第十六話
洋市が読んだ本は、この砦が属する国、すなわちレゾルグ王国の最上法というものだった。
バルカスに何の本か聞いてみると、かつて大陸の世界各国を巻き込む大きな戦争があり、その後人種を問わず国民を束ねるための法律が必要ということになり、できあがった法律らしい。
『なるほど、日本における憲法みたいなもんか』
本を読み上げているとき、自分の頭にある知識がそのまま口から出たような感覚があったため、そのあたりは日本国憲法から影響を受けている部分はあるかもしれない。
そう思いながら、洋市は乱れた呼吸を整えながら、バルカスと話を続けていた。
「んまあ、怪しいっちゃ怪しいが、悪人ってわけでもなさそうだ、ってのは分かった。正直、死闘の森を抜けてきただけでも運が良かった。知ってるかもしれんが、休むなら一階に宿屋があるから、そこを使え。話は通してある。ただし、夜間は勝手に出歩くなよ」
バルカスのその言葉を最後に、洋市と亜希は何とか尋問を乗り切り、部屋を後にした。
廊下に出た瞬間、洋市は小さく、しかし深く息を吐き出した。
冷や汗でパジャマが背中に張り付いている。
加えて、洋市を最も焦らせていたのは、視界の右上にタイマーのように表示され続けている数字だ。
人間形態維持:948/980分
バルカスの部屋で話をしている間、人間形態維持の時間は減少しており、このままでいるといずれ見た目がゴブリンになってしまう。
今の洋市にとって、この「分」は命そのもの、あるいは社会的な存在意義に直結する最も重いコストにさえ感じられた。
「……あの、洋市さん?とりあえず大丈夫だったんですか?」
そう心配する亜希に、洋市はこれまでのやり取りを報告した。
「とりあえず、宿に一泊させてもらえるようです。早く部屋を確保して、人の目がないところに行かないと」
少しでも時間を節約したいと考え、洋市は宿屋へ向かった。
宿屋のカウンターには、人の良さそうな丸耳の中年女性が立っていた。
洋市は愛想よく笑いかけながら、自分が遠方から来た商人で、魔物に襲われて記憶を失ったらしいこと、バルカスに教えてもらってこの宿に来た、といった内容を適当に話した。
「大変だったねえ。近頃はあんたたちみたいな人が結構森で見つかってるんだ。もっとも、魔物を狩りに行った先で亡骸が見つかることがほとんどらしいけど。砦の中だから、窓も一つしかなくて落ち着かないと思うけど、まあゆっくり休んでおくれよ」
事情はよく分からなかったが、洋市たちは自分たちが疑われにくい状況が作られていることに安堵し、まずは一泊させてもらうことにした。
案内された部屋は、木製の簡素なベッドが二つ並んだだけの狭い空間で、ベッドの間に屋根窓があり、鍵がかけられる扉がついていた。
部屋に入り、しっかりと内鍵をかけたのを確認した瞬間、洋市はすぐさま自分の胸に右手を当てた。
紫色の紋章が光を放ち、パジャマの下で、洋市の骨格が軋みながら変異していく。
数秒後、そこに立っていたのは、再び緑色の皮膚と鋭い爪を持ったゴブリンだった。
人間形態維持:停止(残り940分)
『……ふぅ。なんだか、こっちの姿の方が息がしやすい気がする』
身体の強張りが解け、感覚が研ぎ澄まされる。
人間の姿でいる時は、まるでサイズの合わない窮屈なスーツを着ているような疲労感があった。
これも、おそらく人間味が減少していることの現れだろう。
自分の本質が、確実に人間から離れつつある恐怖は、洋市の心の片隅に存在している。
しかし、今はそんなことよりも人間形態維持に必要なポイントの節約が最優先だった。
亜希は、再び目の前で怪物の姿に戻った洋市を見て一瞬だけ肩をビクッとさせたが、すぐに小さく息をついてベッドに腰掛けた。
「……正直、少しずつ慣れてきちゃいました。その姿に」
「不思議と私も悪い気はしないんですが、やはり人に見られてはまずいと思うので」
「あの、洋市さん」
亜希はリュックの中から、ジッパー付きのポケットに入れていたスマホを取り出した。
画面の右上には『圏外』のマークが出ているが、亜希は構わず先ほどインストールされた【アルトヤ界観光ガイド】を見せた。
「さっき、バルカスさんの部屋に行く前に……これ、見てください」
亜希から手渡されたスマホの画面を見て、洋市はゴブリン独特の四白眼を大きく見開いた。
【アルトヤ界観光ガイド】
▶ 現在地のマップと翻訳機能が利用可能です。
「……なんだこれ?圏外なのに、アプリが動いてる?」
「はい。勝手にダウンロードされてたみたいで。さっき、洋市さんが異世界の言葉を読んでるのを見て、もしかしてこれを使えば、私にも言葉が分かるんじゃないかって思って」
洋市はスマホを亜希に返した。
「誰かで試してみたいところですが、まだそのタイミングではないかもしれません。この世界は良くも悪くも日本とはかけ離れています。それを見せることで悪い奴に狙われるかも……」
「……ですよね」
亜希が言い分に納得しかけ、下を向こうとしたとき、あることに気付いて再び洋市に話しかける。
「あの、まだ電池もあるみたいですし、これから誰かと話をする機会があるなら、このアプリで話を翻訳してみてもいいですか?」
「えっ……一応、私は相手の言ってることが分かりますけど」
「万一、洋市さんとはぐれたとき、きちんと翻訳してくれるかどうか確認したいんです」
そう聞いて、洋市はその可能性を否定できなかった。
現状、二人が魔物や悪人と遭遇した際、戦う力を持っているのは自分だけ。
そのような状況で亜希が離れた際、現地の言葉が分からないのは問題だ。
「正しく機能するか、確認は必要かもしれません。ただ、スマホ自体は見られないようにした方がいいでしょう。レコーダー的に使ってみるのが安心ですかね」
「はい、ポケットに入れたままにして、人のいないところで話を翻訳できているかどうか確認します」
話がまとまったところで、洋市は冷静に考察を始める。
洋市の感覚だと、おそらく、これは単なる偶然ではない。
亜希は洋市の【クエスト:契約・隣人の盾】の対象であり、いわばパーティーメンバーのようなものとして、この世界に認識されているのかもしれない。
どんな存在が、亜希にスマホを介してツールを与えたのかは分からない。
しかし、彼女が生き残るための最低限のツールとして、その存在が現代のデバイス(スマホ)をハッキングしてこの機能を与えたと考えれば、無理やりではあるがつじつまは合う。
問題は、その意図である。
洋市自身も、なぜこのような身体になったのかは分からないし、どうして自分だけ異世界人の言っていることが分かるのかも定かではない。
亜希を自分が仲間、もしくは守護対象として認識したことがスイッチになっているなら、今後も似たような現象は起こるのかもしれない。
とはいえ、自分たちにとってプラスの現象であるなら、それを享受した方がよいだろうというのが洋市の認識であった。
「とりあえず、これからどうするか考えましょうか。いつまでもここにいるわけにはいきませんが、幸いにしてこの砦の場所は把握できました。私には【マッピング】という能力があるようで、過去に行ったことのある重要なスポットの場所が分かるようなんです。簡単ですが」
「そうなんですか!私も観光ガイドみたいなツールが手に入りましたし、これならマズいときにこっちの世界に逃げ込めますね」
「そうですね。ただ、毎回この砦に足を運ぶのは、かえって不審に思われるので、何かまっとうな理由を作らないと……」
近い将来について、二人が部屋の中で打ち合わせをしていると、窓の方から騒ぎ声が聞こえてきた。
その後、ほどなくして宿屋の女将がドアをノックした。
「あんたたち!大変だよ!魔物がたくさん砦に集まってきた!ここは危ないから平野側の入口に行きな!」
唐突な襲撃の知らせに、洋市と亜希は互いの顔を見合わせた。




