沙汰に発展しそうな、一触即発の空気が漂っていた。
部屋の住人である亜希は、目の前で包丁を握っている金髪ツーブロックの男性、元カレの翔を見て怯えている。
「だからもうやめてください!私はあなたと別れたんです!近づかないでください!」
「マジに何言ってんの。お前に分からせないとダメだな。お前が俺の気分を害するから」
奨学金返済のため、1年前からガールズバーで働いている亜希は、半年前に上客に出会った。
いつも自分を指名してお酒・お料理を頼んでくれるだけでなく、職場や学校の人間関係で相談にも乗ってくれたので、彼氏・彼女の親しい関係になるのにそう時間はかからなかった。
しかし、付き合い始めてから、自分本位な態度が目立つようになる。
「今日は俺がいるんだから仕事休めよ」
「あの客は態度悪いから切っちゃえ」
「お前、ちょっとバカなんじゃないの?普通はそんな風に言わねえだろ」
「お前は俺なしじゃやっていけないんだから、俺に感謝しろよ」
次第に精神を病み始めていることに気付いた亜希は、店長や友人に相談し、複数人の立ち合いのもと別れた。
次に、居場所を知られないよう引っ越して、店内には出入り禁止としてもらった。
問題だったのは、翔が粘着気質で、ストーカーをするような性格だったことだ。
体重を落として変装し、金髪のツーブロックで雰囲気を変え、何食わぬ顔で夜の街に溶け込む。
あとは、亜希が店から出てくるのを待ち、新しい家まで尾行すればよかった。
そして今、翔は亜希と対峙し、今まさに彼女を再び自分のものにしようと画策している。
そもそも包丁を持っている時点で望み薄なのだが、彼の頭には自分のプライド、または想いを傷つけられたことへの怒りしかないようだ。
「……私は、もうあなたのことが嫌いなんです。あなたとは一緒にいられません!」
「じゃあ、お前を殺して俺も死ぬわ」
「他の人を探せばいいじゃないですか、どうして私じゃなきゃダメなんですか!?」
「お前じゃなきゃダメなんだ、そのお前がダメなら、お前と一緒になるにはお前を殺すしかないだろ?」
翔の論理はまったく的外れだが、本人はそれで納得しているようだ。
殺意なのか愛情なのか、奥暗く光る元カレの眼を見て、亜希はこの状況をどうやって打破すべきか考えて、あきらめてを繰り返していた。
──誰か、警察に連絡してくれていれば──
そんな思いを抱く中、果たしてやって来たのは、緑色の怪物だった。
リビングの窓ガラスを壊して、なぜか羊のマスコットがたくさんプリントされたパジャマを着た姿で。
亜希も翔も、何者がやって来たのか分からず言葉に詰まった。
無意識に翔は、危険度の高い怪物に向かって包丁を向けた。
それを見た怪物は、すぐさま翔に飛び掛かる。
とっさのことに、振り下ろすことも、薙ぎ払うことも、刺すこともままならず、翔は包丁を持っていた右手を爪で切り刻まれた。
続いて怪物は、翔を何度も殴りつけた。
時には引っかくようにして、ひたすらにダメージを与え続ける。
やがて翔は泣きながら「ごめんなさい」「許してください」と連呼するようになり、怪物は彼の右手を取って腰に沿えるように取り押さえ、後ろ手にホールドした。
亜希はあっけにとられていた。
目の前で何が起こっているのかも、今、翔を取り押さえているのが誰かのかも分からない。
そして、自分を助けたのは、明らかに人間ではない、異形。
完全に思考が停止していた。
しかし、怪物はそれを理解していたかのように、亜希に話しかける。
「ごめんなさい、これ特殊メイクで、さっきバズり狙いの動画撮影してたらたまたま声が聞こえたから……警察呼んでください!」
「……えっ、あっ、はい!ええと、110番……」
本来なら色々と考えるべきシチュエーションで諸々をすっ飛ばし、亜希は警察に電話した。
襲われている女性を助けようと思い立った洋市だったが、そもそもどうやって部屋に入るべきか、最適解が見つからなかった。
チャイムを鳴らしても扉を開けてくれるとは思えないし、かえって男が焦って大変な事態に至る危険性もある。
そこで考えたのが窓だった。
このマンションのリビングに面した窓には、小さなバルコニーのようなスペースがあり、細身ならバルコニー部分に立って動くこともできる。
自分の足のサイズなら、長時間でなければ窓の前に立って様子を見られるだろう。
そう洋市は考えていた。
問題は、隣のバルコニーまで自力で移動できるかどうか。
一般的な男性の筋力はあると思うが、隔板を越えるには手すり壁をつたって移動しなければならず、万一足でも滑らせたら自分が一大事だ。
おそるおそる左足を手すり壁に乗せ、隔板を両手でつかみながら、右足を隣のバルコニーへと移動させる。
『あれ?思ったより簡単に動けるな』
自分が想定していたよりも、どうやら自分は身軽だったようだ。
問題なく窓へとたどり着くと、そこには震えている女性と、その女性に向けて包丁を向けている男性の姿が見えた。
瞬間、洋市の身体は窓ガラスを破り、男性に飛びかかっていた。
とっさの判断だったが、当の本人は、頭の中だけは冷静だった。
というより、思考が行動に追いついていなかった。
『俺が突入しないと死ぬ』
そんな思い込みのような直感、というか衝動に突き動かされたのか、洋市は考えなしだった。
相手が包丁を持っているとの認識から、とにかく包丁を持っている右手を何とかしようと思った。
すると、身体は実に素直に、迷いなく男性の右手を攻撃した。
洋市は、生まれてこのかた、殴り合いの喧嘩などしたことがない。
幼少期にはあったかもしれないが、物心がついてからは、基本誰かと取っ組み合いになった経験などないのである。
格闘技も憧れるだけで、道場に通ったこともなければ、独学で勉強したこともない。
そんな人間が、直感的に“敵”とみなした存在に攻撃しているという事実を、本来であれば洋市は疑う必要があった。
しかしながら、洋市はそれを“とっさのこと”と理解し、今そこにある危機を回避するため名も知らぬ男性を殴ったり、引っかいたりしていた。
自分とは違う人格が身体を動かしているというわけでもなく、手や爪に感触を覚えながら、洋市は冷静に無力化を試みていたのだった。
次第に男性の顔は恐怖でくしゃくしゃになり、やがて涙を流しながら洋市に謝っていた。
そこで気付いた。
『俺、ゴブリンのまんまじゃん!』
このままでは、単なる変質者、または強盗などと間違えられる。
自分が警察の御用となるのは勘弁だった。
ええと、どうする、どう言う、何を話す?
今日は何の日?
何月?
10月だ、そうだ、ハロウィン!
とっさに連想力を働かせた洋市は、呆然としている女性に、こう言った。
「ごめんなさい、これ特殊メイクで、さっきバズり狙いの動画撮影してたらたまたま声が聞こえたから……警察呼んでください!」
いやどうだろう?
これで納得してくれるだろうか?
そう思っていると、女性は夢から醒めたような顔をして、110番通報した。




