第二十八話
ノアは、洋市と亜希を部屋まで見送る間、自分の行動を反省していた。
命の恩人を、自身の観察対象として見ていたこと。
自分の好奇心に任せ仮説を述べ、洋市を不安にさせたこと。
これらの軽率な行動が、冷静になったノアの心を傷つけていた。
『……ちょっと調子に乗りすぎた。よくよく考えたらヨウイチがどんな人間かも分からないのに、レアな魔王の呪いってだけで無責任に仮説まで立てて。悪いことしちゃったな』
結局、宿屋の部屋まで洋市と亜希を見送るまで、ノアは雑談らしい雑談もできなかった。
言葉が通じない亜希を不安にさせたくないという気持ちもあったが、洋市がドアノブに手をかけたところで、ノアは覚悟を決めて口を開いた。
「……ねえ、ヨウイチ。さっきは本当にごめんなさい。地下室で、あなたがあんなに深刻な状態だって知らずに、呪いのことではしゃいじゃって」
自分が知識欲を優先し、呪いに怯える洋市の心境を慮れなかったことについて、ノアは素直に謝ることにした。
このあたりは、神官を目指していた頃の生真面目さと、研究者特有の好奇心が同居しているのが伺える。
「いえ、謝らないでください。ノアさんが呪いについて説明してくれたおかげで、私たちも自分の置かれている状況が少し整理できましたから」
一方、洋市は歩いている間、少しずつ冷静さを取り戻しつつあった。
確かに自分が魔物になるのは怖いが、現段階では人間の姿でいられるのであり、ゴブリンになった理由らしきものも知れた。
もちろん、最終的には制限時間なく人間の姿に戻れるようになりたいが、人助けを続けていれば魔物化は防げる。
よって、まずは少しでも人助けをして、人間になれる時間の最大値を増やすことに意識を向けることにしたのだった。
洋市は、フリーランスとして、取引先に角を立てない柔和な笑顔を意識して首を横に振った。
「それに、バルカスさんがあれほど親身になってくれたのも、ノアさんたち『アサンの水源』の皆様が味方になってくれたおかげです。本当に感謝しています」
「そう言ってもらえると救われるわ。……それで、明日、本当に死闘の森へ向かうのね?」
ノアの問いかけに、洋市は真剣な眼差しで頷いた。
明日の午後八時、正確には亜希が出勤に間に合うまでにワープポイントのパキラまで移動し、無事亜希を職場まで送り届けなければならない。
「はい。呪いが進行し、完全に理性を失って魔物に成り果ててしまう前に……あそこへ行かなければならないんです。ただ、一つノアさんにお願いがあります」
「お願い? 何かしら、言ってみて」
「あの森には、呪いに関するデリケートな痕跡が残っているかもしれません。他の魔力が干渉すると、手がかりが消えてしまうかもしれない。ですから……明日の探索で泉に到着した際は、皆様には泉の周辺の警戒をお願いし、泉の奥には私とアキの二人だけで行かせてほしいのです」
「えっ……でも、それだとヨウイチたちの安全が守れない」
「皆さんには、素性も分からない私たちのことで、本当にお世話になりました。だからこそ、これ以上ご迷惑をかけたくないのです」
洋市の言葉は、半分本当で半分嘘だ。
本当の部分は、予期せぬ戦闘が起こってしまった際、万一にもワープポイント「パキラ」が消えてしまうリスクを減らすため。
そして嘘の部分は、自分たちが日本へのワープポイントを知っていることを知られないようにするためである。
洋市は、今のところノアやアルトヤ界(レゾルグ王国)の人々を信用している。
しかし、ワープポイントについて把握することがあった場合、何者かが意図せず日本にやって来る可能性が生じる。
もし、異世界への移動がトリガーになって、誰かが魔物化するとしたら。
例えば、バルカスやノア、セミーン、ガッタ、マンナが魔物になることがあったら。
その場合、洋市はまったくもって責任を取ることができない。
そうでなくても、異界の地でどう振舞えばよいか分からず、もし帰れなくなったら大変なことになる。
だからこそ、ワープしてこの世界から消える瞬間を、絶対に見られるわけにはいかない。
理屈の裏に、心から気持ちのよい人々の安寧を案じた洋市の提案に、ノアは少し考える素振りを見せた後、力強く頷いた。
「……分かったわ。異界の術理は、この世界の魔法と干渉し合うかもしれないしね。私たちは泉の周囲を固めて、どんな魔物もあなたたちに近づけないようにする。ただ、森の中はどうしようもないから、その点はごめんね。でも、きっと何とかできる算段があるんでしょ?」
「ありがとうございます、ノアさん。恩に着ます」
「いいのいいの!あなたは命の恩人なんだから!じゃ、私はガッタたちのところに戻るわ。今夜は砦の防衛戦の勝利を祝う宴だから、また後で呼びに来るわね。全然かしこまった場じゃないし、討伐した魔物を食べて酒を飲むだけだから、ぜんぜん気楽にしてて大丈夫よ」
洋市が深く頭を下げると、ノアは言葉を交わしてウインクをし、その後ひらひらと手を振りながら、明るい足取りで廊下の奥へと消えていった。
ノアの背中が見えなくなったのを確認し、洋市と亜希は部屋の中へと入る。
木の扉を閉め、内側からかんぬきを降ろした瞬間、洋市はベッドの上に倒れ込む。
そして、右手で紋章に触れ、ゴブリンの姿へと戻った。
アナウンスを聞きつつ、
> クエスト【契約・隣人の盾】継続中
> 受託条件:倉橋亜希の身辺警護(48時間継続)
> 報酬:20時間経過。人間形態維持+200分(700/1170分)
> 変身解除/変身時間:残695分
腹の底から深く、重い息を吐き出した。
「……死ぬかと思った」
その一言には、魔物との戦闘とは全く別の、胃を削られるような精神的疲労が詰まっていた。
「……お疲れ様です、洋市さん」
亜希も隣のベッドに腰掛け、抱えていたリュックを横に置いて脱力している。
二人だけの空間になり、ようやくピンと張り詰めていた緊張の糸が緩んだ。
「亜希さんも、ナイスアシストでした。あの場で『森の中に答えがある』と囁いてくれなかったら、私は気の利いた言い訳も思いつかず、砦に軟禁されていたかもしれない」
ベッドに仰向けになったまま、洋市は天井を見つめて言った。
「いえ……ごめんなさい」
褒め言葉をかけたはずだが、亜希の声はどこか沈んでいた。
洋市が上体を起こして彼女を見ると、亜希は膝の上で両手を強く握りしめ、俯いていた。
「私、あの時……洋市さんの本当の気持ちを考えていませんでした」
「本当の気持ち?」
「地下室で、あの日本の服を着てた人たちが、完全に魔物になってしまったって聞いたとき……洋市さん、本当に顔面蒼白でしたよね」
亜希の言葉が指した場面を洋市は理解した。
確かに、自分が完全に魔物になる可能性があると知ったとき、自分は純粋に恐怖に支配されていたと。
完全に魔物に成り果て、人間の姿に戻れなくなる恐怖。
それは演技でも何でもない、浅井洋市という個人が抱いた根源的な恐怖だった。
「私、明日の夜八時に出勤しなきゃいけないから、早く日本に帰る口実を作らなきゃって、自分の都合ばかり押し付けてました」
亜希は涙声で続ける。
「日本に帰ったからって、洋市さんの呪いが解ける保証なんてどこにもないのに……自分が魔物になるかもしれないって怯えてる人に、帰るための誘導をさせて……」
亜希の目から、ポロリと涙がこぼれ落ちた。
ガールズバーのキャストという、感情労働の最たるものの一つに従事している亜希は、客の一言一言に過剰に反応している暇はなかった。
だから、今回も自分にとって最善と思える反応を選んだだけのつもりだった。
しかし、洋市は客ではない。
自分の事情を省みず、自分を守ってくれている、ヒーローのような存在だと亜希は感じていた。
それゆえに、自分の軽率な発言を、少し冷静になった今、本気で悔やんでいた。
洋市はそんな姿を見せる亜希に苦笑しながら、ぽりぽりと緑色の顔をかいた。
「気にしないでください。亜希さんの判断は、この状況において間違いなく“最適解”でしたよ」
「……え?」
「確かに、あの服の抜け殻を見た時は本気でビビりました。でも、だからこそ、一刻も早くこのアルトヤ界を離脱して、日本の安全な場所で態勢を立て直す必要があるんです」
洋市は自分の胸にある、紫色の紋章に目を向けて、話を続ける。
「このまま異世界で、行き当たりばったりに魔物を倒し続けていたら、それこそいつか自分が自分でなくなってしまう。日本に帰れば、インターネットも使えるし、現代の知識で対策を練ることもできる。亜希さんが強引にでも森へ戻る理由を作ってくれたおかげで、最強の護衛付きでワープポイントまで向かう切符が手に入ったとも考えられます」
洋市の言葉は、強がりでも慰めでもない、フリーランスとして培ってきた打算的なポジティブさに裏打ちされていた。
「それに、収穫もありました。戦闘に参加したことで、彼ら『アサンの水源』の信頼を決定的に勝ち取れた。まあ、結果オーライというやつです」
洋市がそう言って笑うと、亜希は袖口で乱暴に涙を拭い、小さく吹き出した。
「ふふ……洋市さんって、結構図太いんですね」
「これでも、事態を前向きに考え直すことは得意なんです。そうしないと、どんな仕事でもやってられませんからね」
実際、状況が変化する中で、何とか最善手を選び続けることができた。
夕飯も手に入り、明日の朝からの行動予定も明確になった。
そして、自分たちの秘密を悟られることなく、ノアに事情を説明できたとも思っていた。
しかし、洋市は少しだけ懸念点があった。
『セミーンさん、またはマンナさんは、まだ自分のことを少し疑っている節がある。日本人だけが遭難していることを考えると、アルトヤ界の人間がワープできるような仕様ではないと思うが、やはり念のため共有しておいた方がよいだろうか』
考え込む洋市を見て、不安になる亜希。
その様子が目に留まった洋市は、いったん話題を変えることにした。
「亜希さん、お疲れ様でした。あとは今夜の宴を乗り切って、明日のミッションを完遂するだけです。亜希さん、スマホのバッテリーは大丈夫ですか?」
「……えっ、はい、圏外だと減りが遅いみたいで、まだ70パーセントくらい残ってます。拾ってきた小さな魔石は砦に返さなきゃいけないらしいですけど……あのヒュージウルフの大魔石があれば、ワープの条件は確実にクリアできるはずです」
洋市は頷いた。
異世界への転移、魔王の呪い、そしてスマートフォンに強制インストールされた謎のアプリ。
不確定要素ばかりだが、手元にあるカードを使って生き残るしかない。
窓の外を見ると、日は完全に落ちており、砦の中庭からは防衛戦の勝利を祝う兵士たちの喧騒が聞こえ始めた。
肉を焼く香ばしい匂いが部屋にただよい始めた頃、ノアがドアをノックした。
「ヨウイチ!これから夕飯だから!一緒に食べよ!アキも連れてきて!」
「ありがとうございます、今行きます!」
洋市は亜希に、これからパーティーが始まるようだと伝えた。
「さて……腹ごしらえに行きましょうか。異世界のご飯、美味しいといいんですが」
「匂いは美味しそうですけどね!行きましょう!」
洋市と亜希は顔を見合わせ、長かった一日の疲れを少しだけ笑い飛ばすように、二人そろって立ち上がった。




