第十七話
「あんたたち!大変だよ!魔物がたくさん砦に集まってきた!ここは危ないから平野側の入口に行きな!」
扉越しに響いた宿の女将の悲痛な叫びに、洋市と亜希は弾かれたように顔を見合わせた。
先ほどまでの比較的穏やかな空気が一変し、外からは魔物の遠吠えや、金属と何かがぶつかり合う音、そして兵士たちの怒号が入り混じった異様な空気となっている。
洋市は少し迷って、胸の紋章に右手を当てた。
緑色の皮膚は人間の肌へと、尖った耳と四白眼の姿は塩顔のそれに戻った。
> 人間形態維持:開始
> 残り時間:940分(1分ごとに1ポイント消費)
『いやあ……ここで変身するのはまずいよなあ』
人間の身体に戻った瞬間、洋市は急に身体が重く、視界が狭くなったような感覚に陥った。
ゴブリンの姿の方が「息がしやすい」と感じている自分にツッコミを入れたくなるが、今は自己の精神状態を分析している余裕はない。
おそらく、人間の姿でなければ、避難する人混みの中で「魔物が紛れ込んでいる」と同士討ちにあう危険性があるだろう。
あるいは、このドサクサに紛れていったん現代に戻るという方法もある。
「亜希さん、急ぎましょう。忘れ物はないですね?」
「は、はい!スマホも持ってます!」
洋市は扉を開け、混乱する廊下へと飛び出した。
一階の宿屋から平野側の門(後方)へ向かおうとする商人や旅人たちで、砦内はごった返していた。
『女将さんは平野側に逃げろって言ってたけど……本当に安全だろうか?』
洋市はフリーランスとしての経験則から、逆張り的に考えていた。
魔物にどのくらいの知能があるかは分からないが、この砦は四角形に囲まれているため、頭の良いボスがいるならすでに砦の周囲を囲っているのではないか?
または、個々の魔物の中に賢い個体がいて、森側には獲物が少ないから平野側に移動しようとする奴もいないとも限らない。
そんな洋市の嫌な予感を裏付けるように、亜希がポケットから取り出したスマホの画面を凝視し、声を上げた。
「よ、洋市さん!これ、こ、見てください!」
しどろもどろで話しながら亜希に見せられたスマホの画面には、【アルトヤ界観光ガイド】の翻訳機能によって、外で飛び交う怒号がリアルタイムで字幕化されて流れていた。
【字幕】:「死闘の森側からウルフの群れだ!壁をよじ登ろうとしてるぞ!」
【字幕】:「数が多すぎる!冒険者どもを北壁に集めろ!」
【字幕】:「おい、平野側にも影が見える!こっちも囲まれてるぞ!!」
「……どうやら、魔物は低能ってわけじゃなさそうだ。どうすれば自分が獲物を狩れるか考えながら動いている奴がいるんだ」
残念ながら、洋市の推測は当たっていた。
平野側へ逃げたところで、外に出れば待っているのは魔物の牙、ということになる。
「洋市さん、ど、どうしましょう!?」
亜希は震える手でスマホを握りしめている。
その一方で、自分が「状況を把握できている」という事実から、かろうじて冷静さを保ててもいるようだ。
洋市は一瞬だけ目を左にそらし考えた後、亜希に提案した。
「亜希さん、日本へ帰りましょう。私が浅はかでした。この世界は私たちが生きるのには厳しい環境かもしれない。今なら混乱に乗じて素性を説明することなく逃げられます」
洋市がそう言うと、亜希は少しだけホッとしたように小さく頷いた。
しかし、すぐに心配そうな顔に変わり、洋市に確認する。
「この状況から戻れますか?帰ろうとしても、魔物がたくさんいたら結局……」
「……スキル【隠密】があれば、存在を悟られずに逃げ切れるかもしれません」
「……それと、私たちがもし逃げて、それをこの人たちが“いなくなった”と思って探しているうちに殺されてしまったら……?」
「……確かにそれは……しかし、私たちにできることは……」
この砦にいる人々は、洋市が想像していた以上に親切だった。
よくよく考えれば、素性の知らない人間を“武器を持っていない”程度の理由で砦の中に通し、しかも一宿まで確保してくれた。
そこで何もしないで逃げるというのも、確かに気が引ける話ではある。
洋市が亜希の意見に戸惑っていると、亜希は思い切って、言った。
「洋市さん、あのでっかい蛇になって、魔物を丸呑みしたりとか、できませんか?」
「それは……やってみないと分かりませんが、仮にできたとして、その状況をどう説明するんですか?」
「自称ですけど、私は何か言い訳を考えるのが得意なんです。この砦の中にいる人たちは、私の感覚だと話が通じない感じじゃない、ですよね?洋市さんの話を聞く限り、見張りの人もヒゲのおじさんも、変な姿の私や洋市さんを不審ながらも害はないと認めてくれた」
ヒゲのおじさん、そういえば説明時に名前を伝えていなかったと洋市は思い出し、補足しながら返す。
「バルカスさんですね。ただ、ゴブリンや大蛇となると話は別……」
洋市が話し終える前に、森の出入口側から大きな破裂音がした。
その後、誰かが大声でコミュニケーションを取り合っているのが聞こえる。
「おいノア!まだ本調子じゃねえんだろ!そんなにぶっ放して大丈夫か!?」
「そんなこといったって、この数じゃ、さっさと殺らないとこっちが殺られちゃう!」
「セミーン、このままじゃ砦が壊される!俺たちはいったん下りて扉付近だけでも撃退するぞ!」
「ガッタ、私は横の壁側の応援に行く!あっちは手薄すぎる!」
洋市は“ノア”という名前に聞き覚えがあった。
確か、かつて自分が意図せず大蛇を倒した後、逃がすのに成功した人たちの仲間だったか。
いわゆる“パーティー”を組んでいるのか、この砦を守るために尽力しているようだ。
『このまま、知らぬ存ぜぬで逃げおおせた方が、後々になって行為をとがめられるか……?』
自分の利己的な発想が、むしろ人々を助ける方向に働く皮肉に、洋市は心の中で苦笑した。
しかし、同時に彼らがいるなら説明もしやすいのではないかと判断し、亜希に伝える。
「亜希さん、私はこの砦を守るのを手伝うことにしました。もし、スマホの中にあるアプリを触ってみて、何か役に立ちそうな機能があれば援護してください。難しければ、まだ魔物がいない場所にいてください」
「えっ?は、はい!分かりました!」
とっさに分かりましたと言ったものの、亜希は具体的にどんな行動を取るべきかは考えていなかった。
しかし、洋市が目の前でゴブリンに変化したのを見て、洋市がやる気であることを悟り、とりあえず送り出すことにしたのだった。
> 【人間味】 70/100 に上昇
洋市の頭の中でアナウンスが聞こえた。
『誰かを安心させる行動をとると、人間味が上がる……。やはりそういうシステムか』
洋市は頭の片隅で冷静に分析しつつ、周囲を見渡した。
囲まれている以上、平野側に向かうのは悪手。
「亜希さん。石造りの建物の中に隠れてください。戦えない人が集まっているようなら、別の安全そうな場所へ。私はどこか目立たない場所で変身して戦います」
亜希はうなずき、女性や非戦闘員と思われる人たちが動いている場所へ向かった。
それを確認した後、洋市は砦の中にある木陰に入り、右手を胸の紋章に当ててゴブリンに変化する。
> 人間形態維持:停止(残り935分)
『何だろうな、こっちの方が身体が軽い気がする』
変身が完了した瞬間、洋市はなぜか少し活き活きとした感覚を覚えた。
まだ明るい時間帯ということもあり、夜目にはつらいが、影に隠れていればしのげる。
『まずは、森側の出入口をサポートしよう』
洋市は、知った声の聞こえる方へ、塀や木が作る影を伝うようにして走り出した。




