第二十六話
亜希は、移動中にリュックサックの上部にスマホを入れておき、ボリュームを下げて翻訳機能で全員の会話を和訳して聞いていた。
そこで、どうやら洋市が魔王の呪いとやらで今の状況になったこと、そして事情を聞かれていることを察した。
亜希の人物評として、基本的に洋市は嘘が下手な人間だと思っている。
言いたくないことを言わずにいることはできるが、自ら積極的に嘘を言って場をまとめる能力には乏しい。
であれば、自分が日本に戻れるよう発言を誘導しよう。
まずは、自分たちに危害を加えられないよう、洋市さんをサポートしよう。
したたかに考え、持ち前の度胸で亜希は洋市の誘導を試みたのだった。
ノアが洋市に質問する。
「森の中って……そういえば、記憶がないって話だったけど、その紋章のことも、知らないの?」
洋市はうなずく。
実際、変身できることやステータスを見られることは分かっていても、どうして自分がそうなったのかについては、まったく見当がついていなかった。
その場にいる誰もが、次にどんな言葉を発すればよいのか戸惑っていると、バルカスが口を開いた。
「……ひょっとしたら、遭難者の持ち物を見れば、何か思い出すかもしれないな。ヨウイチ、ちょっとその嬢ちゃんと一緒に来てくれないか。お前らも一緒だ」
この時点で、バルカスには少し心当たりがあったが、にわかには信じがたい話だった。
『呪いについて知らないってことは、他国どころか、この世界にいること自体が……?』
核心に近づきつつあるバルカスだったが、実際にそんな状況が成立するのか想像がつかず、今はただ洋市たちの反応を見ることに専念するのだった。
バルカスの案内に従い、洋市と亜希、そして『アサンの水源』のメンバーたちは、砦の地下にある薄暗い保管庫へと足を踏み入れた。
ひんやりとした空気が肌を刺す。
松明の灯りに照らされた室内には、武器や防具の予備に混じって、いくつかの木箱が積まれていた。
「……ここ最近、死闘の森の入り口付近で見つかった遭難者の遺留品だ。見てみな」
バルカスが一つの木箱の蓋を開け、中に入っていた布の束を長机の上に広げた。
それを見た瞬間、洋市と亜希は同時に息を呑み、思わず顔を見合わせた。
広げられたそれは、アルトヤ界の住人が着るような麻の服でも、革の鎧でもなかった。
火事に巻き込まれたかのように焼け焦げたダウンジャケット。
スウェットのパーカー。
カクテルドレスとパーティーバッグ。
泥と血にまみれたビジネススーツのジャケットと、ネクタイの切れ端。
『これ……日本の服じゃないか!』
洋市の塩顔に驚愕が張り付き、眉間にしわが寄る。
パーカーの胸元には、日本でもよく見かけるファストファッションブランドのロゴが微かに残っている。
スーツの裏地には「Yoshida」とローマ字でネームの刺繍まで入っていた。
亜希も口元を両手で覆い、ガタガタと震えている。
洋市は慌てて彼女の背中に手を添え、大丈夫だと宥めるように軽く叩いた。
「どうだ、ヨウイチ。何か見覚えがあるか?」
バルカスの問いかけに、洋市は必死に動揺を押し殺しながら答えた。
「……はい。この服の意匠……私の故郷のものです。間違いありません」
「やっぱりか。お前さんたちの着ている服、特にその嬢ちゃんの服の縫製が、この遭難者たちのものと酷似していたからな。……だが、妙な話だ」
バルカスは腕を組み、血痕のあるスーツのジャケットを指差した。
「この遺留品が見つかった場所には、血の跡も争った形跡もあった。だが『亡骸』が一つもなかったんだ」
「亡骸がない?」
「ああ。最初は、凶悪な魔物に骨ごと食われたか、火の魔法を使う魔物に燃やし尽くされたかだと思っていた。死闘の森なら、そういうことも珍しくはないからな」
バルカスが淡々と語る事実の裏で、洋市は嫌な汗をかいていた。
骨ごと食われる。
自分が大蛇になって、巨大なオオカミを丸呑みにした感触が、ふと蘇る。
だが、ここで今まで黙って遺留品を観察していたノアが、顎に手を当てて深刻そうな声を上げた。
「……バルカスさん。私、別の可能性に気がついたかもしれないわ」
「なんだ、ノア。魔物の仕業じゃないってのか?」
「魔物の仕業よ。でも、外からの攻撃じゃないわ。……内側からよ」
ノアは、焼け焦げたダウンジャケットの背中部分をそっと持ち上げた。
そこには、まるで内側から何かが破って飛び出したかのような、大きな裂け目があった。
「ヨウイチの姿を見て、一つの仮説が立ったの」
ノアは全員を見回し、そして洋市を真っ直ぐに見つめた。
「彼ら遭難者は、魔物に食われたんじゃない。……彼ら自身が、呪いによって魔物そのものに完全になり果ててしまったんじゃないかって」
「なっ……!?」
ガッタとセミーンが同時に声を上げた。
「人間を魔物に変える呪い。ヨウイチは奇跡的に人間の姿に戻る術を持っているけれど、もし、その呪いに完全に呑み込まれたらどうなるか。……人間の肉体は魔物の細胞に書き換えられ、着ていた服だけが抜け殻のように残る」
マンナがすかさず指摘する。
「ちょっと待ってよ、ヨウイチさんは人間の姿じゃないの!?」
ノアは肯定して推測を続ける。
「今はね。この人はゴブリンスカウトに変身できるの。そして、この服の持ち主たちは……おそらく、どこか遠い異界から、何らかの理由でこの世界に召喚されたか、転移してしまった人たちよ。そして、森に迷い込んだ直後に呪いを受け、自我を失い、完全な魔物として森に消えた……。そう考えれば、遺体がないことの辻褄が合うわ」
司令室にいた全員が、洋市が決して弱くはないゴブリンスカウトに変身できるという事実と、恐ろしい仮説に沈黙した。
そこで、魔法に詳しくないガッタが、ある意味では当然といってもよい質問をノアに投げかける。
「……あのよ、俺は魔法に詳しくないから聞くんだけど、召喚とか転移ってどういうことだ?いわゆる召喚魔法のことか?」
「魔界や神界から、強力な魔物や天使を召喚する魔法の、さらに強力なものを使ったんだと思う。魔王との戦いがあった時代、この世界で暮らす人類が太刀打ちできなかった頃、禁忌として選んだ方法の一つとして神都には伝わっている」
「それ……何だ?」
「異世界転移」
『『!!??』』
洋市と亜希は、まさか自分たちが生きている世界で聞いた単語を、異世界で聞くことになるとは思わなかった。
まさか実在するとは。
まさか自分たちが当事者になるとは。
ノアは続ける。
「神官になれなかったから、私も詳しくは知らないんだけど、異世界から来た人間は強力なスキルを得て転移する傾向が強かったらしいの。その中でも特に強力なスキルを持っていた人間が、いわゆる“勇者”として認知された」
さらにノアは続ける。
「ここからはガッタも知ってるでしょう?勇者たちは突如この世界に現れ、魔王軍と戦いながら領土を取り返し、仲間たちと子孫をもうけた。子孫たちはさらに強力なスキルに恵まれ、やがて勇者一族は魔王を討伐した。三世代にわたる壮絶な戦いの物語」
ガッタはうなずく。
「……でもね、私が受験で勉強した範囲に限って言えば、魔王の遺体が確認されたって話は、どの文献にも記載がないの。ここからは私の推測になるけど、魔王はまだ、どこかで生きている可能性もあると思う」
マンナがノアを止める。
「ちょっと!それ言って大丈夫なやつ!?」
「別に法律で禁止されてないでしょ。神都の戒律ではどうか知らないけど。私は試験不合格だったし、今後受験する予定もないし、別にいいわ」
ノアは、一通り考えを述べた後、洋市の方を向いた。
『……震えてる……?でも、ヨウイチは人間に変身できるし、多分完全に魔物になっても無害だから大丈夫だと思うけど……どうフォローしたらいいかな』
声をかけようと試みたが、よく考えたら洋市が変身できる術理について自分も知らないと思い、ノアは想像だけで話を進めたことを後悔したのだった。
異世界からやってきた人間が、強制的に魔物にされ、森を彷徨う化け物になる。
それはパーティーの面々にとって、死闘の森の深淵を覗き込むような、背筋の凍る推論だった。
だが、誰よりも深い絶望と恐怖を感じていたのは、他でもない洋市だった。
『……っ!』
洋市の脳裏に、自らの視界に浮かぶ無機質なアナウンスがフラッシュバックした。
[人間味] 70/100
この数値がゼロになった時、自分はどうなるのか。
その答えが、目の前の血まみれの服なのだ。
浅井洋市という人間の肉体は消滅し、二度と人間の姿に戻れない完全なゴブリンになるかもしれない。
あるいは、人間としての記憶や自我すらも失い、この異世界でただの「経験値」として冒険者に狩られるだけの存在になるのかもしれない。
『冗談じゃない……。俺が、あんな風になるっていうのか』
洋市の呼吸が浅くなる。
隣を見ると、亜希も顔面を蒼白にしていた。
彼女もまた、翻訳アプリを通してノアの推測を理解し、洋市の未来を悟ったのだろう。
『洋市さん……まさか……そんな危険な状況にいるなんて……』
二人とも、これから始まる壮絶な未来を想像して、先のことを考えられなくなっていた。




