第二十話
胃につまった「親玉候補」だったオオカミが、ゆっくりと、だが確実に消化されていくのを、洋市は実感しながら森の奥へ向かった。
魔物特有の消化システムによるものか、40代男性の消化能力をはるかに超える勢いで、全身に元気がみなぎるのを感じながら。
幸い、移動スピードが速いのか、それとも体長が長いからか、砦周辺の喧騒からはすぐ離れることができた。
とぐろを巻いて木々の陰に隠れ、完全に消化が終わったと感じてから、胸の紋章へと舌を伸ばしゴブリンの姿に戻った。
赤い光が収束し、視界がぐらりと歪む。
天を突くような大蛇の視座から、ほぼ人と同じ目線の、緑色のゴブリンの姿へと戻った。
口の中に血の味も、生肉の生々しい臭みも一切残っていない。
ただ、上質な栄養をたっぷりと摂取した後のような、満ち足りた活力だけが全身にみなぎっていた。
『……マズいな。全然、気持ち悪くない』
洋市は鋭い爪の生えた自分の両手を見つめ、人間としての感覚を失い始めていることを、改めてまずいと思った。
人間だった頃なら、生きた動物を丸呑みにするなど、想像しただけで吐き気がしたはずだ。
だが今の自分は、無意識的にそれを効率的な食事、合理的な戦術と判断している節がある。
身体が勝手にゴブリンから人間に戻らないように、自分の心もまた、自ら意識して人間側へ引き戻さなければ、あっという間に魔物に呑み込まれてしまうのかもしれない。
『そもそも、人間味がゼロになった場合、俺はどうなるんだ?』
誰も、その質問に答えられる者はいない。
少なくとも、今この時は。
「……おい、ガッタ! あのヤバいヤツはどこ行った!?」
セミーンは、周囲にいたストラグルウルフを一掃した後、親玉候補が走り去っていった跡を調べるガッタに声をかけた。
「……分かんねえ! ものすごいプレッシャーが一瞬で消えたと思ったら、他のウルフはみんな戸惑ったから、多分、他の魔物に食われたんじゃねえか?」
親玉候補を失ったことで統制が崩れたストラグルウルフの群れは、自分たちの強化が切れたことに気付いてから、戦っている戦士たちの強さに急に怯え始めた。
その状況を見た二人は、強化が切れたと判断し、剣と斧をふるって残党の首を刈った。
その他の拠点にいたウルフの群れも、散り散りに森の奥へ撤退を始めたと、駆け足で報告に飛んできたマンナから確認した。
一応、これで砦の安全は確保できたことになるが、ガッタもセミーンも、なぜそのような状況に陥ったのか納得のいく仮説を立てられていない。
『なーんか……不自然なんだよなあ。俺たちと同じ冒険者や砦の戦士だったら、わざわざ隠れて俺たちを援護する必要がない。誰かから逃げていたのか、隠れていたのか』
セミーンは、ネガティブにこそ考えていないものの、ガッタほど状況を楽観視していない。
自分たちよりも圧倒的に強く、自分たちを遠方から援護できるような存在が、正体を現さず近くにいるというのはぞっとしなかった。
引き続き、セミーンは仮説を立ててはそれを潰していく。
他の戦闘がどこかで発生していて、それをストラグルウルフの群れが中断させた?
それなら、あえて自分たちを援護する理由が見当たらない。
砦の誰かを殺す目的で向かった暗殺者が、途中で正体がバレない範囲で一時的に共闘を試みた?
それなら、先に自己紹介して信用を勝ち取った方が、暗殺のチャンスは増えるだろう。
砦の人間を助けたいが、自分の能力や素性は隠したかった?
……これなら当てはまるが、そんな人間が近くにいるだろうか?
情報収集が必要だ。
セミーンは、いったん砦に戻って状況を整理してから、また考え直すことにしてガッタを呼んだ。
「ガッタ!もうここには脅威はない!砦に戻ろう!」
亜希は、洋市と離れてから、結局砦の内部に避難させてもらった。
バルカスという、ひげもじゃの頼りになりそうなおじさんもいるし、多くの人が「自分は言葉が通じない」ことを知っているから、という理由で。
実際、言葉はまったく分からなかったが、宿屋のおばさんが身振り手振りで倉庫に隠れるよう教えてくれた。
倉庫には亜希以外誰もおらず、スピーカーホン状態で翻訳を続けているアプリによると、どうやら砦に戦えない女子供はほとんどいないらしい。
扉の向こうから声が聞こえなくなったのを確認して、亜希はスマホの画面の字幕を見る。
【字幕】:「もう一人の寝間着はどうした!?」
【字幕】:「分かんない!便所にでもいるのかねえ」
【字幕】:「俺が探しておく!お前はもう避難しろ!町まで逃げられるか!?」
【字幕】:「多分無理さ、囲まれてる、心配すんなって、アタシだって少しは戦えるさ!」
亜希は、洋市のことを説明できず、しかも戦わせるようなことになり、心底申し訳ない気持ちだった。
あの時、どさくさに紛れて日本に帰っていた方が、よっぽど自分が生き残れる確率が高かったのではないかと。
『洋市さん、本当は戦いたくなんてなかったんじゃ……』
自分の軽率な発言を悔やみ、そして今の自分が何もできないことが情けない。
暗い気持ちのままスマホの画面を見て、アルトヤ観光ガイドのトップページに戻ると、メッセージが2件追加されているのを見つけた。
『これ、何だろう?』
亜希が何気なくメッセージに目を通すと、そこには驚くべき内容が書かれていた。
【アルトヤ界観光ガイドへようこそ!】
▶ 本アプリは、異世界アルトヤ界を安全かつ快適に旅するためのサポートツールです。
▶ 現在提供中の基本機能:自動翻訳(音声・テキスト)、周辺マップ表示。
▶ ユーザーの行動や同行者のステータス変化(クエスト進行)に応じて、便利な機能が随時解放されます。
『なにこれ……ゲームのチュートリアル?』
電波もつながらない異世界で、わざわざ親切なアプリの仕様説明が送られてきたことに、当然ながら亜希は困惑した。
誰が、何の目的で自分のスマホにこんなものをインストールしたのか。
不気味さはあるが、今はこのアプリに頼るしかないのも事実だ。
メッセージはそれだけではない。
チュートリアル文を読んだ後、メッセージ確認画面に戻り、先ほど届いたらしい新しいメッセージをチェックする。
【新着通知:新機能アンロックのお知らせ】
▶ 条件クリア(同行者による砦エリア防衛への多大な貢献)を確認しました。
▶ 新機能<帰還の道標>が利用可能になりました!
▶ 登録済みのワープポイント(現在地登録:命の泉)へ、対象者を安全に転送します。
『えっ……ワープ、できるの!?』
亜希は思わず声を上げそうになるのをこらえ、その下に書かれている内容に目を通した。
▶ ※注意事項:本機能の実行には「魔石(小20/中10/大1)」が必要です。
▶ チュートリアルミッション:魔石を確保し、アプリで<帰還の道標>を選び、魔法陣を発動してください。
もしこの機能が本当に言葉通りの効果を持つなら、あの恐ろしい死闘の森を、魔物に怯えながら歩いて戻る必要はない。
何より、明日の20時、出勤のタイムリミットにも間に合う。
『でも……魔石?』
亜希がアプリのマップ画面を開くと、自分がいる砦の内部だけでなく、外にもたくさんの反応があった。
これは、ストラグルウルフを倒した結果、周囲に転がっているものなのだが、そんなことを知らない亜希は“地面に結構落ちている石”なのだと勘違いした。
『私が、これを取りに行けば……洋市さんを助けられる』
倉庫の扉の向こうからは、兵士たちの慌ただしい足音や、怪我人の治療にあたる声がかすかに聞こえてくる。
まずは状況を確認しよう。
亜希は再び翻訳機能を起動させた。
【字幕】:「いやー死ぬかと思ったな」
【字幕】:「最初こそどうなるかと思ったが、結局あいつら逃げやがったからな!」
【字幕】:「親玉がやられたんじゃねえか?」
【字幕】:「ガッタとセミーンが、バルカスさんに報告に行ったらしいぞ」
戦いは終わった!
それなら洋市さんも帰ってくる……はずだけど。
洋市は今もどこかで、ゴブリンの姿のまま身を隠しているか、人間の姿に戻るために苦しんでいるんじゃないだろうか。
自分を助けてくれた恩人が、魔物として狩られないよう注意して、自分のために動いてくれていることを、亜希は看過できなかった。
『……ここで震えて待ってるだけじゃ、だめだ』
夜の街で客を相手にしてきた自負と、その環境で培われた図太さ、持ち前の行動力が、亜希の背中を押した。
彼女はスマホをしっかりとジッパー付きのポケットにしまい、深呼吸をして倉庫の扉に手をかけた。
洋市が人間になれる状況を作るために。
そして、二人で無事に日常へと帰るために。
亜希は自らに課せられた「ミッション」をこなすべく、静かに倉庫を抜け出した。




